第一章 旅立ち

 ぜんぜん分かんねえ。俺には、ちんぷんかんぷんだ。川本のやつが、大声を上げながら、黒板に数字を書いている。因数分解ねえ。こんなものが、将来役に立つのかね。足し算と引き算が出来りゃあ、世の中事足りるんじゃあないのかなあ。それに、かけ算とわり算が出来りゃあ、万々歳だよ。
 「藤本! 問題五十五を、前に出て解きなさい」
 あと二十分で三時限目も終わりだな。早く終わんないかなあ。俺は、窓から外を覗いた。隣のクラスは、体育だよ。体育もあんまり好きじゃないけど、数学よりは、ましだな。
 「藤本! 早く前へ出てこんか!」
 藤本!? 俺のことだ。慌てて前を見ると、川本が目をつり上げて俺を睨み付けていた。
 「藤本! 早く出てこい!」
 「前に出て何するんですか?」
 「わたしの言うことを聞いていなかったのか! 五十五番を前に出て解けと言ってるだろう」
 「五十五番ですか?」
 「そうだ。五十五番だ」
 「解けません」
 川本が怒りを露わにしながら、俺に近づいてきた。
 「何を聞いてたんだ。ちゃんと聞いてのか?」
 「聞いてました」
 「聞いてたら、解けるだろう?」
 「聞いてたけど、解けません。ぼくの耳には、念仏です」
 クラス中が、どっと笑った。
 「ちゃんと聞いてなかったんだろう」
 「聞いてたけど、頭には入ってません。右の耳から入って左の耳に抜けてしまいました。素通りです。先生の言葉はまるで異国の言葉です」
 また、クラス中が、笑った。
 「わたしの授業を聞きたくなかったら、出ていきなさい!」
 いつもなら、俺はひと言謝って済ませるのだが、今日は虫の居所が悪かった。俺は、席を立って、ドアの方へ歩き始めた。
 「藤本! 何をやってるんだ」
 「出て行けって、言ったでしょう? 自分の言ったことをもう忘れちゃったんですか? 先生、惚けたんと違いますか?」
 昔の教師だったら、こんな時、俺を殴り倒していただろう。親父にそんなことを聞いたことがある。川本には、そんな勇気はない。そんなことをしたら、新聞沙汰になるのは火を見るより明らかだ。川本は、顔を真っ赤にして、怒りを飲み込んだ。
 「いいから、席に着け。授業は、まだ終わっていない」
 俺は返事をしないで、そのまま教室を出た。川本が俺を追って廊下へ走り出てきた。
 「藤本! 教室へ戻れ」
 「やなこった」
 俺は、廊下を走り、階段を掛け下って、下足置き場へ急いだ。振り向くと川本が追いかけてくる。早くしないと追いつかれる。うしろで、どたんと大きな音がした。川本が階段下の曲がり角で滑って転んだようだ。尻を撫でながら、立ち上がるのが見えた。俺は、下足置き場で、靴を取り出すと、急いで履き替えて、一目散に外へ逃げ出した。川本がビッコを引きながら走ってくる。
 「こら! 藤本! 待たんか!!」
 校庭で体育の授業をしている二組の間を抜けて、俺は裏門から学校の外へ走り出た。川本が、門のところまで追いかけてきたが、諦めたようだ。俺は運動は得意じゃないが、川本に追いつかれるほどのろまじゃあない。

 川本がもう追ってこないことを確かめると、俺はぶらぶらと歩き始めた。
 学生服姿だから、町の中をうろうろできない。補導には掴まりたくない。こんな時間だから、うちにはまだ帰れない。着替えはないし、脱ぐには風が冷たい。俺は、近くの公園に行き、ブランコに振られた。日溜まりにいると、結構暖かい。三時限目の終わりのチャイム、そして四時限目の始まりのチャイムが聞こえた。四時限目は何だったっけ。そうだ。俺の大嫌いな英語だ。英語は必要なのかな。外国に行くつもりはないから、英語もいらないな。もし外人が近づいてきたら、逃げればいいのだ。
 それにしても腹減ったなあ。逃げ出すのは、午後にすればよかったなあ。そう、給食食ってからにすりゃよかった。そう思ったが、あとの祭りだ。
 ポケットの中を探ってみると、百円玉が二個出てきた。二百円かあ。パンと牛乳にするか? それともパン二個にするか? 真剣に悩む。こんなことで悩む人間なんて、今どきいるんだろうか?
