第二章 蛆虫のごとく

 東京に着いた。まだ、朝が早いから、そんなに人は多くはないが、俺の田舎に比べれば、遙かに人影が多い。こんなに朝早くから、何してるんだろうと思ってしまうくらいだ。みんな鞄を抱えているから、通勤しているんだ。信じられないよ。東京の人間は馬鹿じゃないのか。通勤に人生の大切な時間を無駄にするなんて。
 まあ、人間の一生なんてのも、無駄と言えば、無駄なのかもしれない。無駄でないことをしている人間は、数少ない。俺もそんな人間になりたいと思ったことも、ないことはない。だけど、そんな人間になれないことはすぐに分かった。俺には、そんな才能も根性もない。

 俺は中央線で、新宿へ向かう。新宿がいいような気がするのだ。
 何か仕事を探さなきゃと思ったが、俺のような子どもに、そう簡単に仕事が見つかるわけがない。俺は、小学生には見えないが、かといって高校生にも見えない。見たまま、中学生だ。バッグを持ってうろうろすると、すぐに家出と分かってしまうので、ロッカーに隠して、町の中を歩き回る。
 三食ともファミリーレストランで済ませてから気付いた。こんなことしてたら、いくら金があっても足りない。金を稼ぐまでは節約しなくちゃと。

 日が暮れてきた。どこに寝ようか。まさかホテルには泊まれない。ふと見ると、段ボール箱を周りに囲って、路上で寝ている人たちがいる。俺も、それを見習って、寝場所を作ることにした。
 段ボールを探すが、なかなか見つからない。やっとの事でいくつか見つけて、場所を探す。薄汚れたおっさんに、向こうへ行けと言うような顔で睨み付けられた。しばらく探すと、人の良さそうな、痩せた色黒のおばさんがにこりと笑って、仲間に入れてくれた。
 「新聞紙を服の間に入れておくと暖かいよ」
 俺が寒さで震えているのを見て、そのおばさんが教えてくれた。ゴミ箱に捨てられていた新聞紙を拾ってきて、シャツの下に詰め込む。幾分暖かくなったが、ベッドの中と同じというわけにはいかない。家出したことを少し後悔した。しかし、自分で決めたことだ。後悔なんて、もう絶対しないと自分に言い聞かせた。

 トイレの水で顔を洗い、うがいをする。時々、頭も洗う。洗濯だって、トイレの水道でやってしまう。もちろん洗剤がないから、水洗いだけだ。
 仕事は見つからない。新聞配達だって、雇ってくれない。身元を隠した未成年者に仕事なんてくれるわけもなかった。
 ロッカーに荷物を預けるのは、すぐに止めた。食事も随分前から一日二回に減らした。周りを見ていると、日に一回しか食事していない連中もいる。しかし、育ち盛りの俺にとっては、空腹は辛い。腹が減ると、水道の水をがぶがぶ飲んで誤魔化した。
 クリスマスソングが鳴り響き、サンタクロースが宣伝のプラカードを持って歩き回る。若いアベックたちがお喋りをしながら行き交う。俺は、道端に座って、空腹を堪えてそんな光景を眺めていた。
 除夜の鐘は段ボールのすみかの中で聞いた。ひとりでいることには慣れていたはずなのに、独りぼっちがこんなに寂しいものだとは思わなかった。けれども、もう引き返せない。引き返すわけにはいかなかった。俺にも意地というものがある。

 貯金が、少しずつ減っていく。しかし、仕事は見つからない。たまに、宣伝入りのティッシュ配りのバイトにありつくことがあった。受け取ってくれる人、胡散臭そうな顔をして、無視して受け取ってくれない人。全部配り終えなければ、バイトは終わりにならない。捨ててもいいから受け取ってくれないかなと思いながら、ティッシュを配る。要領のいい先輩たちは、二個ずつ配ったりしている。俺はそんなことしていいのかと思って、一個ずつ配るから、なかなか終わらない。一日中、配って、報酬は僅かだった。他のバイトの連中より少ない。俺が、中学生くらいと思ってピンハネしているようだ。しかし、文句も言えない。
 そんな仕事にも、滅多に巡り会わない。ホームレスの人たちに混じって、親切な人たちに助けられながら、俺は何とか暮らしていた。しかし、貯金は次第に減っていった。貯金はもはや一万円を割っていた。

