第7章 帰省

 ニューハーフヘルス『菊の花』で働き始めてもうすぐ2年になる。借金の返済も終わり、ぼくはぼくの意思で、この店で働いていた。
 ぼくはすっかり女性化していた。ペニスも睾丸も手をつけていなかったけれど、喉仏は半年前横溝医師に取り除いてもらっていた。店を休んで私服で外出すると、何度もナンパされた。

 母に連絡しないまま、1年半がたってしまった。ぼくのことを心配しているだろう母の顔が目に浮かぶ。
 「ママ、来週一週間ほどお休みをいただきたいんですけど」
 「いいわよ。露木と旅行でも行くの?」
 露木とぼくはお互いに気があることは、ママも知っていた。
 「いえ、ちょっと実家に帰ってこようかと思って」
 「実家に?」
 ママは、ちょっと驚きの表情を見せた。
 「ええ」
 「実家って、あなた、あなたがニューハーフになったことをご両親は知ってるの?」
 「いえ、知りません」
 「大丈夫?」
 「大丈夫って?」
 「わたしがニューハーフになって、最初に実家に帰ったときは、父にぶん殴られて、家の外に叩き出されたわ」
 「そうなんですか?」
 「ええ。わたし、長男だったから、父はわたしに期待してたのよね。だから、余計に怒ったみたい」
 悲しげなママの顔を初めて見た。
 「わたしは父はもう亡くなっていませんから」
 「そうなの・・・・。でも、お母さんがあなたを見たらビックリするでしょうね」
 「そう思います」
 「でも、帰りたいのね」
 「はい。長く連絡していないから、心配しているだろうと思って」
 「・・・・そうね。お母さんなら、分かってくれるかもね」
 「きちんと話しをするつもりです」
 「わかったわ。ゆっくりしてきなさい。あなた、ずっと働き尽くめだったから、たまには息抜きしないとね」
 「ありがとうございます。じゃあ、来週一週間休ませていただきます」

 国内で移動するときは、パスポートなどいらないから、虚偽の名前でも構わない。野村明子の名前で、航空券を手配した。
 そのあと、露木に電話した。
 「露木さん、わたし」
 「ああ、明子か、どうした? こんな時間に?」
 「一週間ほど実家へ帰ってきます。来週は、お店に出ませんから」
 「実家へ!?」
 露木の驚いた声が受話器から流れてきた。
 「大丈夫なのか?」
 「ええ。母に会って、ニューハーフになったことを、きちんと話してきます」
 「俺が・・・・俺が罠に掛けたことは?」
 「それは話すつもりはないです。わたしがこうなったのは、決してあなたさんのせいじゃないです。あれは、ただのきっかけに過ぎないですから」
 「・・・・そうか。じゃあ、気をつけてな」
 「はい。・・・・露木さん?」
 「何だ?」
 好きだって言おうとした。だけど、言えなかった。
 「なんでもないです。行ってきます」
 「あ、ああ」
 もともと素質があったのかもしれないけど、ぼくを罠に掛けてニューハーフの道に引きずり込んだ露木をそんなにいい男だというわけでもないのに好きになってしまうなんて・・・・。

 ママにも露木にも、母に会ってキチンと話すと宣言したのに、実家に帰るのは、やっぱり怖かった。何度も止めようかと思い悩んだ。出発ぎりぎりまで悩んだけれど、結局ぼくは、新宿駅へ向かった。
 肩まで伸ばした髪の毛は、前日カットサロンで、可愛らしいシャギーにしてもらっていた。化粧はいつもより、薄化粧にした。
 ベージュのアンサンブルを着て、ショルダーバッグに、着替えの入った小さな鞄を持ったぼくは、帰省するOLか女子大生といったところだろう。ぼくに向かって、ヒョウッと口笛を吹く若い男はいても、妙な目で見る人間はいない。
 東京駅で山手線に乗り換え、浜松町からモノレールに乗った。長く続けている女性ホルモンのせいで筋力が落ちているので、鞄を持って移動するのはつらい。お金はあるんだから、タクシーにでもすればよかったかなと思ったけれど、生来の貧乏性がタクシーに乗ることを躊躇わせていた。

 空港のカウンターの手前でも、引き返そうかと立ち止まった。
 (いつかは帰って告白しなければならない。せっかく、今日、ここまで来たんだ。母の元へ帰ろう)
 「大分行きは、20分後に搭乗ご案内の予定です。手荷物はもうお預かりできませんがよろしいですか?」
 「はい。小さいから、持っていきます」
 ぼくは急いで、搭乗口へと向かった。

