第1章 目覚めたら女になっていた

 ひどい悪夢を見たような気がした。しかし、どんな夢だったのかまったく思い出せない。悪夢であったのは間違いない。なぜなら、着ているパジャマが寝汗でびっしょりになっていたからだ。思い出そうとして、思い出してはいけないような気がした。
 狭いベッドルームの中に、でんと据えられているダブルベッドの上で寝返りを打った。隣で寝ているはずの菜穂子の姿はない。枕元の目覚まし時計は、午前6時40分を刺していた。菜穂子は、既にベッドから起き出して、朝食の支度をしているに違いない。
 よくよく耳をこらしてみると、炊飯器から出ているだろうシューッと言う蒸気の音、菜穂子の歩くスリッパの擦れるような音が、かすかに聞こえてくる。
 ぼくがいつも起きる時間は、午前7時だ。少し早いが、そろそろ起きようかと決心した。その時、何だか言い知れぬ違和感を覚えた。この違和感はいったい何だろうか? 不安が入道雲のようにむくむくと沸いてくる。

 不安に押し潰されそうになりながら、ベッドから起き上がって、足を床に出してベッドの端に腰掛けた。頭がぼんやりしている。今日のプレゼンテーションのために遅くまで起きていた所為だろうか? イヤ、そうじゃない。何だろうか? この不安は?
 立ち上がろうとして、ふと自分の胸が膨らんでいるのに気がついた。何だ? これは・・・・??? 天井を見上げて、首を傾げ、もう一度胸元を見た。やっぱり胸が膨らんでいた。
 いったい、どうなってるんだ!? そう思いながら、恐る恐る両手で胸を触ってみた。ムギュッと軟らかい肉を触れた。菜穂子が悪戯をして、ぼくが眠っている間に、パジャマの中に何か柔らかいものを押し込んだのではないかと思った。しかし、その軟らかい肉の感覚は、手からばかりではなく、胸からも脳へ達してきた。
 げっ!?
 ほっぺたをパシパシと叩いて、ぼくはもう一度胸を触ってみた。夢を見ているわけではないようだ。確かにぼくの胸は膨らんでいる!! しかし、ぼくはまだぼんやりしていた。胸が膨らんでいるというのに、他人事のように思っていた。
 手が間違っていると思った。手からの信号が間違っているから、胸からの脳への信号も誤って伝えられ、脳の方が勘違いしただけだと思った。
 メクラと象の話しじゃないけど、触るだけでは全体像は掴めない。この目で確かめるしかない。そう思ったぼくは、パジャマのボタンを外して中を覗いてみた。
 ぼくは普段、パジャマの下にランニングシャツを着ている。夏も冬もランニングシャツ一辺倒だ。そのランニングシャツもやっぱり下からせり上げられていた。ホントかいな? ぼくはランニングシャツの襟元を人差し指でそっと持ち上げて、・・・・見た。女のように膨らんだ胸と、その先端に男にしては大きな、ピンク色をした乳首が見えた。ぼくは慌てて指を離した。
 ごくりとつばを飲み込む。それから、大きく深呼吸して、もう一度ランニングシャツの下を覗いてみた。
 菜穂子より大きいんじゃないかと思うくらいの、イヤ菜穂子よりかなり大きなおっぱいがぼくの胸にあった。
 まだ信じられなかった。ぼくは立ち上がって、ベッドルームの隅に置かれているドレッサーの前へ歩いていった。パジャマのボタンをすべて外して、ランニングシャツをあげて胸を見た。立派なおっぱいだ。惚れ惚れする。
 そう思いながら、慌てて頭を振った。菜穂子の胸ならともかく、鏡に映ったおっぱいは、ぼくの胸についているんだ。こんな大きなおっぱいが男のぼくに付いていたらおかしいじゃないか。
 それにしても・・・・。鏡に映ったぼくの顔も少しおかしい。ぼくは元々女の子のような優しい顔をしている。だから、年齢のわりに若く見られて、いつも馬鹿にされていた。しかし、違う。昨日のぼくと、今鏡に映ったぼくの顔は何処かが違うようなのだ。
 それに体全体も柔らかい感じがする。じっと目を凝らして鏡の中の自分を見た。髪の毛は、少し長めだけど、七三に分けた、男としてはごく普通の髪型だ。しかし、その髪型を除けば、ぼくはまるで本物の女に見える。
 もしかして・・・・。
 パジャマのズボンに指をかけて、前を引っ張って覗いてみた。幾何学模様の入った緑色のトランクスが見えた。予想したとおり、前の膨らみがないような気がする。
 さらにトランクスの前を引っ張ってみた。
 ない!! 薄い茂みだけしか見えなかった! 目をいったんギュッと瞑って、もう一度見た。やっぱり茂みだけしかない。
 左手で、トランクスの前を引っ張ったまま、右手をそっとトランクスの中へ入れてみた。茂みの先にはペニスも睾丸も触れなかった。襞を触れたような気がしたけれど、恐ろしくなって、それ以上先には指を進められなかった。
 ぼくは女になってしまった。女になりたいなんて思ったわけでもない。何か薬を飲んだというわけでもない。それが突然女に変身するなんて!!! どうして? どうして? どうして?
 昨夜、ぼくは菜穂子とセックスした。それは間違いない。結婚して2年。なかなか子どもができず、双方の両親から、まだかまだかとせっつかれている。病院へ行ったらとも言われているが、そのうちできるさと言っている間に2年の月日がたってしまっていた。昨日も子作りのために頑張った。それは確かだ。寝る前までは、ぼくは確かに男だった。
 訳が分からないよ・・・・。

