社長は何かとチャンスを作ってはぼくに迫ってくる。しかし、ぼくにはそんなつもりはない。
社長とのそんな駆け引きは別として、仕事自体は楽しい。来客へのお茶くみや、接待の席でのコンパニオン代わりの役割はイヤだけど、会社の中枢にいるというのは、快感すら覚える。
仕事に生き甲斐を感じると言うことは、性別には関係ないとは思うけど、こんな感覚はやっぱり男のものじゃないかなと思う。
ふだんの生活では、綺麗な服や短いスカートも好んで身につけるようにはなっているけれど、ぼくの中には男としての意識は消えていない。
夜寝ているとき、自分の体のことを考えることがある。ぼくの体は完全な女だ。生理もきちんとある。たぶん妊娠して子供も産むことができるだろう。
その前段階としてセックスがある。ぼくは男を受け入れることができる。まだ誰とも寝ていないから、つまりぼくは処女だから、どんな感じなのか分からない。やってみたいような気はする。
以前も考えたことがあるけれど、かなり女として暮らした今でも、具体的な相手はと言うと、どうもピンとこないのだ。同僚の男たち。ブーだ。仲の良かった同級生? これもブーだ。もっとも仲の良かった梅木とも、あの事件以来、疎遠になっている。社長? ぜんぜん。篠原さん? いい男だけど、やっぱりその気にはならない。
実は昔、女になってセックスしてみたいと思ったこともある。だけど、実際女になってみると、とてもそんな気にはならない。結局、ぼくはずっと処女のままでいることになりそうだ。強姦でもされない限り。
「もう、そろそろ1年になるのね」
朝食を食べながら、菜穂子がポツリと呟いた。
「あ、ああ。そうだね」
「仕事、楽しい?」
「うん。社長の片腕みたいなものだからね」
「・・・・そう」
「どうかした?」
「千春は、このまま、女のままがいいのかなって思って・・・・」
そう言われて、はたと返答に困った。男に戻りたくないわけではない。しかし、男に戻ったら、今の仕事が上手くやっていけなくなるのだ。社長秘書という仕事を続けていくためには、女であることが必須なのだ。社長は男に戻っても秘書をさせると言ってはいるが・・・・。
「男に戻りたいわよ。それが、本来ある姿だからね。ただ、仕事がねえ」
「千春にとっては、仕事の方がわたしより大切なのね」
「そ、そんなことないわよ」
「わたし、男に戻って欲しい」
「わたしだって・・・・」
「男に戻りたいって思ってないんじゃないの? だから、男に戻らないんじゃあ」
「そんなことないってば」
「ほんとに?」
「うん」
菜穂子はそれ以上何も言わずに箸を進めていた。何も言わすにぼくの世話を焼いていてくれたから、このところ、仕事にかまけて菜穂子に構ってやっていない。しかし、今のぼくに何がやれるというのだろうか?
仲の良い女友達にしかなれない。元々レズではないから、女同士のセックスも既に限界になって、このところ、抱き合って寝る以上のことは何もしていない。
菜穂子のためには男に戻らなければならないのに、仕事のことを考えると、躊躇いが生まれた。
女になった当初はこんな事は考えなかったのに、女であることによって今の地位が成り立っていると考えると、男に戻りたいという動機が薄れていたのだ。
会社に出ると、菜穂子との会話のことは忘れて、仕事の没頭していた。ぼくは自分の能力を遺憾なく発揮している。菜穂子が許してくれるなら、ずっと女のままでいたい。それがぼくの本音だ。
「千春君。夕食を一緒にどうだ?」
「今日は菜穂子と一緒に食べたいので・・・・」
今日は、一緒に食事をした方がいいと思っていた。ここ数日、夕食を共にしていなかったからだ。
「そうか。じゃあ、次回にでも」
「はい」
社長はぼくの様子が少しおかしいのを察して、すぐに諦めてくれた。
会社の仕事を終えて、アパートへ帰った。
「ただ今」
「早かったのね」
「たまには早く帰してって、社長に頼み込んで」
「そう」
「あれ!? 今日は豪華だね」
「もうすぐできるわ。シャワーしてくる?」
「そうね。そうするわ」
シャワーを浴びて、パジャマに着替え、食卓に着いた。食卓には、盆と正月が一緒に来たような食事が並べられていた。
「何かあったの?」
「何が?」
「こんなにいっぱいお料理を作って」
「あとで説明するわ。さあ、食べて」
少し妙な気がしたが、ぼくは並べられた料理に舌鼓を打った。
「美味しかったよ。だいぶ余っちゃったね」
「はい。お茶」