 ある日の夕方、近くのコンビニの裏に置かれてあった箱の中に、弁当が入っているのを見つけた。俺はそれをこっそり盗み出して、こそこそと食った。弁当を食いながら、ふと見ると、賞味期限が切れていた。売り物にならないから、捨てる弁当だったんだと気付いた。別に味は落ちてはいないし、翌日、腹も痛くならなかった。捨てるくらいなら、俺が貰ってもいいなとひとり考えた。
 次の日も、同じ種類の弁当が置かれていた。俺は、また盗み出して食った。それほどうまいとは言えないが、腹だけは一杯になる。旨くないから売れ残るんだろうなと思う。
 その次の日、弁当を取り出して、立ち去ろうとしたとき、コンビニの店員に見つかった。
 「おまえだな。泥棒猫は!」
 俺は首根っこを捕まれて、店の裏まで引き戻された。
 「どうせ捨てるんだろう? 俺にくれよ」
 店員は、俺の顔を見ると、それまで険しかった顔が、急に優しくなった。
 「おまえ中学生か?」
 「中学は卒業したよ。働いていたんだけど、面白くなくて、辞めたんだ」
 「辛いことがあっても、頑張らないと生きていけないぞ」
 「・・・・」
 「その弁当、賞味期限は過ぎてるが、食えないことはない。やるから、持って行きな」
 「ありがとう。明日も来ていいかな?」
 「明日は、分からん。売れないものは、置かなくなるからな。もしあったら、残して置いてやるよ」
 「ありがとう・・・・」
 東京に来て、ホームレス以外の人に初めて、親切にして貰って、俺は嬉しかった。俺は弁当を食い終わると、コンビニの前を箒で掃除した。
 次の日、コンビの前を通りかかると、店員が手を挙げて俺を呼んでくれた。裏口に行くと、弁当を手渡してくれた。
 「掃除はもういいぞ。お客さんが変な目で見るから、却ってよくないからな」
 「じゃあ、お客さんが少ない時を狙って、掃除するから」
 「いいから、もう掃除はするな。もししたら、弁当はやらないぞ。迷惑なんだ」
 「分かった」
 俺には、理解できなかったが、汚い格好をした浮浪児が、店の前をうろうろすると迷惑になるんだろう。お返しできないのは心苦しいが、弁当だけを貰うことにした。
 その次の日は、売れ残りの弁当はなかった。その次の日もなかった。弁当の種類を変えたから、全部売れてしまうんだと、店員は気の毒そうに俺に言った。
 ホームレスの人たちの中には、レストランや割烹に出かけていって、お客の食い残しを貰ってくる連中もいた。他人の食い残しなんてと、初めは思ったが、背に腹は代えられない。俺も仲間に加わって、おこぼれを頂戴した。

 着ている服がかなり傷んできた。下着だって。買い換える金はない。俺は万引きすることにした。
 駅裏で、ままちゃりを一台失敬して、かなり離れた人出の多いスーパーを選んだ。買い物客を装ってぶらぶらしたが、上着やズボンを盗むのは、勇気が出なかった。トランクスとランニングシャツを、陰に隠れてズボンの中に押し込んだ。誰にも見られていなかったようだ。
 正面の自動ドアを出て、ままちゃりに乗ろうとしたら、後ろから中年のおばさんに声を掛けられた。
 「ちょっと、君。レジを通らないで出たでしょう? 事務所まで来てくれる?」
 俺は、万引きの監視員に掴まってしまった。その時、逃げようと思えば、逃げられたのかもしれないが、俺は素直にそのおばさんの後に付いていった。
 「盗んだものを出して」
 俺はスーパーの裏手にある事務所の椅子に座って、テーブルの上にトランクスとランニングシャツを置いた。事務所の中を見ると、テレビモニターがずらりと並んでいた。俺が誰もいないと思っていたところも、画面に映し出されていた。
 「名前は何というの?」
 「家はどこ?」
 俺は黙っていた。言えるわけがない。俺は家出少年だから。
 「家の人に知られたくない気持ちは分かるけど、これは犯罪なのよ。分かるでしょう? どうしても言わないのなら、警察の人に来て貰うわよ」
 警察が来ると言えば、俺くらいの年齢の子どもなら、大抵口を割るのだろう。しかし、俺は黙っていた。沈黙の時間が過ぎてゆく。
 「強情な子ね。警察を呼んで」