 結局、俺は公園のそばにあったコンビニでパンを一個買った。あんまり旨そうには思えないが、とにかくその店にある安くて一番大きいやつを買った。公園に戻って、水を飲みながらパンを噛った。チャイムの音が聞こえてきた。四時限目が終わったようだ。
 しばらくして、幼稚園の制服を着た小さな子どもが三人、公園へやって来た。幼稚園帰りだな。俺もあのくらいのガキの頃は、素直ないい子だったのになあ。いつから俺は、こんなひねくれ者になっちまったんだろうな。子どもたちがキャアキャア言いながら遊ぶのを、俺はぼんやり眺めていた。
 そんな光景を見るのにも飽きて、公園の芝生の上で午後の昼寝をした。つまらん授業を聞くより、ずっとましだ。
 一時間ほど昼寝をした頃、犬を連れた太ったおばはんが、俺を横目で見ていった。やばいぞ。嫌な予感がする。あの手の人間は、きっと俺のことを警察にご注進する。学校にも行かないで、公園で寝ている子どもがいるってな。
 俺は、起き出して、公園を出て物陰に隠れた。数分後、おばはんが去っていった方から、ポリ公がふたりやって来た。思った通りだ。ポリ公は、公園の中をキョロキョロと見回すと、そのまま来た道を戻っていった。
 今度逃げ出すときは、何処かに着替えを隠して置かなきゃ。
 俺は、辺りを見回しながら公園に戻り、再び昼寝をした。

 どれくらい経ったのだろうか? 寒くなって目が覚めた。あたりはすでに薄暗くなり始めている。太陽の傾き方からすると、午後五時くらいだろうか?
 俺は、制服についたゴミを払うと、家へ向かって、ブラブラ歩き始めた。大きな家の前を通りかかったとき、突然犬に吠えかけられた。
 この野郎! 俺が、何したってんだ。俺は道ばたに転がっていた小石を拾い上げて、その犬に思い切り投げつけてやった。犬はキャインと言って、家の中に逃げ込んでいった。玄関がガラガラと開く音がする。俺は、慌てて走って逃げた。逃げながら振り向いてみると、人相の悪い男が仁王立ちになって俺の方を睨んでいた。何もしていないのに吠えた犬の方が悪いんだ。
 俺の住むアパートの屋根が見えた頃、近所に住む佐々木に出会った。佐々木は、隣のクラスだ。話しはするが、そんなに仲がいいわけではない。
 「また、ふけたんだってな。どこにいたんだ?」
 「公園」
 「何してたんだ?」
 「昼寝」
 「川本ののやつ、かなり怒ってたらしいぞ」
 「そうか」
 「あんまり逆らうと、切れるかもしれんぞ」
 「そんな勇気が、川本にあるもんか」
 「それもそうかな」
 「そうさ。じゃあな」
 「明日は、学校に行くのか?」
 「家には、いたくないから、行くさ」
 「そうか。じゃあな。バイバイ」
 アパートの階段を昇る。二階の一番奥にある部屋が俺のうちだ。3DKとは名ばかりの狭いアパートだ。
 「ただいま」
 「博! あんた、学校を抜け出して、どこに行ってたのよ」
 おふくろが目を三角にして出てきた。右手に包丁を持っている。俺はちょっとどきりとする。飯の炊ける臭いがする。おふくろは夕食の準備をしているのだ。
 「どこって?」
 「しらばっくれてもだめよ。さっき、川本先生がうちに来たのよ。まったく恥ずかしいったらありゃしない」
 おふくろが、俺の目の前に鞄を差し出した。
 「何て、言ってた?」
 俺はおふくろから鞄を受け取りながら、そう尋ねた。
 「もうすぐ卒業なんだから、身を入れて勉強しなさいって」
 「勉強なんて面白くない」
 「面白くないかもしれないけど、やらなきゃ」
 「役にも立たない勉強なんて、やりたくないね」
 「そんなこと言ってたら、高校に行けないよ」
 「高校なんて行く気はないよ」
