菜津枝の両親がやってくる日、水本はライトグリーンのキャミソールドレスを着て車椅子に座り、菜津枝の両親がやってくるのを待っていた。
空港まで迎えに行けないわけではなかった。顔かたちが菜津枝にそっくりで、話し方までよく似ているとの自信はあったけれど、歩き方などの素振りをずっと菜津枝そっくりにやる自信がなかった。車椅子に乗っていれば、自信のない部分を覆い隠せると思ったからだ。
樋口が空港まで迎えに出かけてから1時間あまりがたった頃、屋敷の門をくぐり抜けてくるリムジンの姿が目に入った。
(来たわ。ばれないようにしっかりしなきゃ)
水本は大きく深呼吸をした。しばらくして、水本のいるゲストルームのドアが開いた。写真で確認しているよりも少し太めの菜津枝の母親が真っ先に入ってきた。
「菜津枝さん、事故に遭ったんですって? 大丈夫なの?」
自分の娘にさん付けかよと水本は思いながら、菜津枝の母親の腕に抱かれた。
「大したことはないですわ」
「連絡してくれれば、すぐにこちらに来ましたのに」
「ちょっとした事故ですもの。お母様に来て頂くほどのことはないですわ」
「でも、記憶喪失に陥っていたんでしょう?」
「え、ええ」
樋口が菜津枝を殺して始末し、水本が代わりにこの屋鋪に連れられてくるまでの間の空白時間の言い訳として、菜津枝が事故に遭って一時期記憶を失っていたことにしていた。
「記憶は完全に戻りましたの?」
「少し思い出せないところもあるんですけど、大丈夫ですわ」
この少しが重要なのだ。この2週間で覚えきれなかったことを尋ねられたとき、思い出せないですませるためだ。
「まだ歩けませんの?」
「歩こうと思えば歩けるんですけど、あの人が無理をするなって言うものですから」
水本は樋口の方を顎で指した。
「ええ、そう。そうね。無理はしない方がいいわね。でも、よかった。思ったより元気そうで。菜津枝さんが事故に遭ったって空港で聞いたときには、もう心配で心配で死にそうになったんですもの」
「ご心配掛けてごめんなさいね」
「元気でいてくれて嬉しいわ」
菜津枝の母親は、もう一度水本をギュッと抱きしめた。
「樋口君、菜津枝をひとりで外出させてはダメじゃないか」
菜津枝の父親が樋口を睨み付けるようにしていった。
「あ、いえ。ボクも仕事がありますので」
樋口がそう答えると、怒りの矛先を向ける場所を失って、菜津枝の父親はムッとした表情になった。
「本当に大丈夫なのか?」
「ハイ、お父様。この通り」
水本は車椅子から立ち上がって見せる。
「おう。無理はしないでいいよ。座っていなさい」
樋口に向けたとはまるで人が変わったような柔和な笑顔を水本に向けてきた。水本はニッコリと微笑んで、車椅子の腰掛け直した。
「真莉子、あれを出さないか」
「ああ、そうでしたわ」
菜津枝の母親は、メードが運び込んできたトランクを開いた。中からまるでウエディングドレスのような真っ白なドレスを取り出す。
「結婚一周年の記念に持ってきましたのよ。きっと、菜津枝さんに似合うと思いますわ」
菜津枝の母親は、水本の胸の上にドレスを広げるようにして置いた。
「すごいじゃないか。菜津枝、すぐに着替えなさい」
樋口が優しく言った。
「殿方の前では恥ずかしいですわ」
「父親と夫の前でも恥ずかしいか。そうか。それならわたしたちは一杯やりながら待っているから着替えてきなさい」
菜津枝の父親は、樋口に向かってグラスをあげる仕草をした。水本は、菜津枝の母親に車椅子を押されてリビングへと移動する。
「菜津枝さん、子どもはまだですの?」
「まだですわ。お母様」
「1年もたつのにできないなんて、夜の生活はきちんとしていますの?」
樋口の口から、妻の菜津枝とは始終喧嘩をしていたことは聞かされていた。けれど、どの程度褥を共にしていたかなどと言うことは聞かされていない。菜津枝の母親が樋口に確かめて、水本の答えと違っていたら、困ったことになるんじゃないかと思って答えに窮した。
「きちんとしてないのですね?」
「それなりだと思いますわ」
ようやくそう答えた。