 しばらくして、警察官がやってきて、俺は近くの派出所まで連れて行かれた。
 「年は? まだ中学生か?」
 「十六です。中学は卒業した」
 俺はまだ十五だが、卒業式はとうに過ぎている。
 「そうか。家出か?」
 完全に見透かされていた。俺のような家出少年はこのあたりには多いのだろう。
 「親が心配してるぞ」
 「心配なんて、するもんか」
 「おまえがそう思うだけだ。おまえの親がどんな親なのか知らないけど、どんな親でも、親って言うものはなあ、子どものことが心配で、心配でたまらんものなんだぞ」
 「そんなことないよ」
 「名前は?」
 「・・・・」
 俺の腹がぐぐっと鳴った。そう言えば、今日は朝から飯を食っていない。
 「飯はまともに食ってるのか?」
 「食ってるよ」
 「嘘言うな。腹が鳴ってるじゃないか!」
 警察官が少し語気を強めて俺を睨んだ。
 「・・・・今日だけ、今日だけ食ってないだけだ」
 「まともに食ってて、そんなに痩せてるはずがないじゃないか。真田! もう昼飯時だな。カツ丼でも食わないか?」
 「いいですね」
 「この子の分も頼む」
 「了解!」
 俺は黙って椅子の上に腰掛けていた。十五分ほどして、俺の目の前に、あつあつのカツ丼が置かれた。
 「うまいぞ。早く食え」
 警察官は、俺の前でカツ丼を食い始めた。カツ丼なんて、いつ食ったろう? 家にいるときでさえ、食った覚えがない。唾液が口の中にじわっと沸いてくる。
 俺は、しばらく躊躇っていたが、警察官の旨そうに食う様子に我慢しきれず、どんぶりを引き寄せて、ガツガツと、飢えた犬のように、ガツガツという表現が相応しくカツ丼を貪り食った。
 「おまえのおふくろさんが、こんなに腹を空かせている今のおまえを見たら悲しむだろうな」
 不意に涙がぼろぼろとこぼれた。
 「藤本博です」
 「何? 藤本? ひろしと言ったか?」
 「藤本博です」
 俺は、食い物につられて白状してしまった。仕方がない。身元がばれれば、家に送り返されるだろう。帰りたくはないが、帰るしかない。
 「主任。去年の暮れに家出人の捜索依頼が出てますよ」
 真田と呼ばれた若い方の警察官が、派出所の隅に置かれたコンピューターの画面を見ながら、そう報告した。
 「そうか。早速、家族に連絡しよう」
 主任と呼ばれて警察官が、立ち上がって、モニターに映し出された電話番号を見ながら、電話し始めた。出たのはおふくろらしい。
 「ああ、そうです。お宅の息子さんをここに保護しています」
 警察官は、派出所の場所を説明している。俺は、急にトイレに行きたくなった。
 「すみません。トイレどこですか?」
 「トイレなら、そこのドアの向こうだよ」
 俺は、トイレに入って小便した。その時まで、俺は逃げ出すつもりなんてなかった。トイレの窓に、鍵が掛かっていないのを見るまでは。
 警察官は、まだ電話をしている。俺は悪いとは思いながら、よじ登って窓から外へ出た。そしてそのまま、一目散に走って逃げた。一度も後ろを振り返らず、走れるだけ走ってから、振り向いた。誰も追っては来なかった。俺は、派出所のある方向に深々と頭を下げた。
 「逃げ出してごめん。カツ丼美味しかったよ。だけど、俺にはこうするしかないんだ。帰るわけにはいかないんだ」