 搭乗口へ着くと、すでに搭乗が始まっていた。急かされるままに機内へ乗り込んだ。
 (とうとう乗っちゃった)
 「手伝いましょうか?」
 荷物を上げようとすると、中年の男性が声を掛けてくれた。
 「すみません。お願いします」
 若い女はこんなとき得だなと思った。もっとも、女としてのぼくは、かなり美人であるせいかもしれない。
 機内では、ぼくはずっと眠っていた。実家に帰ってからのことを考えたくなかったからだ。
 大分空港に着いて荷物を降ろすとき、さっきの男性が再び手伝ってくれた。
 「ありがとうございました」
 にっこり笑顔で御礼を言うと、その男性は笑顔を返してきた。下心でもあるのかなと思ったけれど、空港を出ると、その男性を迎えにきている女性がいた。ただの親切心からだったようだ。男を見るときに、いつもそんな風に思ってしまう自分が恥ずかしくなった。

 空港バスで大分へと向かった。ホーバーもあるけれど、凪でもひどく揺れるので嫌いなのだ。
 終点の大分駅でバスを降りて、タクシーに乗り込んだ。
 「寒田までお願いします」
 「寒田ね。どこから上がる?」
 「トヨタ本社からお願いします」
 「トヨタね」
 タクシーは国道10号線を下っていった。母の住む県営住宅が近づいてくるにつれて、胸が早鐘のようになった。
 (まだ引き返せる)
 (ここまで帰って来たんだ。観念しろ)
 そんな思いが交錯する。
 「北町の県営へ」
 大分トヨタ本社の交差点を右折したとき、ぼくは運転手に告げた。運転手は、黙ってハンドルを切った。

 着いた。ぼくは、母の住む部屋を見上げた。
 (母さん、なんて言うだろう?)
 怖くて足が震えた。
 (でも、帰らなきゃ)
 階段を上っていった。部屋の前まで来て、電力計を見た。ぐるぐると回っていた。中にいるようだ。
 (実家に帰るのにチャイムを押すのはおかしいよね)
 そう思って、ドアのノブを回した。鍵はかかっていなかった。ぼくは大きく息を吸ってからドアを開けて中へ入った。
 「ただいま」
 「お帰り」
 懐かしい母の声がした。声を高くしていたので、妹の香里が帰ってきたと思ったのだろう。
 居間に入っていくと、母はテレビを見ながら、洗濯物をたたんでいた。ぼくは荷物を足元に置いて、母をじっと見詰めた。
 母が、ぼくの方を見上げた。小首を傾げて、不思議そうな顔でぼくを見た。
 「・・・・明? 明なの?」
 さすがに母親だ。すっかり変わったと思っていたけれど、ぼくだと分かったようだ。
 「そうだよ」
 母は、口をぽかんと開けて、ぼくの姿を上から下まで何度も見た。
 「あ、あなた、いったい・・・・」
 「見ての通りだよ」
 ぼくは母の前に座った。
 「どうして女の格好なんか?」
 「実は、黙ってたけど、ニューハーフ、やってるんだ」
 「ニュ、ニューハーフ!?」
 「ああ、そうなんだ」
 「ニューハーフって、どんな仕事しているの?」
 「ショーで踊ったり、ホステスみたいにお酌をしたりするだけだよ」
 ニューハーフと告白することはできた。だけど、風俗店で男の相手をしているなんて口が裂けても言えなかった。
 「そう。水商売なのね」
 テレビなどで見るニューハーフは、そんな仕事をしている連中ばかりだ。母も、ニューハーフがする仕事はそんなものだろうと思っているようで、ぼくにとっては幸いだった。
 「別に悪いことしているわけじゃないから」
 「そうね。どうしてニューハーフなんかに?」
 「2年前、電話したとき、実入りのいいバイトやってるって言っただろう?」
 「あ、ああ。そんなこと言ってたわね」
 「街で、ニューハーフをやってみないかって、スカウトされてね」
 ここは嘘を言うことに決めていた。借金のかたに無理矢理ニューハーフにさせられたなんていえなかった。
 「俺って、どちらかと言うと、女顔だろう? だから、声を掛けられたみたいなんだ」
 「その胸は本物なの?」
 母はアンサンブルから谷間が覗いているぼくの胸を見つめて、そう尋ねた。
 「ああ、これ? これは、偽物。シリコンバッグを入れてるんだ」
 「へえ。ずいぶん女らしくなってるけど、女性ホルモンとかも飲んでるの?」
 「もちろんだよ。ホルモンを飲んで、注射もしてもらっているんだ」
 「まさかあなた、取ったりしてないでしょうね?」
 「取ったりって、ああ、睾丸のこと?」
 「そ、そうよ」
 「取ってないさ。取ったら、元に戻れないだろう?」
 「元に戻れるの?」
 「戻れるさ。ホルモンをやめて、胸のシリコンバッグを取り除けば、すぐに元に戻れるよ」
 「そう。安心したわ」
 今となっては、そう簡単には元には戻れないだろうけど、母は安心したようだ。
 「いつまでやるつもりなの?」
 「ずっとやるつもりだよ」
 「ずっとって、大学はどうするの?」
 「大学? 大学なら、とっくにやめたよ」
 「やめた!?」
 「ああ。3流大学の経済なんか出たって、大したところに就職できないからね。ニューハーフの方が、うんと儲かるんだ」
 「それはそうかもしれないけど・・・・」
 「しっかり稼いで、母さんを楽にしてあげるから」
 「将来はどうするの? 一生やるっていうわけにはいかないんでしょう?」
 「先のことは考えてない。行き着くところまで行ったときに考えるよ」
 「それでいいの?」
 「いいさ。ぼくの人生だからね。まあ、何とかなるさ」
 母は、ほんとにそれでいいのかと思い悩んでいるみたいだった。