「それなりなのですか? まあ、いいですわ。もう1年してできなかったら、何か手を打ちましょう」
何の手を打つというのだろうか? 不妊治療をしようとでも言うのだろうか? そんなことをされれば困るのだが、まだ1年も先の話だと思うとひとまずは安心する水本だった。
「さあ、菜津枝さん。その服を脱いでお着替えになって」
水本は車椅子から立ち上がって、キャミソールドレスの肩ひもを外した。菜津枝の母親が背中のファスナーをおろす。足元に落ちたキャミソールドレスをメードが片づけている間に、水本は菜津枝の母親から差し出されたドレスに足を通した。
「菜津枝さん、胸が大きくなりましたの?」
菜津枝の母親が背中のファスナーを上げながら言った。菜津枝よりも水本の方が胸が大きいせいか、それともアンダーが大きいせいだろう、胸回りがきつかった。水本は少し息を吸い込んで何とかファスナーを上まであげて貰った。
「似合いますわ」
菜津枝の母親は、少し離れたところから水本の姿を見て嬉しそうに微笑んだ。菜津枝が既にこの世にいないと知ったらどんなに嘆くだろうかと思うと水本は少し気の毒になった。
けれど、そのことを伝えるわけにはいかない。自分の身の危険を回避するためと、菜津枝の両親を安心させるためにはやり遂げなければならないと、改めて水本は決心するのだった。
「さあ、あなたの旦那様に見せにいきましょうか?」
「ハイ、お母様」
車椅子を押されてゲストルームへと戻った。そこでは、樋口と菜津枝の父親がグラスを傾けながら談笑していた。ふたりの正面に停められた車椅子から水本は立ち上がって、ドレスを見せるようにクルリと回って見せた。
「おう、菜津枝。綺麗だ。若いときの真莉子にそっくりだ」
「そうでしょう?」
菜津枝の母親は自分が褒められているかのように笑顔を見せた。
「いやあ、惚れ直したな」
樋口が水本に近寄ってきて膝を突き、水本の手を取ってキスをした。
(きざなヤツだな)
そう思いながら、水本は樋口に笑顔を向けた。
「あ、そうそう。悦子さんがこの春結婚するのよ」
(悦子さん! そんな名前の女性なんて聞いてないぞ!)
どうしようか? 誰?と聞いてみようかと考えていると、樋口が助け船を出してきた。
「悦子さんって、菜津枝の従姉妹でしょう? まだ、二十歳前じゃなかったですか?」
「そうなのよ。まだ、19だって言うのに、結婚するって言って聞かないのよ」
「いったい、誰と?」
そんな樋口の問いに、菜津枝の母親が再び話を水本に向けてきた。
「ほら、菜津枝さん? あなた、覚えていない? 2年前だったかしら、軽井沢に行ったとき、長野の県会議員の息子って言う人が来ていたでしょう?」
これもまったく知らない人物だ。樋口の方をチラリと見てみると、樋口も知らないらしく、水本から目をそらした。
「ごめんなさい。覚えていないわ」
そう答えるしかないのだ。
「あら? 菜津枝さんに気があったみたいで軽井沢にいる間中付きまとっていたのに、菜津枝さん、覚えていないの?」
「・・・・思い出せないわ」
水本はこめかみを押さえて考え込む振りをする。
「アア、菜津枝さん、無理に思い出そうとしない方がいいわよ」
「お義母さん、もしかして、菜津枝にとって思い出したくない記憶なのかもしれませんね」
樋口が助け舟を出してきた。
「ごめんなさい。・・・・頭が痛いわ。お父様、お母様、少し休ませて頂いていいかしら?」
「そうして。まだ、完全に回復していないんでしょう。さ、早く、寝室へ」
「そうだな。その方がいいな」
樋口もまた、これ以上一緒に話をしたらぼろが出ると察して、車椅子に手を掛けた。
「わたしが押しますわ」
そんな菜津枝の母親の申し出を樋口は断る。
「いや。お母さんたちは疲れているでしょう。どうぞ、夕食までゆっくり休んでください」
そう言い残して、樋口はさっさと寝室へと水本を運んでいった。
寝室へ入ると、水本はフウと大きな溜息をひとつ吐いた。
「ひとまずはよくやった」
樋口が水本の肩をポンと叩く。
「両親が疑わないってことはホントに菜津枝さんによく似ているのね? わたし」
