乾期だというのに突然スコールやってきた。そのスコールが去ったあとのマナオスの空はカラリと晴れ上がって、地面が濡れているのに気がつかなければ、ほんの先ほどまで雨が降っていたなどとは信じられない天気だった。
川岸にある港から歩いて10分ほどの距離に建っている安ホテルの部屋の中で、河野陽平、水本彰裕、立花勇の3人は、旅立ちの準備を始めていた。
「忘れ物はないだろうな?」
リーダー格の河野は、そう言いながらバスルームの中を覗く。
「髭剃り、忘れてるぞ」
河野は、電動シェ−バーを立花にポイと投げた。
「サンキュウ。これを忘れちゃ、大変だ」
立花は髭が濃い。毎日に朝晩剃らないと、髭の中に顔が埋もれてしまうくらいだ。
「彰裕はいいよな。毎日剃らなくてもいいんだから」
そう言われて、水本は顎を掌で撫でた。水本が髭を剃ったのは、日本を出るときだった。ほんの少し髭が伸びているばかりだった。
「男性ホルモンが足りないんじゃないか?」
立花のそんな言葉に水本はちょっとムッと来るが、いつものように受け流した。
「脳味噌が足りないよりいいさ」
「ああっ! 言ったな! ちょっといい学校に行ったくらいで」
立花は水本に詰め寄る。
「喧嘩するなよ。早く出ないと、また乗り遅れるぞ。さあ、出かけよう」
リュックを担いで河野はドアへ向かった。残るふたりも黙り込んでリュックを担いで河野のあとを追った。
3人は、中学、高校時代の同級生で、それぞれ別の大学へ進学したのだが、休みとなると一緒につるんで遊び回っていた。
大学2年になって、大学生としてなれ、一段落したところでちょっと冒険しようと言うことになった。
言い出したのは、いつものように河野だった。
「今度の夏休みを利用して、アマゾンへ行こう」
「アマゾン!」
水本と立花は顔を見合わせた。
「そう。生命の宝庫。見たことにないようなものを見られるぞ」
河野は、すでに綿密な計画を立てていた。全体の行程表。さらに日毎に細かい行程表。呆れるばかりだ。
「行こうぜ」
そんな河野の言葉に水本と立花はもう一度顔を見合わせ、答えた。
「行くか」
「うん」
反対する理由などなかった。
それぞれの両親は当然のごとく反対したのだが、河野が説得して回った。
「大学を出て社会人になったら、こんな冒険はできないんですから。先になって後悔したくないんです。後悔先に立たずって言うでしょう?」
河野はとにかく押しが強い。両親たちを見事に説得して、夏休みに入ったとたん、出発することになったのだった。
日本を出たのは三日前だった。行程表ではサンパウロまで約一日、それから飛行機を乗り継いでマナオスへ、さらにセスナに乗ってノーバ・オリンダ・ド・ノルチまで半日もあれば着く予定だったのに、飛行機が遅れて乗り継ぎできなかったり、荷物が行方不明になったりで、大幅に予定が遅れて、マナオスの宿を取らざるを得なくなっていた。
「ともかくここまで来たんだから、明日はノーバ・オリンダ・ド・ノルチだ」
それが、前日の話だ。
「明日からは自由気ままな旅だから、すぐに取り戻せるさ」
河野は、夕食に出されたシュハタコを頬張りながら自信ありげに言った。
「ノーバ・オリンダ・ド・ノルチに着いてからはどうするんだ?」
「アマゾン川を遡る。可能な限り遡って、原始に近い自然を見るんだ」
水本と立花は頷く。東京などから見れば、マナオスは自然が一杯だけど、『アマゾンに来た』と言うには人の手が入りすぎている。もっと奥地に行かなければとふたりは感じていたのだ。
予定時間の1時間前について、丁度いいななどと3人で語り合っていたのだが、セスナはなかなか出ない。パイロットが飲んだくれていて、酔いが覚めるまで待てと言われ、出発したのは夕方だった。
予定がまた一日遅れてしまった。しかし、ノーバ・オリンダ・ド・ノルチの街は非常に落ち着いた綺麗な街で、一晩ゆっくり過ごすことができたのはむしろラッキーだと3人は思った。
翌日、3人は再びリュックを背負って港へと向かった。港に向かって歩きながら、立花は町並みや行き交う人々にカメラを向けてシャッターを押した。メモリーカードを10数枚持ってきているので、いくらとっても大丈夫だと立花は他のふたりに自慢した。河野と水本は普通のカメラを持ってきたので、自分もデジタルにすればよかったと後悔させられていた。
河野は、日本を出る前に連絡しておいた船頭から送られてきた地図を片手に、先頭を歩いていく。
「まだなのか?」
「この先みたいだな」
3人が歩きながらキョロキョロしていると、100メートルほど先で3人に向かって手を振る男がいた。
「あの人かな?」
河野が少し早足になってその男に歩み寄っていった。
「ジョナサン・イトウさんでしょうか?」