 「こんばんは。いる?」
 ドアが開いて、誰かが入ってきた。声に覚えがある。向かいの部屋に住む斉藤さんと言うおばさんだ。母と仲がよくて、しばしば遊びにきていた。
 「いるわよ」
 斉藤さんは、手にラップのかかった皿を持っていた。
 「イカ大根がうまくできたから、持って来たの。あら? 香里ちゃん、もう帰ったの?」
 妹の香里と間違えているみたいだ。ぼくは黙って頭だけ下げた。
 「いつもすみませんねえ」
 「いえ、いえ。お皿は明日でいいから。じゃあね」
 斉藤さんは、皿をテーブルの上に置くと、さっさと玄関へ向かった。
 「ただいま」
 香里の声だ。玄関で香里と鉢合わせになった斉藤さんは、ギョッとしてぼくの方を振り返った。
 「あら? 香里ちゃんかと思ったら、違うのね。ごめんなさいね」
 そう言い残して、出ていった。香里は、きょとんとして、背中に背負ったバッグを外しながら居間へ入ってきた。入ってきて、ぼくの姿を認めて、目を丸くした。
 「・・・・誰?」
 「誰だと思う?」
 ぼくは男としては声が高い方だけど、母と話すときには声を低くして話していた。香里に話し掛けたとき、いつものように少し高くして女の声に聞こえるようにした。
 香里は、まじまじとぼくの顔を見た。
 「・・・・お兄ちゃん・・・・なの?」
 「はは、ばれたか」
 香里は、大きく目を見開いた。
 「ど、どうして・・・・」
 「ニューハーフやってるんだって」
 母が横から説明する。
 「ニューハーフ? お兄ちゃんが?」
 「そうよ」
 「へええ。ぜんぜん、女に見えるわ」
 香里は、ぼくのそばに座り込んで、ぼくの顔をじっと見た。
 「ありがと」
 「そうやって二人が並ぶと、まるで双子ね」
 テーブルの向こうから、母がそう言う。
 「双子って、わたし、年がふたつも下だよ!」
 香里がプンと口を尖らせた。
 「ねえねえ、その胸。本物?」
 「偽物に決まってるでしょう? シリコンよ」
 「触ってもいい?」
 「いいわよ」
 香里がぼくの膨らんだ胸を人差し指でちょんちょんと押した。
 「わあ、固めだけど、ほんとに本物みたい!」
 そう言いながら、何度も触った。
 「もういいでしょう?」
 「下はどうなってるの?」
 みんなそれに興味があるみたいだ。
 「どうもなってないわよ。元のままよ」
 「元のままでニューハーフをやれるの?」
 「やれるからやってるのよ」
 「そうか・・・・。どんなことしてるの?」
 同じことをまた聞かれた。
 「バーのホステスみたいな仕事だって」
 母が言ってくれた。
 「ホステスさん? へえ、お兄ちゃんがねえ」
 「もういいでしょう? おなか減ったわ。夕食はどうなってるの?」
 これ以上詮索されるとぼろが出ると思い、ぼくは話題を変えた。
 「帰ってくるって連絡しないから、ふたり分しかないわ」
 「イカダイコンが来たわよね」
 「ご飯が足りないわ」
 「わたし、買ってくるわ」
 香里が立ち上がった。
 「香里、そんなことしないでいいわよ。前みたいに食べられないから、ちょっとあれば充分よ」
 「そう? じゃあ、スパゲティーでもゆがきましょう」

