第19章 拉致の結末

 一夜が明けた。起き抜けにもう一回トムに抱かれた。
 「3年分、取り返したぞ」
 「馬鹿ね。慌てなくても、ずっとそばにいるんだから」
 「そうだったな。また、いなくなるんじゃないかって心配だったんだ」
 「大丈夫よ。何があって、あなたから離れない」
 そう答えると、トムはこれ以上ないという笑顔を向け、キスしてきた。
 「ところで、ここは狭いし汚いから、ボクのフラットに来ないか?」
 「いいわ。結婚するんだし、別々に住むなんて不経済だから」
 「じゃあ、早速引っ越しをしよう」
 水本はそれほど多くの荷物を持っていなかったから、準備はすぐにすんだ。水本がいなくなると聞いて、エリザベスが悲しそうな目を向けた。
 「リズ、またミートパイをご馳走になりに来ますから」
 「ホントよ。約束よ」
 涙を浮かべて、エリザベスは見送ってくれた。

 トムのフラットは、ひとり暮らしには広すぎるほどだった。それもそのはずで、亡くなった奥さんと暮らしていた場所だったからだ。
 トムは、水本が荷物を整理している間に、亡くなった奥さんとの思い出の品を全部処分していた。
 「そんなこと、しなくてもいいわよ。亡くなった奥さんが可哀相よ」
 「アキの気持ちは嬉しいけど、今はアキのことだけを考えていたいんだ。だから、これは全部処分する」
 水本にとってはトムの気持ちが嬉しいことではあった。

 電話が掛かってきた。トムが受話器を取る。
 「なに? どこから聞いたんだ? リズから? おしゃべりな女だなあ。ああ、本当だ。あのアキと結婚するんだ。ありがとう。えっ! みんなでお祝いをしたい?」
 トムが水本の方を見た。
 「ありがたいが、そんなにもう広がっているのか? わかった。ご厚意に甘えるよ。ああ、あそこだな。今から出かける」
 「なんなの?」
 「うちの店の常連客たちの耳に、ボクたちが結婚するって話が伝わったらしい」
 「リズが広めたのね?」
 「そうなんだ。で、みんなでお祝いをしてくれるって言うんだ」
 「いい友達がいるのね」
 「まあね。そこで、まず、結婚式をやろうという話になってね」
 「結婚式?」
 水本は日本でのあの結婚式を思い浮かべる。
 「街のはずれにある教会で式を挙げる。それから、店に行ってパーティーだ」
 「ああ、そう言うことね。わかったわ。じゃあ、教会に行きましょう」
 「教会の前に行くところがあるだろう?」
 「えっ! どこ?」
 「その服のまま式を挙げるつもりかい?」
 水本は、動きやすいようにTシャツにジーンズ姿だったのだ。
 「式を挙げるような服は持っていないわ」
 「この先の貸衣装屋で借りるんだ。さあ、行こう。みんなが教会で待っている」
 トムのフラットを飛び出て、車で貸衣装屋に乗り付けて、水本は真っ白なウエディングドレスを、トムは黒のタキシードを借りて教会での結婚式に臨んだ。
 (ウエディングドレスを着て、結婚式をするなんて、思いも寄らなかったなあ)
 水本は鏡に映る自分お姿を見て、幸せそうで綺麗だと思った。教会には20人ほどの男女が集まっていて、トムおめでとう、とうとうやったなトム、アキおめでとうなどと言葉をかけてくれた。
 質素だったけれど、心温まる式だった。
 「あっ! 指輪がない」
 トムがそう言って青くなったとき、もっとも古い友人であるジョージがトムにリングを手渡した。そのリングは、水本のくすり指にぴったりだった。
 「ホントは、儂がアキに填めてやるつもりだったんだがな」
 そう言ってウインクした。ジョージを初めとして、集まった人たちはホントにいい人たちばかりだった。きっとトムの人柄のせいだろうと水本は思った。
 トムの店に行き、朝までパーティーが続いた。
 「初夜の儀式ができんじゃないか!」
 トムがそう言うと、エリザベスが、もうすませたでしょうと言い、大爆笑となった。