 「高校行かないでどうするのよ」
 「働くに決まってるだろう?」
 「中卒なんかじゃ、いいところはないわよ。勉強して、いいところに就職しなけりゃ。いいお嫁さんだって、来てくれないんだから」
 「いいとこ出たって、あのざまじゃないか」
 俺は、奥で寝ている親父の方を見やった。親父は、昼間から酒を飲んで、鼾をかいて眠っていた。
 「あのひとは・・・・」
 「親父は、国立大学の経済学部を出たんじゃなかったかなあ。それが何の役に立ってるんだ? 言ってみろよ。なあ」
 おふくろは、視線を床の上に落とした。
 「あの人は、運が悪かったのよ」
 「俺の運がいいと思うのか?」
 「あなたは、お父さんとは違うわ」
 「違わないさ。運が良かったら、こんな家には生まれてないよ」
 俺はそう言い残して、自分の部屋に入って、襖をピシャッと閉めた。
 俺は、ヘッドフォンステレオのイヤフォンを耳にして、ボリュームを上げた。おふくろは、まだ部屋の外でぶつぶつ言っているようだ。三畳の部屋の奥に置かれたベッドに横たわって、ニューミュージックの曲に合わせて体を揺する。何もしないで、一日中、こうしていられたらいいなと思う。

 一時間ほどして、おふくろが俺の部屋の襖を開けた。けばけばしい化粧をして、ラメ入りのロングドレスを着ている。仕事に出かけるのだ。
 「博。夕食準備してるから。食べたら、汚れ物は流しに下げておくのよ」
 「ああ」
 「少しは、勉強しなさいよ」
 俺は返事をしなかった。タクシーらしい車のクラクションが鳴った。玄関から、おふくろが急ぎ足で出ていく音がする。
 おふくろは、この町の飲屋街にある小さなバーでホステスとして働いている。おふくろは、確か三十五のはずだが、店では二十八か九で独身だと言っているらしい。若作りの派手な化粧をしていて、薄暗い中だから、酔った男どもは、みんな騙されるようだ。イヤ、騙された振りをしているのかもしれない。
 おふくろは、バーで酔客の相手をするだけではなく、店がはねたあとも、男の相手をしている。おふくろに直接聞いたわけではないし、おふくろも、俺には絶対そんなことは言わない。しかし、あの店はそんな店だと、噂に聞いた。だから俺は、学校では肩身の狭い思いをしている。おふくろは、それを分かっていない。イヤ、分かっているのかもしれないが、店を辞めるわけにはいかないのだ。堅気の商売で、女が充分稼げるようなところは、この町にはない。
 あんな飲んだくれの親父のために、おふくろは売春までして、食わせてやっている。俺には、おふくろの気持ちがまったく分からない。
 昼飯がパン一個だったから、腹が減った。時計も午後七時を刺している。キッチンと居間の間に置かれたテーブルに、手作りだが冷えてしまったハンバーグとポテトサラダが載った皿が置かれていた。釜から飯を茶碗によそうと、俺はテレビのスイッチを入れて、黙々と飯を頬張った。
 ほとんど毎日、俺はひとりで飯を食う。朝も夜もひとりだ。学校に行っているときでさえ、給食もひとりで食う。他の連中は、何人か一緒になって、ワイワイガヤガヤやっているが、俺はその輪の中には入らない。ひとりぼっちが好きだからとか、仲間はずれにされているとか、そう言うことじゃあない。イヤ、俺はひとりでいることが好きなのかもしれない。
 がらりと襖が開いた。親父とおふくろが寝室として使っている部屋から、親父が顔を覗かせた。襖にもたれかかって、ようやく立っている親父の目は、焦点が合っていない。
 「美佐子は? 美佐子はどこへ行った?」
 「おふくろなら、いないよ。もう、仕事に行ったよ」