「ありがと。で、今日は何のお祝い?」
ぼくはニコニコしながら、菜穂子に聞いた。菜穂子は、ぼくの正面に座り直してポツリと言った。
「お祝いじゃないの」
「じゃあ、どうしてこんなに料理を作ったの?」
「これが千春に作って上げられる最後の料理だから」
「ええっ!!!」
ぼくは驚きに目を丸くする。最後の料理? 意味が分からなかった。
「千春。男に戻るつもりがないようだから、・・・・別れて欲しいの」
「別れるって・・・・」
「わたしは千春を愛しているわ」
「わたしだって」
「わたしは男の千春を愛しているの」
「・・・・」
そう言われて何も言えなかった。言えるはずがなかった。
「千春は、仕事が恋人みたいだから、男は必要ないだろうけど、わたしには、必要なの。夜の生活だけって言う訳じゃないのよ。わたし、赤ちゃんが欲しいの」
ぼくはガックリと肩を落とす。今のぼくにはそれは絶対に無理だ。
「わたし、千春のこと、愛しているわ。できれば、千春の子どもを産みたい。でも、それができない以上、別れるしかいわ」
「男に戻るよ。戻るように毎日祈る。仕事なんて馘首になっても構わない」
「わたしには分かるの。あなたが祈ろうと祈るまいと、あなたは男には戻らないわ」
「そんなこと・・・・」
「わたし、赤ちゃんが欲しい。女に生まれた以上、赤ちゃんを産んで育てたいの。あなたには、わたしのこんな気持ち、分からないでしょう?」
確かに分からなかった。そんなに赤ん坊が欲しかったなんて・・・・。ぼくは女なのに、菜穂子の気持ちが実感として感じられない。
「だから別れて欲しいの」
「元に戻れば、子どもを作って貰えるよ」
「いつ元に戻るかもしれないのに?」
そうだよな・・・・・。
「それに、千春が、男だったときも、2年もできなかったのよ。男に戻っても子どもができるって保証はないでしょう?」
確かに菜穂子の言うとおりだ。
「わたしたち、結局縁がなかったのよ。あなたが女になったのも、それをわたしたちに伝えるためだったのよ」
「菜穂子・・・・」
縁がなかっただなんて。ぼくは菜穂子を愛しているのに・・・・。だけど、女のままでは菜穂子を愛してやれない。
「ごめんね。千春。もう決心したの。片づけが済んだら出て行くわ」
ぼくは何も言えずに、ただ俯いて泣いていた。
蛇口から水が流れる音。カチャカチャと皿の擦り合う音。それがしなくなって、菜穂子のスリッパの音がしばらくしていた。ドアが開く音がした。ぼくは、目を上げて菜穂子を見た。
ドアに手をかけたまま、菜穂子は振り向いた。その目には涙が光っていた。
「菜穂子・・・・」
「千春。別れても、ずっと愛しているから」
そう言い残して、菜穂子はドアの向こうに消えていった。菜穂子の姿が消えたドアを、ぼくは呆然と見ていた。
菜穂子が出て行った後、ぼくはベッドの上で泣いた。泣きながら、菜穂子との出会いを思い出していた。
菜穂子と初めて出会ったのは、4年前の春のことだった。
いつものように小泉さんと近くの喫茶店へ昼食を摂りに行った。昼食がすんで、支払いをしているとき、財布から小銭がこぼれ落ちた。
「はい。これもあなたのでしょう?」
そう言って100円玉をぼくに渡してくれたのが菜穂子だった。
「ありがとう」
そう言ったまま、ぼくは、同僚らしい女性と店を出ていく菜穂子の後ろ姿とずっと見ていた。
「どうしたの? あの人が気になるの?」
小泉さんがにぽんと肩を叩かれて我に戻った。
「胸がどきどきする」
「わあ、一目惚れ?」
「そうかもしれない。こんな気持ちになったのは初めてだよ」
「あの制服、この近くの会社のものだわ」
「どこの会社か分かる?」
「調べて上げようか?」
「頼む」
その日、ぼくは仕事が手に付かなかった。
「杉本さん。分かったわよ」
午後5時少し前、小泉さんがそっとぼくに耳打ちした。
「どこの会社?」
「三ツ星商事の制服だと思うわ」
「三ツ星商事と言えば、すぐ近くだね」
「どうするの?」
「待ち伏せして声をかけてみるよ」
「ストーカーは止めるのよ」
「断られたら、諦める」
「頑張って」
ぼくは、午後5時になるやいなや、会社を飛び出して三ツ星商事へと向かった。
息を切らして三ツ星商事の前まで来ると、菜穂子が丁度ビルから出てくるところだった。菜穂子はぼくの顔を見ると、ちょっと嬉しそうな表情を見せた。
「ぼく、鳳ネットワークシステムの杉本と言います。もしよろしければ、夕食、一緒にいかがでしょうか?」