 「千春。そろそろ起きないと遅刻するわよ」
 菜穂子がぼくを起こしに来た。ぼくは慌ててベッドの中へ潜り込んだ。
 「千春! 千春ってば」
 「い、今起きるよ」
 そう言ったあと、ぼくは慌てて口を塞いだ。声も高くなっている!
 「朝ご飯、もうできてるからね。早く起きて、顔を洗いなさいよ」
 「分かってるよ」
 声をできる限り低くして答えた。リビングからベッドルームへ顔を出した菜穂子は、ベッドの中のぼくを見て、少し首を傾げてキッチンへ消えた。

 千春なんて名前が、ぼくに何か変なことを引き起こしたのだろうか? こんな女みたいな名前を付けなきゃいいのに、ぼくの両親はどうかしている。
 母がぼくを妊娠したとき、産婦人科での超音波検査の結果、女の子ですよと言われたそうだ。上ふたりが男だったものだから、母は大喜びで、生まれる前から千春という名前を付けることに決めていた。
 ところが、いざ生まれてみると男だった。男の名前を考えていなかった両親は、そのままぼくに千春と名付けた。
 この名前のお蔭で、ぼくがどれくらい惨めな思いをしたか、両親は分かっていない。

 幼稚園に入るとき、男の子だと書類に書いてあったのにも関わらず、女の子の制服が送られてきた。
 「あら、可愛いじゃないの、この制服。千春。一度お母さんに着せて見せて」
 「やだ。ぼく、女の子じゃないもん」
 「お願い、千春。一度だけでいいから。ねっ。お願い」
 イヤだというのに、母はぼくに無理矢理女の子の制服を着せた。
 「可愛い!! 千春。あなた、ほんとに可愛いわ。色白だし、小さいからよく似合うわ。どうして男の子に生まれたんでしょうね」
 ぼくはべそをかいた。普段でも千春という名前で、近所の子どもたちに虐められていたのだ。こんな格好を見られたら、どんなことになるか分かりやしない。
 「そんなにイヤなの。ごめんね、千春。お母さんが悪かったわ」
 そう言いながら、母は女の子の制服を着たぼくをカメラに収めた。なんて母親だよ!