「ああ。ともかく疑われないように頼んだぞ。わからないところはさっきのような演技をすればいいだろう」
水本は黙って頷いた。
「休ませて貰っていいかしら?」
「そのドレスのままか?」
「だって、脱ぐわけにもいかないでしょう?」
「そうだな」
ドレスに皺が入らないようにしながら、樋口は水本を抱え上げてベッドの上に寝かせた。
「じゃあ、1時間ほどしたら迎えに来る」
「わかりましたわ」
樋口と水本が寝室へ行っている間、菜津枝の両親が声を落として話していた。
「菜津枝、ちょっとおかしくありませんでした?」
「そうか?」
「そうかって、あなた、よく見ていらっしゃらなかったの?」
「見たさ。いつもの菜津枝だと思ったが、どこがおかしかったというのか?」
「・・・・説明しろと言われると困るんだけど・・・・」
菜津枝の母親はジッと考え込む。
「事故に遭ったと言うから、まだ落ち着かないだけだろう」
「そうね。そかもね」
菜津枝の母親が水本に対して違和感を感じたのは、母親の勘とでも言ったところであろう。しかし、樋口にとっても水本にとっても幸いなことに、話はそこで終わってしまったのだった。
夕食の準備ができたと言うことで、水本は樋口に車椅子を押されて食堂へと向かった。
「ぼろを出すなよ」
耳元で樋口に言われて、水本は小さく頷いた。食堂では既に菜津枝の両親が椅子に座って待っていた。
水本と樋口が席に着くと、早速料理が運ばれてくる。いくつかの大きな皿に料理が盛られている。必要な分だけ取って食べるバイキングスタイルのようなものだ。
メードがそれぞれの前に置いてある小振りな皿に料理を注ぎ分けていった。
「遠くから来て頂いたおふたりに乾杯」
樋口の挨拶でシャンパンの入ったグラスをあげてディナーが始まった。水本は、ぼろを出さないように注意しながら食べるので、味も何もあったものではない。
「菜津枝さん、食事の時に上唇を舐めるのはおよしなさいって言ってるのに、まだ治らないの?」
菜津枝の母親が注意する。
「あら? ・・・・つい癖で・・・・」
水本は首を竦めて見せた。
「そんなはしたない癖は早く治さないといけませんわよ」
「・・・・はい」
菜津枝の父親が菜津枝に間違いないだろうと菜津枝の母親に小声で言っている。水本はしてやったりと樋口の顔をチラリと見た。この癖は、ビデオを見ていて気がついたものだ。はしたないと言うよりも可愛いなと思って真似たのだが、うまくいって水本はほくそ笑んだ。それでも他の部分で疑われないかと心配で、水本は緊張しながら食事を進めた。
「ちょっとふたりでドライブに行ってきます」
食後のコーヒーがすむと樋口が菜津枝の両親に告げた。菜津枝の両親が来た日くらいはドクター・シュレーダーの診察は止めにしたいところだったが、ドクターの都合で診察にいかなければならなかった。
「ドライブにって、アルコールが入っているのに大丈夫なの?」
「これくらいは大丈夫ですよ」
「飲酒運転で捕まらない?」
「アメリカでは、泥酔状態じゃなかったら、まず問題ないです」
「そうなの? でも、気を付けて運転してね」
「もちろんですよ」
樋口は水本の乗った車椅子を押して車庫へと向かった。水本を抱きかかえて車に乗せる様子を、菜津枝の母親はなんて仲がいいんでしょうと満足げに見ていた。
車が走り出すと、水本はホッと力を抜いた。
「アア、疲れましたわ」
「ご苦労だったな。今日のところは合格だ。明日からも頼んだぞ」
「わかっておりますわ」
ふたりを乗せた車は、ドクター・シュレーダーのオフィスへと直行した。いつものようにフードを被って診察室へと入る。
「痛みはないかな?」
「はい、ありません」
「うん、熱もないようだ。では、診察台に上がってくれ」
婦人科用の診察台はどうも好きになれないと水本は思いながら、大きめのナプキンを付けたショーツを脱いでアブミに足をかけた。
傷が消毒され、クスコが挿入される。冷たさと違和感が水本を襲った。消毒液で奥の奥が洗い流される。
「問題ないな。次は明後日来てくれ。いいね?」
「はい」