 「仕事? そうか。もう、そんな時間か。おい! 博! 酒を持ってこい」
 親父は居間に置いてあるテーブル代わりのコタツの前に座り込んで、濁った目で俺を見上げた。痩せこけて、無精ひげの親父の顔。人生の負け犬の顔だ。
 「博! 酒を持ってこいと言ってるだろうが!」
 「飲みたかったら、自分で注げよ」
 「なにいっ! 親に向かって、なんちゅうものの言い方だ」
 「働きもしないで、一日中酒飲んどって、何が親だよ。ふざけんじゃねえ」
 「貴様!」
 親父が俺に殴りかかってきた。どこにそんな元気があるのかと思うほど、素早い動きで俺の顎を殴った。
 「この野郎!」
 俺も負けずに親父の顔を殴ってやった。テーブルの上の茶碗と皿が床に落ちて、粉々に割れた。何発殴り合っただろうか? 俺の最後の一発が効いて、親父は畳の上に這い蹲った。
 俺は、ジャンパーを引っかけて、夜の町へ飛び出した。
 こんなことは、初めてじゃあない。ほとんど毎日、日常茶飯事のことだ。俺は、この家にはいたくない。高校へ行ったら、もう三年も、あの親父と一緒にいなければならないと考えると、とても勉強する気になどならない。それに、俺には何のために勉強をするのか、その意義も見つかっていない。今の俺にとっては、何もかもが無駄に思える。

 すぐに帰ったら、また殴り合いになる。親父が酒を飲んで、酔いつぶれた頃を見計らって帰ろう。俺は、近くのゲーセンに顔を出した。知った顔はいない。しばらく他人がやっているゲームをぼんやり眺めて過ごした。
 ポケットの中に、百円玉が一個残っているのを思い出した。そのなけなしの百円玉を使って格闘ゲームをやったが、あっという間に終わってしまった。
 ゲーセンの従業員に胡散臭そうな目で見られ始めた。ゲームをしないのなら出て行けと言う顔だ。
 俺は、ゲーセンを出て、ぶらぶら飲屋街の方へ歩いていった。まだ、午後十時だ。おふくろは、今頃から店にやってくる酔客に、媚びを売っていることだろう。
 「博ちゃんじゃないの?」
 声を掛けられて振り向くと、おふくろの同僚のホステスだった。中年の男を連れている。同伴で店に出ていく途中のようだ。おふくろは七時から店に出ているというのに、随分のんびりした出勤だ。
 「やっぱり、博ちゃんね。どうしたの? こんなところで」
 「暇だから、散歩」
 「そう、散歩」
 「誰だ? この子は?」
 「あら、ごめんなさい。知り合いの子どもなの。いつもお世話になっている人のね」
 店のホステスの子どもとは言えないだろうなと思う。互いの仁義もあるだろうから。
 「博ちゃん、遊ぶお金ないんでしょう?」
 俺は、黙って頷く。
 「少ないけど、お小遣いあげるわ。お母さんにいつもお世話になってるからね。じゃあ、お母さんによろしくね」
 俺の手には、千円札が二枚握らされていた。おふくろが何の世話をしているのだろうか? 二度ほどしか会ったことのない俺に小遣いをくれるなんて、変な女だなあ。まあ、そんなことはどうでもいいか。お金を恵んでくれたんだから。
 ゲーセンに戻ろうかと思ったが、親父と、夕飯の途中で喧嘩して飛び出たから、腹が減った。目の前にあるラーメン屋の暖簾をくぐって、一杯注文した。このラーメン屋は、以前おふくろと来たことがある。結構うまかった覚えがある。
 店の中を見回す。一杯飲んで帰る途中の労務者風の男。お喋りに夢中な若いカップル。それにもう一組。夫婦だろうか? 一言も言葉を交わさず、じっと待っている中年のふたり連れ。
 ラーメンを口に運んでいる間中、次から次へとお客が入れ替わる。俺のような、中学生は見あたらない。飲屋街の真ん中にあるラーメン屋で、こんな時間だからなと思う。
