第8章 女の嗜み猛特訓

 菜穂子は、妻としての役割をきちんとこなしている。食事をきちんと作り、掃除洗濯もしてくれる。ぼくが入浴すれば、きちんと下着も揃えてくれている。以前はランニングシャツにトランクスだったけれど、今はブラとショーツだ。寝間着までは買い換えると言わない。以前の男物のパジャマが揃えて置いてある。
 だから、朝起きると、その日着ていくものも揃えてあるのだけれど・・・・。
 日曜日の朝。ベッドから起き上がって足元に揃えられた服を見ると、昨日買ってきたスカートにブラウスが置かれていた。
 「菜穂子。これ、止めようよ。他のパンツにしてよ」
 「だめ。それ着ないと、ご飯、食べさせてあげない」
 ぼくはガックリ来る。うええん。泣きたいよ。何を言ってもパンツは出してくれそうもない。ぼくは仕方なくブラウスを着て、スカートを穿いた。
 「こんなもんかな?」
 「うん、可愛いわ」
 「止めてくれよな」
 「そんな言葉遣いおかしいわよ。ちゃんとして!」
 「・・・・もう!」
 「可愛いから、可愛いって言ってるんでしょう? 何が悪いのよ」
 菜穂子の顔は笑っていた。ぼくはふてくされる。
 「さあ、食事にしましょう。今日はパン食だからね」
 ぼくは黙ってテーブルに着く。
 「ほらほら。スカートの時は、こうやって、両手をお尻に廻すのよ」
 「どうして?」
 「スカートが皺になるでしょう?」
 「分かったわよ」
 ぼくはむすっとして食パンを噛り、サラダを口に運んだ。

 菜穂子は洗濯機で洗濯していたものをベランダに干し始めた。女物ばかり。いいのかなと思う。
 女の一人暮らしは危ないから、男物を一緒に干すという話しを聞いたことがある。以前はぼくのものを干していた。だから、大丈夫だったけど、今は女物ばかりだ。表札だって、千春に菜穂子だ。強盗なんかに襲われたりしないだろうなと思ってしまう。しかし、男物のパジャマが混じっているからいいかと納得する。
 こうやって洗濯物を干している菜穂子の後ろ姿、とくに丸いお尻を見ていると、むらむらとしてくる。ぼくはやっぱり男だ。男だったらペニスが勃起するんだろうけど、今のぼくは・・・・、乳首がきゅんとなる。
 女の菜穂子に欲情している女のぼく。これはレスビアン状態なのか? 訳、わかんないな。

 「今日は、お化粧の練習しようか?」
 ぼくは項垂れたまま、ドレッサ−の前に座った。男に戻らない限り、化粧は避けて通れない。
 化粧水、乳液、ファウンデーション、フェイスパウダー、チーク、アイブロウ、アイシャドウ、リップ、リップグロス。・・・・疲れる。
 「すぐに慣れるわよ」
 「慣れたくない」
 「早くグロスを塗りなさいよ」
 美容院でしてもらったほど上手くいかないけれど、まずまずの仕上がりだった。
 「ひとりでできるようにしてね」
 「はあーい」
 と力無く答えるぼく。

 「あら、もう10時だわ。おやつにしましょうか?」
 「おやつなんてしたら、太らないの?」
 「その分、食事に気を付けてるわよ」
 「あっ! わたしにはそんなこと言ってなかったわね」
 「少し太って貰わないと、わたしが惨めだから」
 「自分がダイエットしないで人を太らせるなんて、そんなのひどい!」
 「ひどくない」
 「自分勝手!」
 「わたしの勝手。体型を維持したいなら、自分でコントロールしなさいよ」
 「うん、もう・・・・」
 男の時は、カロリーがどうかなんて考えてなかったから、すべて菜穂子任せにしていた。しかし、女は体型を維持しようと思ったら、人任せにはしておられない。女って、・・・・頭が痛い。
 「どうするの? 食べるの? 食べないの?」
 「シュガー抜きの紅茶だけいただきます」
 「かしこまりました。わたしは、クッキーを2枚いただきます」
 それくらいは我慢できる。だいたい、ぼくは間食の習慣がないのだ。いつもお茶を飲むだけだから。だけど、美味しそうにクッキーを食べる菜穂子を見ていると、ごくりと唾が出た。
 ダージリンの紅茶をふたり並んで飲んだ。こうしてゆっくりお茶するなんて久しぶりだなと思う。いつものぼくは、日曜日と言えば、朝早くから釣りに出て、夕食時期まで帰ってこないからだ。女の身で、ひとりで釣りに行くなんてとてもできそうもない。