 「どうして千春なんて名前を付けたんだよ」
 小学校の高学年になって、ぼくは両親に詰め寄ったことがある。しかし、父の返事は簡単だった。
 「下に春って付く名前は、ほとんど男の名前だろう? そうじゃないのか、千春。例えば、利春、貞春、義春。みんな男の名前だ。松山千春だっているじゃないか。おまえが気にするからいけないんだ」
 「そんなこと言ったって、現実には、千春って言うのは、女の子に付ける名前じゃないか」
 「母さんが寝ないで考えた名前なんだぞ。それがイヤなのか!?」
 そんな言い方をされたら、何にも言えなくなる。
 「そうじゃないけど・・・・」
 「自分に自信を持て。そうすれば、名前なんかでゴチャゴチャ言われることも、気にならなくなる」
 「そんなこと言ったって・・・・」

 中学校でも、出席表が女子の所に振り分けられ、入学当日から、ぼくは教室を飛び出たい衝動に駆られることになった。
 「今日から、君たちは中学生だ。小学生とは違うんだから、中学生としての自覚を持つように。じゃあ、出席を取る。青木英二」
 「はい」
 「青山悟」
 「はい」
 どんどん名前が呼ばれていく。しかし、ぼくの番になってもぼくの名前は呼ばれなかった。
 「矢野浩一」
 「はい」
 「次は女子。浅井公子」
 「はい」
 女子の順番になっちゃった。ぼくはどうなってるの? そう思いながら、また間違えられたとガックリ来ていた。
 女の子の名前が次々に呼ばれ、セーラー服の女の子たちが返事をして立ち上がっていく。
 「杉本千春」
 ぼくの名前だ。ぼくは、返事をして良いものか一瞬迷う。
 「杉本千春。いないのか?」
 ぼくは、意を決して立ち上がった。
 「はい」
 出身小学校が同じ同級生はもう知っている。下を向いてくすくす笑っていた。ぼくの名前を呼んだ担任、別の小学校から来た連中は、唖然として、詰め襟姿のぼくを見た。
 「杉本千春だぞ」
 ぼくはむっとして、返事をする。
 「ぼくが杉本千春です!!」
 「あ、ああ。そうか。・・・・男子なんだな」
 「当たり前です。ぼくが女に見えますか?」
 「あ、いや、すまん。何かの手違いだ。出席表を書き換えなければ・・・・」
 ぼくは憮然として、椅子に座った。同級生たちのくすくす笑う声がいつまでも聞こえていた。

 「杉本君。あなた、ほんとに男子なの?」
 休み時間になって、隣に座っていた山本冴子が、ぼくに聞いてくる。可愛い顔しているのに、人の気持ちも知らないで残酷なことを言う女だなと思った。ぼくは、口をへの字にして、睨み付ける。
 「ぼくのどこが女に見えるってんだよ」
 彼女は肩を竦める。
 「詰め襟だから男に見えるけど、セーラー服着たら、女に見えるわよ。ねえ、みんな。そうでしょう?」
 「見える。見える」
 数人が一斉に答えた。
 「馬鹿にするな! ぼくは男だ!!」
 ぼくのあまりの剣幕に、みんな黙り込んでしまった。

 それ以来、名前のことであからさまには言われることはなかったけれど、ほんとは女なのに、男の格好をしているんじゃないかと陰で言われ続けていた。
 プール開きになって、水泳パンツ姿のぼくを見て、やっとその噂は消えた。まったく、もう。
 声変わりもして、ぼくは男であることは間違いないと認識されているのに、色白で平均よりも小さいものだから、体育祭や学園祭の時には、クラス中で結託して、ぼくに女装を強いた。無闇に拒否するのも大人げないと思い、ぼくは嫌々ながら女装した。
 「千春ちゃん、可愛い!!」
 学校中の生徒から、賞賛とも嘲笑とも取れる声を聞きながら、ぼくは心の中で泣いていた。みんな、母の所為だと。
 それなのに、母はぼくの女装した姿をカメラに収め、宝物のように持っていて、祖父母や親戚が来たとき、自慢げに見せるのだった。
 「千春はほんとに可愛いわ。女の子に生まれれば良かったのに」

 母の希望通り、女になってやろうかと思ったこともある。ほんとに女になったら、みんなビックリするだろうなと思った。しかし、ぼくは男だ。誰が何と言おうと、男であることは間違いない。名前に振り回されてたまるものか。いつもそう自分に言い聞かせていた。