水本は診察台を降りて、新しいナプキンを貼り付けたショーツをあげた。
「拡張はきちんとやっているだろうね?」
「やっています」
拡張棒を入れたままにできないかと聞いてみたのだけれど、一日4回やるスタイルは変えてくれなかった。仕方がないのでその方式に従うしかなかった。
「ドクター? いつから使えますか?」
樋口が少し声を落として尋ねている。樋口は、菜津枝を演じさせるだけではなく、女になった水本を抱くつもりのようだ。そうでなかったら、邪魔なものを切り取るだけで充分で、腟まで作る必要もないわけだ。
「そうだな。あと、4週間もすればいいだろう」
「4週間も待たなければならないのですか?」
「4週間なんて、すぐだよ」
そんなドクター・シュレーダーの言葉に納得したような顔をして水本の乗った車椅子に手を掛けた。
ドクター・シュレーダーのオフィスから屋敷に戻る途中で、樋口はケーキ屋に寄ってチョコレートケーキをひとつ仕入れた。
「菜津枝の母親へのプレゼントだ。このチョコケーキが好きでね」
「わたし、チョコレートは好きではありませんわ」
「それは困ったな。菜津枝はチョコレートが大好きで、母親に持っていったケーキを取り上げて半分以上食べてしまうくらいなんだが」
「そんなケーキ、捨ててしまったら?」
「いや、菜津枝の母親が来たときにはいつも夜食に出しているからそうもいかないんだ。我慢して食べてくれ」
「・・・・どうしても?」
「ああ」
他にも食べられないものがあるが、チョコレートだけはどうも好きになれない水本にとって、拷問のようなものだ。
「先に寝てしまおうかしら?」
「久しぶりに両親が来ているのにそんなことはできないだろう?」
「だから、事故のせいにして」
「うん。そうだな。そうするか」
そんな具合に目論んだのだが、ふたりが屋敷に帰り着くや、菜津枝の母親は樋口の持っていたケーキの包みをめざとく見つけた。
「まあ、わたしのためにそのケーキを買いに行ってくれていたのね。嬉しいわ。菜津枝、一緒に食べましょう?」
大喜びで、水本の乗った車椅子を押し始めた。水本は樋口を恨めしそうに見たけれど、樋口は諦めろと言うようなサインを水本に送ってきた。
菜津枝の母親は鼻歌を歌いながら、ケーキを切り分けて皿に載せ、紅茶を入れて運んできた。
「さあ、菜津枝さん、いただきましょう?」
促されて、水本は仕方なくケーキをひとくち口に運んだ。意外なことにケーキが美味しく感じた。首を傾げながら水本は皿にもう一口ケーキを口に入れる。
「お母様、美味しいわね」
「ホント。このケーキはホントに美味しいわ」
ケーキをパクつく水本を樋口は唖然として見ている。
「このケーキに似ているのは・・・・」
菜津枝の母親が銀座とか青山のケーキ屋の名前を挙げ始めた。水本にはまったくわからない。けれど、適当に話を合わせた。
「でも、やっぱりこのケーキには敵う店はないでしょう? お母様」
「そうねえ」
「こちらに来てよかったのは、こんなケーキが毎日でも食べられることですわ」
「あら? じゃあ、日本には帰ってこないつもりなの?」
「そう言うわけではありませんけど・・・・。でも、このケーキは捨てがたいですわ」
「もし、日本に帰ることになったら、定期的に送らせるようにしましょう。そう、それがいいわ」
外国のケーキ屋に定期的に送らせるなどという発想は、金のあるものの発想だなと水本は思った。
「そそろ、お休みになりませんか? 長旅でお疲れでしょう?」
樋口が、これ以上話が長引くと、おかしなことになると思ったのか、そんなことを言い出した。
「そうね。そういたしましょうか?」
菜津枝の母親が簡単に同意したので、樋口は助かったというような表情を浮かべた。菜津枝の両親を来客用の寝室を追いやったあと、樋口が水本に尋ねた。
「チョコレートはダメだったんじゃないのか?」
「ダメだったはずなんだけど、何故か美味しかったの」
「不思議だな」
「ええ」
それは水本の身体の中に流れ続けている女性ホルモンのせいなのであろうけれど、そんなことには水本自身も気づいていなかった。