第6章 女として

 終業時間になった。ここ数日のように、こそこそ帰る必要がなくなって、ぼくの心は少し安らいでいた。
 「そのジャケットと靴、二三日貸してあげるからね」
 「ありがとう。明日にでも返すよ」
 「明日って、明日から着るものあるの?」
 「菜穂子に頼んでみるよ」
 「ああ、そうね。菜穂子さんがいたんだっけ。じゃあ、また明日ね」
 「じゃあな」
 「杉本さん」
 「なに?」
 「・・・・何でもないわ。じゃあね」
 小泉さんは何を言いたかったんだろうか? 首を傾げながら、ぼくは家路についた。

 女になった初日、帰りのバスの中でも痴漢に遭うんじゃないかと思っていたけれど、帰りのバスは朝ほど混んでいない。座って帰れることだってある。だから、痴漢に遭うことはなかった。今日も、空いた席があったので、座って帰れた。朝が問題だな。明日の朝が憂鬱だ。

 「ただいま」
 「お帰り。あら? そのジャケットどうしたの?」
 リビングで雑誌を読んでいた菜穂子は、ぼくの姿を見るとぼくに駆け寄ってきて、ぼくの姿をまじまじと見た。
 「同期の小泉さんが貸してくれたんだ」
 「よく似合うじゃないの」
 「そうかな?」
 「でも、そんな格好したら、女になったことがばれるんじゃないの?」
 「女になったことを会社のみんなに告白したんだ」
 「ええっ!?」
 菜穂子は目を丸くして驚いた。ぼくがそんなことをするとは思ってもみなかったのだろう。
 「みんなが妙な目で見るし、仕事がはかどらなくなってきたから、女になってしまったことを言ってしまったんだ」
 「大丈夫だった?」
 「みんな、何も言わずに受け入れてくれたよ」
 「よかったじゃない」
 菜穂子はにっこり微笑む。心配事がひとつ減ってホッとしたという感じだ。
 「うん。それで、菜穂子に相談があるんだ」
 「なに? 相談って」
 「女になったことを告白したから、明日から無理に男の格好をしなくていいんだ」
 「あっ、そうね」
 「スカートなんて、ちょっと穿く勇気はないから、今のぼくが来てもおかしくないような服、ないかなあ」
 「そうねえ。ちょっと待って、タンスの中を探してみるわ」
 「サイズはぼくに合うの?」
 「大丈夫だと思うわ」
 しばらくして、菜穂子は自分のお古を取り出してきた。
 「このブラウスは入ると思うわ。パンツはどうかな? ウエストが入るかな?」
 「ちょっと着てみるよ」
 ブラウスは胸がきつかった。パンツはウエストに余裕があった。
 「何よ!! わたしよりスタイルがいいって、どういうことよ」
 「ぼくの所為じゃないよ」
 「うん、もう」
 菜穂子は膨れっ面になって口を尖らせた。
 「着られないことはないよ」
 「パンツはベルトで絞ればいいけど、ブラウスはダメね。これはどう?」
 そのブラウスは、去年の春、気に入ったからと買ってきたのに、サイズが大きくてしまい込んでいたものだった。着てみると、ぼくにはちょうどよかった。
 「あああ、気に入ってたのに、盗られちゃった」
 「そう言うなよ。どうせ菜穂子は着られないんだから」
 「そうね。ま、いいか」
 「明日はこれを着ていこう。土曜日に一緒に少し買い出しに行ってくれないか?」
 「そうね。一着というわけにはいかないからね。それに、世帯主がわたしのお古じゃ可愛そうだからね」
 「頼むよ。頼まれついでに、もうひとつ頼まれてくれないかな」
 「なんなの?」
 「この髪を何とかしたいんだ。これくらいの長さがあったら、女らしい髪型になるんじゃないかって言われたんだけど、何とかなるかなあ」
 菜穂子はぼくの髪の毛をつまんで、長さを確かめた。
 「そうね。何とかなるでしょう」
 「一緒に美容室に行ってくれないか?」
 「今から?」
 「まだ開いてるんじゃないのか?」
 「午後6時半だよ。今日は無理ね」
 「どうしたら・・・・」
 「土曜日にしましょう。買い出しのついでに」
 「明日は・・・・」
 「今日までそのまま行ってたんでしょう? もう一日くらい我慢したら?」
 「仕方ないな。じゃあ、土曜日に一緒に行ってよ」
 「はいはい」