「河野さんですね」
「すみません。予定が遅れてしまって」
河野は頭を下げた。
「ブラジルじゃあ、一日や二日くらいの遅れは遅れになりませんよ」
そう言って、ジョナサン・イトウはニッコリと笑った。ジョナサン・イトウは日系3世だと言う。通常は雑貨店を経営しながら漁師をやっているらしいが、マナオスを訪れる日本人を中心に、時々ガイドをしていると言うことだ。日本語が話せることが予めわかっていたから日本語で話しかけたのだった。
年の頃は、30の後半くらい。日焼けだけのためとは思われない浅黒い皮膚の肩当たりに刺青が見えた。何かの紋章らしいものの周りに恐らくポルトガル語と思われる文字が描かれていた。胸は厚く、二の腕の発達した筋肉から、雑貨商の割には日頃肉体労働に従事しているのがわかる。人なつこい、陽気な男だという印象を3人は共通して持った。
「これですか?」
「わたしの仕事用だよ」
もっと大きな舟を想像していたのに、公園などで乗るボートを一回りだけ大きくしたような小さな舟に3人は顔を見合わせた。
「この方が趣があっていいかも」
河野はそう言って船に乗り込む。水本と立花も仕方なく船に乗り込んだ。ジョナサン・イトウが船外機のエンジンを掛けた。けたたましい音が響き渡った。
「ホントに大丈夫か?」
立花が河野にこっそり耳元で囁いた。
「予算が限られているからな」
それがすべてだ。金さえあれば、もっと豪華な船に乗れる。金さえあったら、飛行機が遅れることも乗り遅れることもなかったのだ。それはわかっていたことだ。
「こんな旅の方が楽しいし、思い出に残るんだ」
少し大きな船の間をすり抜けていく小船から、岸辺に咲いたハイビスカスを眺めながら、河野は言った。立花は、相変わらずデジカメのシャッターを切り続けていた。
ハイビスカスに限らず、南国に咲く花の鮮やかさに3人は圧倒された。そんな花の群れを見つけるたびに船を寄せて貰ってシャッター切った。
「おい! あの猿。何とか言う珍しい猿だぜ」
立花が指さす方に、小さな猿の群れがあった。船を寄せると逃げてしまう。
「望遠がないからなあ」
3人とも、3倍ズームが精一杯で、恐らく画面に小さく映っているばかりだろうと思ってがっかりしていた。
「このあたりは、釣をするヒトには絶好の場所だよ」
ジョナサンが釣り糸を垂れている他の船を指さしながら言った。
「何がつれるんですか?」
「いろいろだよ。ピラニアも釣れるよ」
「ピラニアって、人間も襲うんでしょう?」
「はは。怪我などしていなかったら襲われることはないよ」
「そうなんですか」
釣り人がかなり大きな魚を釣り上げているのが見えた。
「あれはナマズの一種だな」
説明するともなく、ジョナサンが呟いて、船を川上へと向けた。
「おっ! ワニの群れだ」
立花がデジカメを向けた方にワニがずらりと横たわっていた。
「生きてるのか?」
河野が目を細めて見ながら言った。
「生きているに決まってるだろう? こんなところに剥製を置くヤツなんかいるもんかよ」
水本の意見に、河野は肩をすくめた。
「しかし、ホントに剥製みたいに動かないな」
「あっ! 動いた!」
向かって左端の数頭が争いを始めたらしく、激しく動き出した。しかし、それも数分だった。すぐに元の剥製状態に戻ってしまった。
「結構動きが激しいんですね?」
「水の中だともっと俊敏だよ」
舵を操作しながらジョナサン・イトウが答えた。
「へえ、そうなんですか?」
「泳ぐスピードも速いから、対岸にいると思って油断していて食われてしまった人間がたくさんいるんだよ」
「怖いですね」
「3年前だったか、目の前で友人がワニに食われてしまってね」
3人とも驚きに目を見張ってジョナサンの話に聞き入った。
「助けようとしたけど、ワニが次から次からやってきて、こちらの方が危なくなってね。結局、食われてしまったんだけど、その間、たったの5分だったよ」
「5分!」
「ああ。5分で、影も形もなくなってしまったんだよ」
ワニがバシャリと跳ねた。3人は、ビクッと飛び上がって体を小さくした。ジョナサンは笑みを浮かべた。脅し半分と言ったところかもしれないと河野は思っていた。
ジャングルの切れ目に、人家が見えてきた。集落があるらしい。
「そろそろ昼食にしましょう」
ジョナサンは、桟橋に船を寄せていった。
「ヘイ! ジョナサン、調子はどうだ?」
桟橋にいた40くらいの男が声をかけてきた。
「このところ不漁でな。ガイドでもしないとやっていけないよ」
何やらふたりで話しているのだが、英語じゃないので、3人にはさっぱりわからなかった。
「やつは、この村の顔でね。ヤツに頼めば、何でも調達してくれるんだ」