 「千春!」
 「・・・・なによ!」
 「ああっ! 険悪な雰囲気」
 ぼくは、機嫌が悪い振りをしていた。たまには菜穂子を困らせてみたかったのだが・・・・。
 「怒った振りしてもダメだよ。わたしには分かるんだから」
 「・・・・分かった。菜穂子には負けた。今度は、いったい何?」
 「女が、そんなに足を広げて座るものじゃないの!」
 ピシャリと腿を叩かれた。ぼくは慌てて膝を閉じた。
 「そのスカートだから見えないけど、膝上丈になったら、ショーツが丸見えよ」
 「そんな短いスカートなんて、穿かないからいい」
 「そのうち穿くようになるわ」
 「ならない」
 「賭けする?」
 「よし賭けましょう。何賭ける?」
 「昨日試着したけど、高くて手が出なかったスーツ」
 「あれ? ・・・・あれかあ」
 9万8千円だったなあ。負けるとボーナスがだいぶなくなるぞ。
 「勝つ自信、なし?」
 菜穂子はにやにやしながら、ぼくの目を覗き込む。
 「うーん。もっと安いものにしようよ」
 「やっぱり勝つ自信がないんだ」
 「ええい。清水の舞台から飛び降りた。それで行きましょう」
 「それでこそ男・・・・じゃない、女ね」
 ぼくたちは顔を見合わせて笑った。

 「千春。何かものを食べたり、飲んだりしたら、必ずリップを点検すること」
 「塗り直すんだね」
 「それとさあ、そんなに唇を嘗めるもんじゃないの!」
 「これ。くせだから・・・・」
 「そんな癖は女には不向き!」
 「何にもできないよう・・・・」
 「女は制限が多いの!」
 「男女差別反対! 女に自由を!!」
 「馬鹿なこと言ってないで、早くリップを引き直しなさい」
 泣きたい気分。ホント。世の中の女性諸子はよく我慢して生きてるよ。女になりたい男の気持ちがよく分からない。あああ、早く男に戻りたいよう。
 「リップの点検と一緒に、化粧も点検すること。テカリが見えたら押さえるのよ」
 「はあい」
 ぼくは項垂れて返事した。

 「お料理の練習もしておく?」
 「菜穂子がやってくれるんだろう?」
 「そうなんだけどね。女の嗜みとして覚えていたほうがいいかなって思って」
 菜穂子の口調は、ぼくにやれってことだ。ぼくはリビングのソファーから立ち上がって、キッチンへと向かった。
 「あら? 素直なのね」
 「菜穂子といると素直にもなるわよ」
 「教育がいいのかしら?」
 「その通りでございます」
 菜穂子がぼくにエプロンを掛けてくれた。男子厨房に入ろう会じゃあるまいし、エプロンするなんて思っても見なかった。
 「はいタマネギ。半分あげるから、わたしと同じように切って」
 「はい、はい」
 「返事は一度!」
 「はい」
 「その調子」
 半分に切られたタマネギをスライスした。涙が出た。
 「まな板を濡らしておくと、涙を出す成分が水に吸収されて、涙が出にくいのよ」
 「もっと早く言ってくれなきゃ」
 「それは悪うござんした。次は人参よ」
 「何作るの?」
 「焼きそば」
 「焼きそばねえ」
 「ホットプレートで焼きながら食べるの。美味しいわよ」
 「それは楽しみだ」
 人参に続いてピーマンを切った。
 「はい、もやし」
 「モヤシも切るの?」
 「モヤシは切らないけど、この黒いやつ。取るの」
 「ひとつひとつ取るの?」
 「そう」
 「めんどくさいよ。食べられるんでしょう?」
 「美味しくないから取るの。取った方が格段に美味しいわ」
 「いつもこんな風にしてるんだね」
 「そうよ」
 「頭が下がります」
 「主婦も大変なのよ」
 「感謝しておりますです」
 ぼくは大袈裟に頭を下げた。
 「さあ、材料はそろったから作りましょう」
 「焼きそばのそばは?」
 「冷蔵庫。すぐに出すわ。ホットプレートを暖めて、野菜を炒めてて」
 「はい、了解」
 ホットプレートで野菜をじゃあじゃあと炒めていると、菜穂子がそばを放り込んだ。ほぐれたところで、塩こしょう、焼きそばの元を言う粉末を入れ、さらにお好み焼きソースをぶち込んだ。
 「さあ、熱いところをいただきましょう」
 向かい合わせに座ってそばをつつく。
 「これ、最高!!」
 「熱がもっと高いと、もっと美味しいんだけどね」
 ぼくはにこにこ顔で焼きそばを頬張った。自分で作った料理は美味しい。