 菜穂子は、ぼくが女になってしまった後も、以前と変わりなく接してくれている。夜の生活も、菜穂子があの夜ぼくにやったのを思い出しながら、何とかしてやっている。ホントにそれでいいのか分からないけど、菜穂子は何も言わない。
 ぼくは菜穂子に攻められると、ほとんどの場合達している。・・・・と思う。男とやったことがないから、これが女としての最高の歓びなのかどうかは分からない。まあ、男とやったからと言って、達するとは限らないけれど。

 夕食がすんで、シャワーを浴びてリビングに行くと、菜穂子がメジャーを持って待っていた。
 「何するんだよ」
 「下着がいるでしょう? サイズを正確に計っておくの」
 「MとかLじゃいけないの?」
 「ショーツはそれでいいけど、ブラはダメよ。きっちり測って、体に合うものを選ばないとね」
 「BカップとかCカップとか言うやつだね」
 「そうよ」
 「じゃあ、頼むよ」
 「上半身、裸になって」
 ぼくはパジャマの上とキャミソールを脱いだ。
 「何度見ても大きいわね。ホント、少しわたしにくれないかしら?」
 「あげられるものなら、あげたいよ。重くってしょうがないよ」
 「そんな経験してみたいわ」
 そう言いながら、菜穂子はぼくのサイズを測る。メジャーの冷たさが心地よい。
 「アンダーは71。トップは89。・・・・Dだわね。ものによってはEね」
 「Dカップもあるの?」
 「そう。測ったら、ますますわたし、落ち込んじゃいそう」
 「ごめん。こんなに大きくて」
 「あなたの所為じゃないんでしょう?」
 「そうだね」
 「ウエスト58。ヒップ88。あああ、ショック。男に負けるなんて・・・・。わたし、惨め」
 「ぼくは・・・・女だよ」
 「分かってるわよ!!」
 菜穂子よりぼくの方がスタイルがいいのをかなり気にしているようだ。あんまり口出しすると機嫌が悪くなりそうだ。ぼくは、黙っていることにした。饒舌は銀、沈黙は金なりだ。

 「わたしよりいい女の手伝いなんて、あああ、やだやだ」
 そう言いながら、菜穂子はメジャーを放り出して、ソファーにどさりと座り込んでしまった。
 「そう言わないでさあ。菜穂子がいないと、いい女になれないんだから」
 ぼくは、菜穂子の隣に座って哀願する。
 「ま、いいか。手伝ってあげる。そうね。次は眉毛ね」
 ぼくの眉毛を見ながら、そう言う。
 「眉毛!?」
 「そのゲジゲジ眉毛を何とかしないとね」
 人差し指でぼくの眉毛をなぞる。
 「どうするんだ?」
 「毛抜きで抜くの」
 エッとぼくは小さな声を上げた。
 「抜くって、痛いんじゃないの?」
 「痛いわよ」
 こともなげに菜穂子はそう言う。
 「やだよ」
 「千春! あなた、女なんでしょう? 女はみんな我慢してやってるんだから、つべこべ言わずに目を瞑ってじっとしてなさい」
 ぼくは口答えできず、言われた通りに目を瞑った。ベッドルームへ行った菜穂子は、ドレッサーから毛抜きを持ち出してきたようだ。
 「いてっ!」
 「我慢、我慢」
 ちくちくと鋭い痛みがする。菜穂子は鼻歌を歌いながら、ぼくの眉毛を一本一本抜いていった。スタイルでぼくに負けた腹いせに、ぼくを痛がらせて楽しんでいるようだ。
 目の上が痛みで充満する頃、ようやく眉毛の処理が終わった。目を開けると、山形の細い眉ができあがっていた。
 「なんか、顔がきつくなった感じ」
 「千春の顔が優しすぎるから、少しきつくなるようにしてみたの。その方がいいと思うわ」
 「そうかなあ」
 ぼくは顔を上下左右に動かして、顔を観察してみた。
 「優しいままでも、よかったなあ」
 「わたしのやることが気に入らないって言うの?」
 菜穂子が目をつり上げた。
 「そ、そんなことないよ」
 「じゃあ、いいでしょう?」
 「いい。気に入った」
 菜穂子はふふと笑った。まあ、全然だめと言うことはない。これくらいがちょうどいいのかもしれない。