「そうですか。昼食は?」
「ああ、あいつが家に招待してくれた」
「ただで?」
「一応ただだが、何かプレゼントでもしないといけないだろうね」
そう言われて、3人は顔を見合わせた。プレゼントになるようなものを持っていなかったからだ。
「陽平の吸っているタバコでいいよ」
「ええっ・・・・」
ヘビースモーカーの陽平にとってタバコは貴重品だ。貴重品だからこそプレゼントとしての意味がある。
水本と立花に見つめられて、河野は渋々タバコをふたパック取り出した。ジョナサンは、ニヤリと笑ってそのタバコを受け取り、先頭切って歩き始めた。
その集落の中では比較的大きな家に案内され、テーブルにつかされた。ジョナサンは先ほどの男に話しかけタバコを手渡している。男は、手に持ったタバコを高く差し上げて満面の笑顔を3人に向けてきた。その手にはひと箱しかない。どうやらジョナサン・イトウが失敬したようだ。
しばらくして出されたのは、黒豆と豚肉を煮込んだものがたっぷりと載った飯だった。フェイジョアーダと呼ばれる料理で、その日が丁度土曜日だったから3人に振る舞われたようだ。
「美味い」
河野はガツガツとむさぼり食った。立花も口に運んでいたが、水本はうんざりした顔をしながら半分ほど片づけた。
「どうした? 口に合わないか?」
ジョナサンが水本に尋ねた。
「ちょっとこってりしすぎて・・・・」
「もっとあっさりした方がいいのか?」
「そうですね」
「じゃあ、後口にフルーツでも貰おう」
ジョナサンが手を挙げて、男の妻らしい女性に何やら話をした。女性は、皿に盛った黄色の果物をテーブルの上に置いていった。
「パパイヤかな?」
立花はひとつ抓みながら言った。
「そう。こちらではマモンと言うんだよ」
ジョナサンもひとつ口に入れながら立花に答えた。
「マモンって言うんですか。こんなうまいパパイヤは初めて食った」
立花は次から次へとパパイヤを口の中に放り込んでいった。
「俺にも残しておけよ」
河野が立花の食いっぷりに意義を挟んだ。
「甘いのは嫌いなんだろう?」
「砂糖甘いのがダメなだけだ。オイ! 残しておいてくれって」
「頼めばまだ出てくるよ」
ジョナサンにたしなめられて、河野はフェイジョアーダを口に運び続けた。最後にガラナジュースをいただいてから、3人は男とその奥さんに丁寧に挨拶して桟橋へと向かった。
再びアマゾン川を上る。しばらくして、ジョナサンが船を岸に寄せていった。
「ここにはワニはいないから大丈夫。少し歩いてジャングルの中を見ましょう」
5分ほど歩いたところで、ジョナサンは木の幹を調べ始めた。
「何してるんですか?」
「ちょっと待って」
そう言われて3人は、辺りを見回す。
「すげえなあ・・・・」
「日本にいたら、こんな経験できないぞ」
「来てよかったろう?」
「ああ」
ジャングルの雄大さに3人は圧倒されていた。
「いた、いた」
ジョナサンが叫んだ。
「何がいたんです?」
「これだよ。これ」
ジョナサンが指さす方に、大きなカブトムシがいた。日本のカブトムシと違って、上の角が極端に長いカブトムシだった。
「でかあ・・・・」
「日本語でヘラクレスカブトムシというのかな?」
「大きいんですね」
「これは小さい方だな。去年、20センチばかりのものを見たことがある」
「へええ」
3人とも驚きに目を丸くした。
「蟻もでかいや」
日本で見る蟻の3倍はありそうな蟻が列をなして歩いていた。
「おっ! あの蝶々はアマゾンにしかいない蝶々だぞ」
立花が叫んだ。指さす方向に、鮮やかなブルーの羽を持った蝶々が舞っていた。
「あれはモルフォチョウですね。もう少し奥に行かないと見られないんですが、あなたたちが運がいい」
「まるで作り物みたいだ。生きている蝶々だなんて思えないよ」
そう立花が呟いたが、河野も水本も同じ思いだった。
「さあ、もう少し上流へ行きますか?」
蝶々が飛び去ると、ジョナサンが片手をあげて合図した。3人は名残惜しげに振り返りながら川に戻っていった。
ジョナサンは、同じようにして何カ所かに船を止めては3人に珍しい場所を見せた。3人は感激するばかりだった。
日が傾き、船はその日宿泊する予定の村の桟橋へと横付けされた。昼食を取った村に比べてかなり小さな村だった。
ジョナサンが知り合いらしい男と交渉して、部屋を借りることができた。夕食は野菜や肉のごった煮のようなものとパンだった。
あまり美味いものではなかったが、腹が減っていたので、3人とも何とか平らげた。
「ただ見て回るだけなのに、結構疲れるな」
「かなり歩いたぞ」
「そうだったっけ?」
珍しいものばかりだったから、どれくらい歩いたかわからなかったのだ。3人は、アッと言う間に眠りについた。