 以前おふくろと来たときも、こんな味だったかなと思いながら、汁まで一滴残らずすすり店を出た。
 親父はもう寝たかな。もう寝てるだろうなと考えながらも、俺は、ぶらぶらしていた。水曜日だからだろうか? 通りの客は少ない。不況のせいもあるのだろうな。

 そろそろ午前0時頃だろう。疲れたから、もう帰ろう。アパートに向かっていると、おふくろが働いている店の前に出た。まさか中へは入れないが・・・・。
 そう思っていると、蝶ネクタイをした若い男が、看板を片づけ始めた。もう閉めるのだろうか? お客が少ないんだろうな。そう言えば、おふくろもこのところ、早めに帰ってきているようだ。外で待っていて、一緒に帰ろう。俺は、ビルの反対側にあるゴミ箱の上に座って待った。
 三十分ほどして、おふくろが出てきた。声を掛けようとしたら、ひとりじゃなかった。五十くらいの恰幅のいい、いかにもスケベそうな男と一緒だった。おふくろは、あの男と寝るのだろうか? 俺は、少し間を置いて、ふたりの後を尾けていった。
 ふたりが入ったのは、寿司屋だった。俺はちょっとほっとする。おふくろと男は、酒を飲みながら、寿司を食っているようだ。中から、おふくろの笑い声が聞こえる。営業用だろうけど、おふくろの笑い声なんて久しぶりに聞いた。
 俺は、店の外でじっと待っていた。一時間もしない頃、ふたりが寿司屋から出てきた。帰るつもりなら、目の前にタクシーが停まっている。それなのに、どちらも乗ろうとはしない。ゆっくりと繁華街の外れへと向かう。
 予想していたこととはいえ、俺には、やはり少しショックだった。『逢い引き』と書かれたラブホテルへ、ふたりはそのまま入っていった。
 俺は、とぼとぼと家に向かって歩いて帰った。あのスケベ面の男とおふくろがやっている場面を想像して涙が出た。ぼろぼろと。
 家に帰り着くと、ドアに鍵が掛かっていた。ドアを叩いたって、親父は起きては来ないだろうし、隣近所の迷惑になる。俺は、階段を下りて、裏に回ると、樋を伝わって、ベランダに昇った。俺は運動神経はそんなにいい方ではないが、身は軽い。これくらいは簡単にできる。ベランダのガラス戸には鍵は掛かっていなかった。そろりと中に入って、部屋に戻ってベッドの中に潜り込む。いつまでこんな生活が続くのだろう。中学卒業まで、あと三ヶ月。三ヶ月我慢すれば、俺は自由になれる。

 親父とおふくろが、大きな声で喧嘩している。眠たい目を開けて時計を見ると、午前三時だった。
 「今頃まで何してた!」
 「店で働いていたわよ」
 「嘘付くんじゃない。店は、0時前には、終わっていたはずだ」
 「何故、そんなこと知ってるのよ」
 「・・・・知ってたっていいじゃないか。終わっていたんだろう!」
 「終わったのは、終わったてたわよ」
 「じゃあ、どうして帰りがこんなに遅いんだ!」
 「お馴染みのお客さんが来ていて、誘われて、お寿司を食べに行ったのよ」
 「寿司食うのに、三時間も掛かるのかよ。その男と寝てきたんだろう! 着ているものを脱げ!」
 「いやよ!」
 「やっぱり寝たんだろう。白状しろ!」
 「・・・・寝たわよ」
 「この売女が!」
 ピシャリと頬を叩く音がして、畳の上に母が倒れる音がした。
 「寝たのがどうして悪いのよ。みんな、あんたのせいじゃないの。あんたが飲んでばかりで働きやしないから・・・・」
 「だからって、他の男と寝ることはないじゃないか」
 「あんな店で、いくら貰えると思ってるのよ。わたしだって、あんなことはしたくないわよ。・・・・したくないけど、霞を食って生きるわけにはいかないのよ。博だっているし」