 焼きそばを食べ終わって、リップを引き直そうとすると菜穂子に止められた。
 「一度化粧を落として、練習しましょう?」
 そう言うわけで、洗面所で、クレンジングで化粧を落とした。
 「もっと綺麗に落とさなくちゃ。お肌が荒れるのよ」
 もう一度洗顔をやり直した。
 「さあ、今度はひとりでやってみて」
 手順を思い出しながら、化粧してみた。ぼくには才能がある。上手くできた。
 「へえ。お上手、お上手」
 菜穂子が手をパチパチと叩く。

 午後はゆっくりテレビを見て過ごした。ゆったりした時間が過ぎていった。1時間ほど、ふたりで寄りかかって眠っていた。
 男に戻った夢を見た。もの凄く喜んではしゃぎ回ったのに、目が覚めたら、やっぱり女のままで、もの凄く落ち込んだ。

 夕方になって、ベランダから取り込まれた洗濯物を、菜穂子と一緒になって畳んだ。一枚一枚丁寧に畳んでいく。ぼくのものと菜穂子のものを分け、それぞれのタンスの中にしまう。確かに主婦業は大変だなと思った。

 夕食の準備も手伝うと言ったのに、いいからと言われて、ぼくはテレビを片目で見ながら、菜穂子の後ろ姿を眺めていた。

 夕食がすんで後かたづけも終わり、浴槽にお湯を貯め始めるや、菜穂子がぼくのいるソファーにやってきて唇を合わせた。
 「ど、どうしたの?」
 「千春。可愛いわ」
 「なによ。急に」
 「あなたに一度女装させてみたかったんだ」
 「ええっ!?」
 「千春って、名前だけじゃなくて、ほんと女の子みたいに可愛いんだもの」
 「だからって、女装させたいなんておかしいわよ」
 「そうかなあ。わたし、おかしいのかな」
 「絶対おかしいわよ」
 「願いが叶ったから、男に戻ってくれないかなあ」
 「菜穂子が、ぼくが女になるように願ったの?」
 「別に願かけたり、魔法をかけたりしたわけじゃないよ。あなたと知り合った頃から、女装させたら可愛いだろうなって思っていただけよ」
 「そっかあ」
 「早く元に戻ってよ」
 「そんなこと言っても・・・・」
 「女になった原因が分からないからねえ」
 「・・・・何が原因なのかしら?」
 「原因はともかく、完全に元に戻らなくてもいいわ」
 「ええっ!?」
 「姿は女でも、わたしはペニスさえあればいいんだけどなあ」
 「な、何を言うのよ」
 「千春、可愛いいから、一緒にいても男が振り返ってくれるでしょう? 男の千春とだったら、誰もわたしを振り向いてくれないものね」
 「なに? それは?」
 「結婚していても、女はいつも振り返ってみられたいの」
 「分かるような気がするけど・・・・」
 「それでもって、夜も満足させてくれると最高!!」
 おいおい、止めてくれよな。それなら、ニューハーフと結婚すりゃあよかったんだ。ぼくは、頭を抱えてバスルームへ向かった。

 朝も夕方も、菜穂子の後ろ姿を見ながら欲情していたのに、ペニスさえあればと言う菜穂子の言葉が耳にこびりついて離れず、気分は萎えてしまって、菜穂子が迫ってきたのにその気にならなかった。
 菜穂子は、自分で自分を慰めたようだ。可哀想な菜穂子。早く元に戻りたい。