 樋口との結婚生活は、秘密を持った後ろめたいものだったのに対して、トムとの生活は喜びに満ちていた。
 ただ気がかりなのは、やはり日本に置いてきた大介のことだった。菜津枝の母・真莉子から決して連絡しないように言い渡されていたけれど、アメリカに渡って3ヶ月ほどたって、いてもたってもいられなくなって、禁を破って連絡しようとした矢先に、真莉子の方から電話が入った。
 「どうしてここがわかったんですか?」
 《菜津枝のお友達がそこじゃないかって言うものだから》
 最初に水本のことを菜津枝と間違えた女性たちのことだろう。
 「大介は元気にしています?」
 《ええ。とっても》
 「お母様の方から連絡していただいて嬉しいです」
 《連絡するつもりはなかったんですけどね。あの人が何とか探しだせってうるさいの》
 「あの人って、お父様のこと?」
 《そうよ。あの人は、菜津枝を目に入れても痛くないほど可愛がっていましたからね》
 「そうですか・・・・」
 《わたし、考えたんだけど、戻ってきていただけるわけにはいきませんか? もちろん、菜津枝として》
 「お父様は知らないんですか? わたしのこと」
 《伝えていませんからね》
 「そうですか」
 《勝手で申し訳ないんですけど、戻っていただける?》
 水本は考える。大介も大事だ。けれど、トムも大事だ。どちらを取るか? 考えたあげくに水本は答えた。
 「わたし、戻るわけにはいきません」
 《どうして?》
 「わたし、こちらで結婚したんです」
 《結婚した!》
 「はい」
 《誰と? 日本人なの?》
 「いえ。白人です」
 《別れるわけにはいかないの?》
 「だめです。わたし、妊娠してるんです」
 水本はわずかに膨らみ始めていた下腹を押さえた。
 《妊娠してるの・・・・。困ったわね》
 電話の向こうで、真莉子は考えている。どんなことを言われようとも、もう戻らないと決心したからと答えようと思っていたのだが、真莉子の口から意外な言葉が出てきた。
 《お互いのためにいい方法があるわ。聞いてくれる?》
 「はい」
 《樋口との結婚生活が初めからいやだったあなたは、アメリカに渡ったあと、すぐに家出をする。そこで、今結婚している人と出会って恋に落ちた。けれど、見つかって連れ戻される。でもやはりその人のことが忘れられなくて、再び家出して、その人と結婚してしまう。これでどう?》
 短時間にそんなアイデアをよく思いついたものだと感心してしまう。
 「わたしはこちらではアキと名乗っていて、その名前で婚姻届を出しているんですけど?」
 《そんなものどうでもなるわ。本名が菜津枝だって言えば済む事よ》
 「でも、トムはアメリカからは離れないと思いますけど・・・・」
 《トムって言うのね。あなたの旦那さん。いいわよ。あなただけが、時々日本に里帰りしていただければ。こちらから会いに行ってもいいわ。ともかく、菜津枝が生きてるって事が大事なの。それだったら、いいでしょう?》
 「それなら何とかなるかもしれません。けど、ひとつだけ条件があります」
 《なんなの? 言ってみて》
 「大介をこちらに引き取りたいんですけど・・・・」
 《大介を? そうねえ。アメリカの生活を経験させるのもいいかもね。でも、それなりの生活をしていただかないといけませんわね》
 「は、はあ」
 《そこのところはわたしの方が援助しましょう。それでいいわね?》
 ハイと答えるしかなかった。いや、それが水本にとって最高の結果だったからだ。