 「・・・・やかましい」
 親父は、おふくろを殴っているようだ。おふくろは、わあわあ泣きながら、抵抗している。俺は耳を塞いで、布団にもぐっていた。
 「止めてよ。止めてったら」
 「やかましい。早く脱げ」
 「いやだってば・・・・。今日はあなたとは、したくないのよ。・・・・止めてよ」
 どたん、ばたんと音がする。静かになったと思っていたら、しばらくして、おふくろの喘ぎ声が聞こえてきた。どうして、どうして、あんな風にやれるんだ。信じられない。

 午前五時。俺は起き出して、アパートを出た。俺は、半年前から、親には内緒で、新聞配達をやっている。金を貯めるためだ。おふくろが悲しむだろうけど、何と言われれようとも、俺は中学を卒業したら、家を出て行くつもりだ。少しは軍資金がなければ、家を出ては行けない。逃げ出すんじゃない。俺は、俺ひとりの力で生きていくつもりだ。
 午前七時。新聞配達が終わってアパートに帰ったが、親父もおふくろもまだ寝ている。俺は、いつものようにトースターで食パンを焼いてマーガリンを塗ると、牛乳を飲みながら噛った。もう、五年もこんな調子だ。
 鞄をぶら下げて学校へ向かう。学校へ行くのは、別に勉強したいわけじゃない。昼飯があるからだ。それに、学校サボって遊び回るような金もない。そんな金があったら、貯金だ。
 俺は一日中、ボーっとして授業を聞くとはなしに聞いている。先公達はとっくに俺のことを諦めている。昨日俺を追いかけてきた川本だけが、俺のことを本気で心配してくれている。俺にはそれが分かっているが、もうどうしようもない。川本に何と言われようとも、真剣に勉強なんてするつもりはない。今日は川本の授業はない。あいつの顔を見ると、却って苦痛を覚える。
 今日は久しぶりに最後の授業が終わるまで学校にいた。いただけで、何にも頭には残っていない。ほとんど居眠りしていた。
 「藤本さん。八木先生が呼んでるわよ」
 「八木が?」
八木というのは、俺のクラス担任だ。テレビに出てくる、鶴瓶に似ている。似ているが、八木は本物の鶴瓶みたいに目が優しくない。いつも、人を小馬鹿にしたような態度で、生徒みんなに嫌われている。旧帝大出身だと言うことで、先公の間では、威張っているが、結局落ちこぼれて、教師やってるだけだ。
 「職員室で待ってるって言ってたよ。伝えたからね」
 「サンキュウ」
 池本は、いつも可愛いな。足が太いのが、難点だけどな。池本が小走りに廊下を駆けていく後ろ姿を見ながらそう思う。
 八木が呼んでるか。どうするかな。行かないと家まで押し掛けられちゃあ堪らんからな。おふくろの悲しむ顔は見たくないし・・・・。

 迷いながら、職員室の前で、うろうろしていると、廊下を歩いてくる川本の姿が目に入った。やばい。俺は、急いで職員室の中に入った。
 「八木せんせえい。俺に何か用っすか?」
 「藤本! こっちへ来い」
 川本は、職員室の前を通り過ぎて、体育館の方へ歩いていった。川本はフェンシング部の顧問をやっているから、これから指導にでも行くんだろう。俺は、ほっとする。
 「先週の進学相談に来なかったな。どうするんだ?」
 「働くよ」
 「おまえの母親は、高校に行かせたいと言ってたんじゃないのか?」
 「俺が行けるような高校があるのか?」
 「西高なら、何とかなると思うが」
 「西高!? あんなところに行くくらいなら、幼稚園に行き直した方が、もっとましだよ」
 「そうは言うが、西高でも、一応高卒の肩書きは貰えるぞ」
 「肩書きじゃあ、食っていけないよ」
 「まあ、それもそうだが、今の世の中、肩書きが必要なこともある。高卒と中卒じゃ、世間の見る目が随分違うんだぞ」