 出かける前にバッグを隠して置いたところに戻って、バッグを取り出そうとしたら、ない。ぼくの全財産の入ったバッグがなくなっていた。方々探し回ったけれど、結局見つからなかった。誰かが盗んでいったとしか思えなかった。まさか、警察に届けて、探して貰うわけにはいかなかった。
 残ったものは、着ているものと、預金通帳だけだった。預金通帳だけでも持っていってよかった。けれど、残った金は五千円を切っていた。
 その日は何もする気にならなくて、早々と段ボールに潜って寝た。

 俺は、今度は干してある洗濯物を盗むことにした。ごみ箱をあさって、手頃な袋を調達すると、万引で捕まったスーパーとは反対方向へ、またもや駅前で盗んだままちゃりを走らせた。
 洗濯物はたくさん干してはあるけれど、とても手が届かないところや、人がいつもいるところばかりで、なかなか盗むような洗濯物は見つからなかった。夕方になって、洗濯物は取り入れられ、俺はとうとう目的を達することができなかった。
 薄暗くなった道を、いつもの場所に向かって自転車を押して歩いていると、アパートらしい建物の二階のベランダに、ズボンが干してあるのが見えた。部屋の電気は点いていない。朝干して、そのまま、まだ帰ってきていないのだろう。
 俺にとって幸運だったのは、一階の部屋にも明かりが点いていないことだった。俺は、樋を伝わって、二階のベランダに昇ると、物干しの器具ごと袋の中に詰め込んで、素早く降りて、自転車に飛び乗った。
 自転車を走らせていると、向こうから、警官らしい制服を着た男が、自転車でこちらへやってくる。警棒が見えるから警察官に間違いない。
 「こんちわ! お疲れさま」
 俺は、精一杯の笑顔で挨拶した。警察官は少し驚いたような顔をしたが、にっこり笑って、俺に手を振ってくれた。
 逃げ隠れしたら、却って怪しまれる。俺のもくろみは、大成功だ。
 公衆トイレに入って、獲物を確認した。ジーンズに、Tシャツ、それに下着なのだが、全部女物だった。女物のショーツに、ブラジャー。それに、ランニングシャツみたいな肩紐が細いやつ。これは、キャミソールとか言ったかな。Tシャツは、Vネックで、襟元に花のプリントが入っている。ジーンズもポケットのあたりに花の刺繍入りだ。
 どうしようか? 一日掛かって盗んできたものを捨てるのは勿体なかった。ブラジャーは役に立たないが、ショーツは穿ける。小便するときは、横からか、上からか出せばいい。キャミソールは、下に着るから着ても別に問題なし。
 Tシャツもジーンズも着て、人がいないことを確かめてから、トイレの外に出て薄汚れた鏡に映してみた。ちょっと、だめだ。こんな格好じゃあ外を歩けない。
 俺の髪は、五センチばかり伸びてぼさぼさだ。まるで、おかまのように見える。Tシャツを脱いで、それまで着ていたシャツを上から羽織る。この方がいいようだ。シャツをジーンズの外に出しておけば、ジーンズの刺繍も尻のだぶつきも隠れる。Tシャツは、今まで穿いていたジーンズを穿くときに着よう。
 俺は脱いだ下着とジーンズをトイレの水道で洗った。下着はともかく、ジーンズからは、泥で煮染めたような汚れが流れ出た。新しい服を手に入れることができてよかった。俺は満足した。
 ジーンズは木に掛けて干すことができるが、ショーツとキャミソールは人の目に付くところには干せない。堅く絞って、袋の中に広げておいて、日の当たる場所に置いておく。そうすると、何とか穿けるくらいには乾く。今度は男物を盗まなくちゃ。