 久しぶりの、2年ぶりの一家団欒だった。母も妹も、思っていたより簡単にぼくを受け入れてくれた。嬉しかった。
 「ねえ、お兄ちゃん」
 「香里。今の明にお兄ちゃんはおかしいでしょう?」
 母が横からそう言う。確かにそうだ。
 「あら? 明だっておかしいわよ。ねえ? お・・・・姉ちゃん?」
 「お姉ちゃん? そうね。お姉ちゃんね。そうそう、わたし、今は明子って名乗ってるのよ」
 「明るい子?」
 香里が聞いた。
 「そうよ」
 「わあ、細工も何もないのね。明に子どもの子をつけただけ?」
 「そう言わないでよ。お店の人がつけたんだから」
 「でも、明子っていい名前だわ」
 「そうでしょう?」
 「お姉ちゃん、片づけが終わったら、一緒にお風呂に入らない?」
 「ば、馬鹿言わないでよ。わたし、女に見えても、ちゃんと付くものは付いてるんだからね」
 「ちゃんと機能するの?」
 ぼくは母のほうをちらりと見た。母は我関せずの態度だ。
 「ねえ、駄目なんでしょう?」
 「ええ、香里の裸を見ても、ピクリともしないでしょうね」
 「それならいいでしょう? 女同士なんだもの」
 「二人も入れないでしょう? うちのお風呂は狭いんだから」
 「どうしても入りたいの。ねえ、一緒に入りましょう?」
 「明子、入ってあげなさい。小さい頃は、いつも一緒に入っていたでしょう?」
 「それはそうだけど・・・・」
 「母さんがああ言ってるんだらか、入ろう、入ろう」
 そんなわけで、香里と一緒に入浴することになってしまった。

 女らしい体形になった香里と一緒に風呂に入るのは初めてだけど、妹と言うこともあるし、女性ホルモンの影響もあって、まったく勃起もしなかった。
 交代で湯船に浸かり、交代で体を洗った。
 「ねえ、お姉ちゃん?」
 「何?」
 「バスト、いくつ?」
 「88」
 「あ、負けた」
 「ウエストは?」
 「58かな?」
 「わたし、56」
 「へえ」
 「ヒップは?」
 「86だったと思うけど」
 「わたしたち、ほとんど変わらないわね」
 「そうね」
 身長は、香里の方が高い。昔からそうだ。確か163だったと思う。ぼくは161。男なのに、妹より背が低くて、いつも惨めな思いをしていた。こうして女同士だと思うと、それも苦にならない。
 バスト、ウエスト、ヒップとも、ほとんど変わらないし、顔もよく似ているから、ペニスの存在を無視すれば、鏡を見ているようなものだ。
 「わたしも髪を伸ばそうかな?」
 ぼくの長い髪の毛を見ながら、ショートカットの香里はそう呟く。
 「そうしたら? きっと似合うわよ」
 「明日から伸ばそう」
 そんな決心もすぐに挫折する。香里はいつもそうなのだ。
 「ねえ、お姉ちゃん? ホステスって楽しい?」
 突然話題を変えてきた。ちょっとどぎまぎする。
 「ま、まあね」
 「あんなに仕送りできるくらいの給料をもらえるんだ」
 「馬鹿な男が多いからね」
 「わたしもホステスしようかな?」
 「馬鹿言わないでよ。こんなことするのは、わたしだけでいいわ」
 「ふうん・・・・」
 香里は、突然真顔でぼくを見た。
 「ねえ。ホステスさんって、お店の外でもお客さんとお付き合いするんじゃないの?」
 ドキッとした。
 「そ、そんなことしてないわよ」
 「あれ? 怪しいな? お姉ちゃん。給料がいいのは、そのせいじゃないの?」
 「ち、違うわよ」
 「白状しなさいよ。お母さんには黙っていてあげるから」
 「何もやってないわよ」
 「むきになって否定するところが怪しいわ。お姉ちゃん、男の人と関係してるわね」
 「どうやって男と関係するって言うのよ! わたし、男なんだからね」
 「肛門を使うんでしょう? わたし、知ってるのよ」
 「そんなこと、やってないって!」
 「嘘! お姉ちゃんは、嘘を言うとき、必ず上唇を舐めるんだから。わたしには分かってるのよ」
 そんな癖があったとは自分でも気がつかなかった。
 「さあ、白状しなさいよ」
 「・・・・お母さんには、黙っててくれる?」
 「ええ。・・・・やってるのね」
 「・・・・そう。ほんとは、ホステスじゃなくて、そう言うことだけやってるの」
 「そう言うことだけって、男とセックスしてお金をもらうってこと?」
 ぼくは首を縦に振った。
 「それって、売春ってこと?」
 「・・・・そうなるのかな? ちょっと分からないけどね」
 香里は複雑な表情を浮かべた。
 「絶対にお母さんには内緒だからね」
 「分かったわ。へええ。そうなの・・・・」
 ほんとは香里にだって言いたくはなかった。しかし、そのうちばれるだろう。母には言えないけれど、香里にだけは言っておいた方がいいかもしれないと思ったのだ。