 翌日、ぼくはショーツとキャミソールの上に、ブラウスとパンツを身につけた。前髪を下ろし、菜穂子に髪型を女らしくセットしてもらうと、鏡に映ったぼくは、可愛い女に見えた。
 「わおう。かっわいいんだからあ」
 菜穂子がぼくの後ろに立って感嘆する。
 「ホントにこれでいいかな?」
 「大丈夫。自信を持ちなさい。・・・・ちょっとお化粧する?」
 「い、いや。いいよ」
 「本格的な化粧はともかく、女がすっぴんじゃあねえ」
 「すっぴんじゃあいけないの?」
 「そんなことないけど・・・・。口紅くらいしようか?」
 「口紅だけだね。それならいいよ」
 口紅を塗ってもらった。自分で言うのも何だけど、ますます可愛くなった。
 「ふふ。似合うわ」
 「サンキュウ。ところで、菜穂子」
 「どうしたの?」
 「近所の人に見つかったらどうしよう?」
 「・・・・そうねえ。・・・・あなたの姉妹ってことにしたら?」
 「ぼくには女の姉妹はいないよ」
 「そんなこと、誰も知らないでしょう?」
 「そっかあ。それならそうしよう」
 「・・・・千春!」
 「なに?」
 「女になったのなら、言葉遣いも女にしなくっちゃ。おかしいよ」
 「そうか。そうだね。・・・・やってみるよ」
 「じゃあ、今からよ。3,2,1。スタート」
 高校の頃、英語の勉強のため、日本語を使っちゃいけないと、同級生同士で賭けをしたことがある。その時、英語が出てこなくて、黙り込んでいた。それと同じことになりそうだ。頭で考えながら喋るのは辛い。自然に女言葉が出るようになるのだろうか? それよりも・・・・。それよりも早く男に戻りたいようーーーー。

 朝食が済んで、口紅を引き直し、ぼくは菜穂子が出してくれたジャケットを着て、菜穂子のお古のショルダーバッグを肩に掛け、パンプスという女物の靴を履いてバス停へ向かった。
 昨日までのように、ぼくを振り返るものは誰もいない。ぼくは女に見られている。もの凄く安心した。

 バス停で、いつもの幼稚園児の女の子に出会った。
 「お姉ちゃん、今日はお姉ちゃんなのね」
 変な言い方だと思ったが、内容はよく理解できる。
 「女の子は女の子らしくした方がいいでしょう?」
 ぼくはにこり笑ってその子を見た。
 「お姉ちゃん、べっぴんちゃんだね」
 「まあ、ありがと」
 子供は正直だ。ぼくは女として認知されている。ますます安心した。
 周りにいる人たちも、ぼくの容姿と服装が一致して安心したのか、いつもより距離がなくなったような気がした。