 高校時代も同じ様な目に遭ったが、一目置かれるようになっていたから、虐めらしいものには遭わなかった。というのは、運動があまり得意でないぼくは、勉強することに活路を見いだしていた。壁に張り出される学力テストの順番は、いつも全校で10番以内だった。
 「千春って言うから、女かと思っていたけど、男なんだってな」
 ぼくが壁に張り出された成績表を見てると、隣にいた男が、ぼくがその当人だとは知らずに話しかけてきた。
 「そうらしいな」
 ぼくは、自分がその千春だとは名乗らずに、そう答えた。千春という名前のお蔭で、ぼくはむしろ有名になったと言っていい。

 ただ、全県模試で10番以内になって、表彰状を貰えることになったとき、校長がぼくの表彰状を隣にいた女子生徒に渡そうとして、全校生徒に笑われてしまった。校長は、いかにも女みたいな名前を付ける方が悪いと言った顔をしていた。あとになって思えば、あの時、校長の目の前で表彰状を破り捨ててやればよかったと後悔している。

 「杉本。おまえの成績なら、医学部でも大丈夫だが、受けてみないか?」
 進学指導でそう言われたが、ぼくは名前のお蔭で、人間不信に陥っていた。人を相手にする仕事には絶対向かないと思っていた。だから、子どもの頃から好きだった電子工学科に進むことにした。
 東大に何人、医学部に何人通ったとか、そればかり気にする高校に反発があったのも確かだ。

 大学では、名前のことでとやかく言われることはなかった。大人になるとみんな違うんだなと思った。
 大学を卒業して、今の会社に入ったけれど、あんまり向いてないような気がする。人には、何処か取り柄があるものだと父がよく言っていた。その取り柄が見つからなければ、人生はうまくいかない。ぼくには、まだその取り柄は見つかっていないようだ。

 杉本千春。女みたいな名前だけど、ぼくは自分の名前に自信を持っている。昔は女になってやろうかなんて自暴自棄になったこともあるけど、今ではそんなことはない。もう一度きっぱりと言う。女になろうなんて絶対思ってはいない。
 なのに・・・・、どうしてだよ? 神様!! 何の冗談だよ。何の悪戯をぼくにしたんだよ!!!