 「先生、俺の親父を知ってるか? 大卒だよ。それが、あのていたらくだ。高卒と中卒で、そんなに差があるもんか」
 「差があるんだ。おまえの親父さんは、運が悪かっただけだよ」
 また、運か。運がよけりゃ、中卒でもいいんじゃないか。そう言い掛けて、俺は言葉を飲み込んだ。どうしても高校へ行かせたい教師。行きたくない俺。いくら議論しても、永久に噛み合わないことは分かっていた。八木に俺の気持ちを理解させる必要なんてありはしない。
 「あさっては、終業式だ。来年はきちんと学校に来るんだぞ。進学はともかく、出席日数が足りんと卒業できんからな」
 「ふああい」
 中学で留年なんて、聞いたことがない。卒業だけはさせてくれる。それは分かっている。しかし、高校進学なんて、俺にとっては時間の無駄以外の何者でもない。

 アパートに帰ると、おふくろが夕食の準備をしていた。親父は、いないようだ。どこへ行ったのだろう。まさか、働きに行ったなんてことはないだろう。おふくろに聞いても、どうせ無駄だから、聞かなかった。
 「今日の夕飯は、何?」
 「今日? 今日は、カレーよ」
 「カレーか」
 「あら、イヤなの? あんた、カレーが大好きでしょう?」
 「じゃあ、明日の朝もカレーだな」
 「いやなら、パンを食べていったら、いいでしょう?」
 俺は返事をしないで、部屋に入った。カレーは好きだけど、週に一度はカレーだもんな。飽きちゃうよ。それに、今日の昼もカレーだったのに、おふくろは、給食のメニューを見てないのかな。そんなこと言っても、いまさら無駄なことは分かっているけど・・・・。

 「博。食べるわよ」
 「あれ!? 今日は仕事に行かないの?」
 「今日は、休み」
 「どうして?」
 「たまには休まないと・・・・。それにちょっと体調が悪いからね」
 おふくろは、椅子に座りながら、腰のあたりをさすっている。親父に昨日の晩、蹴られたんだろう。それにしても親父のやつ、まだ帰ってこない。いったいどこへ行ってるんだろうか?
 「どう? おいしい?」
 「まあまあだな。ああ、そうそう。昨日、美奈さんて言ったかなあ、おふくろの店の人。ホステスしてる」
 「美奈?」
 「昨日の十時頃、店に同伴で出ていった人だよ」
 「ああ、あの美奈さんね。それがどうしたの?」
 「昨日、ぶらぶらしてたら、声を掛けられて、小遣い貰ったんだ」
 「いくら貰ったの?」
 「二千円」
 「そうなの。お礼を言った?」
 「言ったかなあ」
 「だめじゃないの。中学三年もなって」
 「でも、どうして小遣いなんかくれたんだろう? おふくろの世話になってるからって言ってたけど・・・・」
 「昨日一緒に来た人を紹介してあげたのよ」
 「ああ、あの人ね。羽振りが良さそうな人だったね」
 「何処かの社長さんだって、言ってたなあ」
 「おふくろが捕まえておけばよかったのに」
 「お母さん、独身ってことになってるでしょう? 二号になれって、うるさいのよ」
 「結婚してるって言えば良かったのに」
 「そんなことしたら、他の人から指名がかからなくなっちゃうでしょう?」
 「それもそっか。いっそのこと、ぐうたら親父と別れて、その男の二号になれば良かったのに」
 「何馬鹿言ってんのよ。お母さんがお父さんと別れられるはずがないでしょう?」
 「あんな親父のどこがいいんだよ。おふくろに苦労ばかり掛けてるのに」
 「子どもには、分からないわよ」
 「ふん、そんなの分かりたくもないね」
 「そのうち分かる日が来るわ」
 「へええ、そんなもんかね」
 「いやだ。息子にこんな話しするなんて」