 バスは相変わらず混んでいた。今日はぼくに痴漢行為をしてくるものはいない。どうしてだろう? 訳が分からない。
 会社に着いて、小泉さんに借りていたジャケットと靴を返し、尋ねてみた。
 「それはねえ。昨日までの杉本さんは、変な目で見られるかもしれないって、おどおどしてたでしょう?」
 「うーん。そう言えばそうかな?」
 「今日は女として自信を持ってたんじゃないの?」
 「うん。確かにそうだわ」
 「痴漢をする男って言うのは、ちゃんと見てるのよ。気が弱くって、抵抗しない女かどうかをね」
 「ひどいのね」
 「それが痴漢を働く男というものよ」
 「男に戻りたくなくなるわ」
 「その方がいいんじゃないの? 男なんて野蛮なだけよ」
 ぼくも男の時はそう思われていたんだろうか? ちょっと悲しくなった。
 「あっ! 杉本さんは別よ。あなたほど優しい人はいないんだから」
 小泉さんはぼくの考えていることが分かるのだろうか? 不思議な人だ。
 「ありがとう」
 「その眉毛、似合ってるわ」
 「菜穂子がやってくれたのよ」
 「さすがに夫婦ね。あなたの顔の長所を引き出すようにうまく揃えているわ」
 「へえ、そういうものなのね」
 「杉本さん、今日は女言葉なのね」
 「そうした方がいいだろうって、菜穂子が」
 「昨日、それを言おうと思ったけど、いらぬお世話かと思って・・・・」
 「あ、そのことだったの? わたしのこと、気にしてくれてありがと」
 「始業時間だわ。今日も頑張りましょう」
 「ええ」

 ぼくの働く部署には、男性7人と女性5人がいた。ぼくが女になってしまったものだから、男性6人女性6人になった。
 部署内は落ち着きを取り戻したと言ったけれど、まったく以前と同じというわけにはいかない。
 男性では、部長と佐竹という先輩は理解を示してくれるのに、あとの4人は、ぼくを無視するような態度が垣間見れる。
 それとは対照的なのは、女性陣だ。三国という最古参の女性を除いて、小泉さんを筆頭に4人がいろいろとぼくの世話を焼いてくれる。
 昼休みになって、その4人が紙袋を手にぼくのデスクに集まってきた。何だろうと思っていると、彼女たちは、紙袋から、ブラウスやセーター、パンツなどを取り出して、ぼくに着ろと言うのだ。
 「これ、杉本さんに似合うと思うんだけどなあ」
 「これ新品なの?」
 「新品じゃないけど、一度しか着てないわ。気に入って買ってきたら、自分には似合わないって分かって、タンスの奥にしまい込んでいたの」
 菜穂子と同じ様なことを女はみんなするようだ。似合うのが分かって買えばいいのに。と思ったが、口には出さなかった。
 「ありがとう」
 「着て見せて」
 「そのブラウスなら、わたしが持ってきたこのパンツと組み合わせるといいわね」
 「あ、それ、いいわね。わたしにくれない?」
 「だめよ。杉本さんのために持ってきたんだから」
 「残念だわ」
 「あれえ、杉本さんて、胸が大きいのね。昨日はそう見えなかったのにい」
 「ずっとサラシを巻いてたから」
 「あっ、それで」
 「ウエスト細いんだ」
 「昨日計ってもらったら、58とか言ってたわ」
 「わあ、負けちゃった」
 と言うような会話に囲まれて、ぼくは着せ替え人形のように何着か着せられた。
 「ほんとに頂いていいの?」
 「いいわよ」
 彼女たちの好意にはお礼のしようもない。
 「これ穿いてみる?」
 小泉さんが取り出したのは、フレアのロングスカートだった。ぼくは一瞬考える。
 「スカートはまだ無理じゃないの?」
 一番若い小野さんが言う。
 「短くないから、穿けるんじゃないかと思って・・・・」
 「ちょっと勇気がないわ」
 ぼくは小さな声で答えた。
 「そうでしょう?」
 「じゃあ、持って帰って家で試してみて。もし着られたら、普段着にでもして」
 「ありがとう」
 「わたしもいらなくなったスカート、持ってきてあげるから」
 「お古ばかりじゃ、可哀想よ」
 「ブランド品よ」
 「坂田、ブランド品なんて持ってたの?」
 「何よ、もう・・・・」
 みんな一斉に笑う。今まで、女性陣とは一線を画していたけれど、ほんとに仲良しになれそうだ。
 そう思いながら、男性4人の気持ちも分かるような気がした。同じ職場で、同じ仕事をこなしているけれど、今やぼくと彼らは住んでいる場所が違うのだと。
 人生に於いて、男と女は同じ目的地へ向かっている。しかし、電車の線路のように互いが決して交わることはない。ぼくは、電車の線路の一方から、もう一方へ乗り移ってしまったのだ。