 「千春! 遅刻するってば」
 ハッと我に返った。菜穂子が怒ったような顔でぼくを見ていた。それから、妙な顔をして首を傾げながら、ぼくに近づいてきた。
 「千春。千春よね」
 「あ、・・・・ああ」
 「ほんとに千春なの?」
 ぼくは俯いていた。目を開けると、ぼくの前に跪いた菜穂子の顔が目の前にあった。
 「千春、何か、変」
 ぼくは小さくなって泣き出してしまった。男がそんなに簡単に泣いちゃダメだと、父に言われ続けてきたのに、女になった所為か、涙がぼろぼろとこぼれてきた。
 女になってしまっただなんて、自分の口から言い出せなかった。
 「どうしたのよ。ねえ、千春」
 菜穂子がぼくの肩を揺すった。ボタンをかけていないパジャマの前がはだけた。菜穂子はぼくの胸を見て目を見張った。
 「ど、どうしたの? その胸!!」
 「分からない。分からないんだよ」
 ぼくは小さな声で答える。菜穂子はぼくのランニングシャツの襟元から胸を覗いた。
 「すごい。わたしのより大きいわ。どうなってるの?」
 「分からないって言ってるだろう?」
 消え入りそうな声でぼくは答える。
 「そう言えば、声も女みたい」
 ぼくは黙り込む。菜穂子もぼくの声が高くなっていることにようやく気づいたようだ。
 「ねえ、胸だけなの?」
 ぼくはますます小さくなる。
 「ねえ、千春ってば」
 菜穂子は、ぼくをベッドの上に押し倒して、股間に手をやった。
 「ない!!」
 触ってみて、そこの何も触れなかったのが分かっているはずなのに、菜穂子はぼくのパジャマとトランクスの前を手で開いてみて、その目で確かめた。
 「やっぱり、ないわ」
 両手を口元にあてて動きの止まった菜穂子。見開かれた菜穂子の目。ぼく自身の目で確かめたあとだったけれど、それが間違いないと分かって、ぼくは愕然となった。
 「菜穂子。ぼく、女になってしまった」
 「どうしてなの?」
 「分からないよ。どうしてなんだ」
 涙が止めどなく零れ落ちてきた。
 「困ったわね。千春。仕事、・・・・どうするの?」
 こんな状態では、風邪を引いたとか言って、休みたいところだが、今日は午前9時から、社内向けのプレゼンテーションがある。それも、社長や重役向けの特別なプレゼンテーションなのだ。行かないわけにはいかない。ぼくはハアと溜息をついた。
 「今日は休むわけにはいかないんだ」
 「じゃあ、どうするの?」
 いい考えが浮かばない。
 「いかなきゃならないんだったら、なんとかしないと・・・・」
 「どうしたら・・・・」
 「ともかく、その胸を何とかしなくちゃ。女になるはいいけど、随分大きいわね。Cカップ? それともDカップかな?」
 「ぼくの所為じゃないよ」
 菜穂子は肩をすくめた。
 「ブラ付けるって訳にはいかないでしょうね」
 「あ、当たり前だろう?」
 狼狽えるぼく。
 「冗談よ」
 笑みを浮かべる菜穂子。
 「人が真剣に悩んでいるときに、よくそんな冗談が言えるな!」
 ぼくは頭に来て、額に青筋を立てていた。涙なんか吹っ飛んでしまっていた。
 「悪かったわ。ちょっと待ってね。たしか、タンスの中にサラシが入っていたと思うから」
 菜穂子は、ごそごそとサラシを探し始めた。しばらくして、少し色の褪せたサラシを取り出してきた。
 「それは何に使うためのもの?」
 「妊娠したときに巻くものよ。母が今どきのテープ付きのものはだめだって言って持ってきてたんだけど、こんな事に役立つなんて思ってもみなかったわ」
 「妊娠したときに巻くやつなのか・・・・」
 「上、脱いで! 巻いてあげるから」
 上半身裸になって、ぐるぐるとサラシを巻いてもらった。大きな乳房はそれほど目立たなくなったけど、苦しくてしょうがない。
 「苦しいよ」
 「それ以上緩くすると、胸が目立つでしょう? 少しは我慢しなさい」
 ぼくは仕方なく頷いた。
 「ペニスの代わりに何か入れなくてもいい?」
 「そこまでしなくていいよ。スーツを着れば、ないのに誰も気が付かないから」
 「じゃあ、後は自分でできるわね。早く食事しないと、ほんとに遅刻よ」
 「分かったよ」
 サラシの上にランニングシャツを着て、ワイシャツ、ネクタイをして、スーツを身につけた。
 ドレッサーの鏡に自分の姿を映してみた。男に見えないこともないが、男装した女と言った方が正解なようだ。これで会社に行けるのだろうか? 自信ないなあ・・・・。
 そんなことを思ってみても、行かないわけにはいかないのだ。

 「うーん。いまいちかな? でも、まあまあよ。早く食べて」
 菜穂子は料理が上手だ。今まで不味いと思ったことは一度もない。しかし、今朝の食事は味がしなかった。やっとの思いで半分食べて、箸を置いた。
 「千春、もう食べないの?」
 「・・・・入らないよ」
 「そう気を落とさないで。そのうち元に戻るわよ」
 気楽に菜穂子はそう言う。
 「そうかなあ・・・・」
 「だって、元々男なのに、そのままなんて事はないわよ。そうでしょう?」
 そんなことだろうか?
 「うーん」
 「神様だって、そんな理不尽なことはしないわよ」
 「・・・・そうだろうね」
 「自信なさそうね。なにか、あなた。変なこと願ったんじゃないの?」
 「何だよ。変なことって?」
 「女になりたいとか」
 菜穂子はぼくの顔を覗き込む。ぼくは口をとんがらせて反論した。
 「そんなことないって。どうしてぼくが女になりたいなんて思うんだよ。君を愛せなくなっちゃうじゃないか!」
 「そうか。それもそうね」
 「そんなの当たり前のことじゃないか!」
 「そうよね。あら? 出掛ける時間よ」
 時計は午前7時20分を刺していた。もっと時間がたったような気がしたけれど、目が醒めてから、まだ40分しか経ってないんだ。今日は長い一日になりそうだ。