 その夜、水本はベッドの中でトムに話しかけた。
 「トム、話があるの」
 「なんだい? 改まって」
 「実は、トムには隠していたことがいくつかあるの」
 「夫婦の間に隠し事は禁物だな。話してみなさい」
 水本はここで練りに練っていた作り話をすることにした。すべてを話すわけにはいかないからだ。
 「わたし、あなたのお店で働き始めた頃、ある人と結婚していたの」
 「アキと結婚していたという男はどんな男だ?」
 嫉妬混じりの口調で訪ねた。
 「一度、お店に訪ねてきたわよね。樋口って男よ」
 「ああ、あの男か。でも、人違いだって言ってたじゃないか?」
 「人違いじゃないの。あの人と結婚していたの」
 「何故、人違いだなんて言って追い返したんだ?」
 「あの人との結婚は、最初からイヤだったの。だけど、彼は東大出のエリートだったから、両親が気に入ってね。彼の方は、わたしの父が経済界の大物だったから、わたしとの結婚は出世するのに渡りに船だったの。だから、無理矢理結婚させられたの」
 「日本ではそう言うことがやられているのか?」
 「時にね。だから、わたし、こちらへ来てすぐに逃げ出したの」
 「アキ・スティーブンスと言う身分署名書は?」
 聞かれると思っていた。いろいろと言い訳を考えていたのだが、こう答えた。
 「あれは、ちょっと裏から手に入れたの」
 「じゃあ、ホントの名前は何て言うんだ?」
 「菜津枝って言うの」
 「菜津枝か・・・・」
 「樋口に見つかって、人違いだって言っていったんは追い返したけど、やっぱりばれてしまって連れ帰されてしまったの」
 「また、逃げ出してきたんだな?」
 トムは眉を顰めた。そのままを信じれば、トムは結婚している女性と結婚したことになるからだ。
 「今度は離婚してきたわ」
 そう答えると、トムの表情が和らいだ。
 「じゃあ、ボクとの結婚はこのままなんだね?」
 「もちろんよ。わたしはトム・ジョーンズの妻よ」
 「婚姻届を出し直さなければならないな。それにみんなにも紹介しなおさないと」
 「ええ。それから、もうひとつあるの」
 「子どもがいるんだね?」
 「察しがいいのね」
 「3年も樋口という男といれば、子どもくらいできるだろう?」
 「そうよね」
 「なんという名前なんだ?」
 「大介って言うの。もうすぐ2歳半になるわ」
 「そうか。アキ、いや、菜津枝、大介に会いたいんだね?」
 トムは、水本の気持ちをよくわかってくれる。
 「ええ。会うと言うよりも引き取りたいの」
 「大賛成だね。子どもは母親といるのが一番だ」
 「ホントにそう思う?」
 「当然だよ」
 「それから、両親に会うために、時々日本に帰ることを許して欲しいの」
 これは、佐藤の父親への奉公だ。
 「それくらいかまわないよ。親孝行は必要だからね」
 「日本の両親がこちらに来るかもしれないわ」
 「是非会いたいね」
 「トム、大好き!」
 水本はトムに抱きつきキスをする。
 「話はそれだけかい?」
 「うん、それだけ」
 「じゃあ、このやんちゃ息子をなだめて貰おうかな? アキ、イヤ、菜津枝。どうも言いにくいな」
 「アキでもいいわ。その方がわたしも慣れているし」
 「じゃあ、ボクらの間ではアキのままでいこう。そうすれば、みんなにお披露目し直さなくてすむ」
 「そうよね」
 「じゃあ、始めようか?」
 「喜んで」
 水本は、いつもより丁寧にフェラチオをしてやり、注ぎ込まれてきたその精をすべて飲み込んでやった。

 水本は佐藤菜津枝として、トムとの婚姻届けを出し直し、やってきた佐藤の両親を交えて、もう一度教会で式を挙げ直した。
 菜津枝の父親は、水本のことを娘の菜津枝と信じ、涙を流して喜んでいた。
 「樋口はどうなったの?」
 式のあと、真莉子にそっと聞いてみた。
 「小さな仕事の失敗を責められて会社を馘首になって、しかも離婚でしょう? どこに行っても雇ってくれずに、とうとう自殺したわ」
 「自殺・・・・」
 水本にとっては少し後味の悪い結果であったが、菜津枝を殺した罰だと思えば仕方がない結果かもしれないと思った。

 日本に帰国したとき、水本は河野と立花の墓前に花を供えることを決して忘れなかった。
 (河野、拉致されたとき、あなたを責めたわね。ごめんね。もう忘れて。いろいろあったけど、こんなに幸せになれたのは、あなたのお陰かもしれないわ。立花、二度も裏切られたなんて思ったけれど、あなたが言わなければ、河野かわたしが言っていた。そうしたら、運命は変わっていたかも。わたしが天国に行ったら、また仲良くしてね)

 水本はトムとの間にふたりの子供をもうけ、大介を交えて幸せな生活を送った。もちろん、佐藤家の両親、水本家の両親への親孝行も忘れなかった。