後で考えれば、随分不躾で無謀な申し出だと思う。しかし、菜穂子は快くイエスと言ってくれた。
近くの豚カツ屋で、一緒に食事した。
「木村さん、独身ですか?」
「勿論よ」
「よかった。君みたいな美人だったら、きっといい人がいると思ってた」
「いたら、あなたに付いてこないわ」
「それもそっかあ」
「あなたこそ、女の人はいないんでしょうね?」
「ぜんぜんさ。ぼく、背が小さいだろう? だから、彼女ができなくて・・・・」
「人は見かけじゃないわ。中身が重要なの」
「そう言ってくれると嬉しいな」
「中身は大丈夫なの?」
「えっ! 大丈夫と思うけど・・・・」
「ふふふ。気に入ったわ。杉本さんって、期待通りの人だわ。わたし、今日初めて会ったとき、あなたのことが好きになったの」
「えっ!? ほんと? 実はぼくもなんだ」
「じゃあ、お互い一目惚れって言う訳ね」
それから1ヶ月もしないうちに、ぼくと菜穂子は結ばれた。そして、半年後結婚した。ぼくと菜穂子はあつあつで、こんな仲のいい夫婦はいないと言われていた。
それなのに・・・・。
それなのに、どうしてこんな事になってしまったんだ!! 泣きながら、男に戻れと何度も祈った。男に戻れば、まだ菜穂子を連れ戻すことができる。
ぼくはそのまま泣き寝入りしてしまった。明け方、新聞配達の自転車の音に目が覚めた。目が醒めたとき、ぼくはやっぱり女のままで、菜穂子を取り戻せないことが分かって、再び泣いた。
午前7時の時報がなった。会社には行きたくなかった。しかし、行かなければならなかった。
鏡の中のぼくの顔は、ひどい顔になっていた。パジャマを脱いで着替え、のろのろと化粧をした。化粧のノリが悪い。
まだ涙がこぼれてくる。会社に行かなきゃ・・・・。悲しみを忘れるために。
「どうした? 元気がないな。菜穂子さんと喧嘩でもしたのか?」
出社したときから、意気消沈しているぼくに、社長が優しく声をかけてくれる。しかし、別れたことなど言いたくなかった。
「なんでもないです」
「そうか。それならいいが・・・・」
気分は最悪。生きる意欲もない。しかし、与えられた仕事だけは、きっちりこなしていった。菜穂子が言ったように、ぼくには仕事が恋人なのだろうか?
午後6時前。仕事は一段落し、帰る準備をしていた。
「千春君。お茶を入れてくれないか?」
「はい」
給湯室でお茶を入れていると、帰宅しても菜穂子がいないことを思い出して涙が流れた。
「やっぱり何かあったんだろう?」
「なんでもありません」
「わたしの目は節穴じゃないぞ。何があったか、言いなさい。言えば、すっきりするかもしれない」
命令口調だったが、社長の言葉は優しかった。ぼくは社長の向かいに腰を下ろした。
「昨日。・・・・菜穂子が出ていってしまいました」
「出ていったって?」
「わたしが男に戻れないので、離婚してくれって言って」
「・・・・そうか。そうだったのか」
「愛していたのに、・・・・赤ん坊が欲しいと言われて・・・・」
「赤ん坊・・・・。うーん。そうか。どうしようもないなあ」
涙が堰を切ったように零れ出てきた。
「千春君」
「はい」
「思いっきり泣きたまえ。わたしでよかったら抱いていて上げよう」
社長がぼくの横に座って、ぼくの肩を抱いてくれた。嬉しかった。ぼくは、社長の胸に顔を埋めて泣いた。
ぼくは支えを必要としていた。社長がもしぼくを誘ったら、どこにでも付いて行くつもりだった。例えホテルにでも。
社長は、1時間ばかり、ぼくを黙って抱いていてくれた。いつもなら、体を触ってくるシチュエーションなのにまったく何もしなかった。ただただ、抱いていてくれた。
「さあ、もう気は済んだかな?」
「はい。少しは・・・・」
「明日から、元気に働いてくれるかな?」
「・・・・はい」
「何だ? おかしな顔をして?」
「何でもないです」
「今日、千春君を誘ったら、きっとうんと言ってくれるだろうね」
「・・・・はい」
「弱みにつけ込むのは、わたしのポリシーに反するから誘わないよ。千春君が、自分の意志でわたしの誘いに乗ってこない限りはね」
「優しいのね。社長さんは」
「今頃気付いたのか?」
「失礼ですけど、そうです」
ぼくは、クスリと笑った。
「その笑顔だ。明日からも頼む。じゃあ、今日は上がっていいぞ」
「ありがとうございました。社長はホントにいい人です」
「照れるじゃないか。はっ、はっ、はっ、はっ」
気持ちが落ち着いたとき社長に誘われたら、きっとぼくは抱かれるだろう。そんな気がしていた。