 「いいさ。俺も十五だからね」
 「あんたには、まだ大人の世界のことは分からないわよ」」
 「そんなことないよ。おふくろが何してるか、みんな知ってるもの」
 おふくろは、ギョッとした顔をして、俺を見た。俺が、おふくろの売春まで知っているのか、心配になったのだろう。俺は、それ以上何も言わないで、カレーを頬張った。おふくろも、そのまま黙り込んで、カレーを口に運んだ。

 玄関のドアが開いた。親父が帰ってきた。かなり酔っぱらっている様子だ。靴を脱ぎ損ねて、床にばたりと倒れた。おふくろが慌てて親父のそばに飛んでいった。
 「あなた、どこに行ってたの? こんなに酔っぱらって」
 「競艇」
 「競艇に? また、すったんでしょう?」
 「美佐子、俺にも、とうとう運が向いてきた。やったんだ。最終レースで万券だ。二十万だ」
 「二十万!! まさか、使ってしまってないでしょうね」
 「昨日の罪滅ぼしに、全部持って帰った。ちょっとそこの角で、一杯やったけどな」
 親父がよれよれになった上着から、万札を取り出した。おふくろは、それを奪い取って、玄関の床の上に座り込んで数えている。
 「博、酒買ってこい。一級酒だ」
 「馬鹿言うなよ。せっかく持って返った金を、全部酒に変えるつもりかよ」
 「つべこべ言わんで、早く買ってこい」
 「いやだよう。欲しかったら、自分で買いに行ってこいよ」
 俺は親父に向かってあかんべえをした。
 「こん餓鬼が! 食わせて貰ってるくせに、生意気言いやがって」
 「俺は、親父に食わせて貰ってるなんて思ってないよ。俺は、おふくろに食わせて貰ってるんだ」
 「こいつ」
 親父が、今日も俺に殴りかかってきた。親父は相当酔っていた。今日は、一方的に親父をぶちのめしてやった。
 「博、何てことするの。父親に向かって」
 「こんなやつ、父親じゃないよ」
 「何を言うのよ」
 おふくろの手が、俺の頬を打った。
 「どうして、こんなやつの弁護をするんだよ」
 「どんなひとでも、父親は父親なの。それが分からないの?」
 「そんなの分からん。分からないよ」
 俺は、部屋に逃げ込んだ。俺は、おふくろに裏切られた感じがした。あんな親父でも、おふくろは愛しているというのだろうか? 俺には分からない。涙がこぼれた。

 「博、・・・・博」
 「なんだよ」
 「お酒、・・・・買ってきてくれる」
 おふくろが襖を少し開けて、片目を覗かせながら、一万円札を俺の方に差し出した。俺が札を受け取ると、おふくろは親父の元へ戻っていった。
 おふくろにとって、俺より親父の方が大事なんだ。そう思ったとき、俺は決心した。三ヶ月も待つ必要がない。時間がもったいない。今日、今から出ていこうと。
 俺は、先月からすでに準備していた。バッグに、下着とお気に入りの服を一着。ヘッドフォンステレオをバッグに入れて、貯金通帳と印鑑をポケットに入れると、おふくろのくれた一万円札を握りしめた。三ヶ月すればどうせ出ていくのだ。それが早くなっただけの話しだ。
 ふたりに気付かれないようにバッグを持って玄関に行き、俺にとっては、唯一自慢の種のナイキのシューズを履いて外に出た。
 『おふくろ、さよなら。俺がいない分だけでも、生活が楽になるだろう。探すなよ。探しても見つからないところに行くからな』
 そんなメモを机の上に残しておいたが、やっぱり探すだろうな。そう思いながら、小走りに駅へ向かった。
 今、六時五十分だ。たしか、七時半頃に東京行きの夜行があるはずだ。おふくろが、俺の家出に気付く頃には、俺は列車の中だ。
 駅に着いて、列車の時刻表を確かめてみた。午後七時三十二分。東京行きの夜行がある。
 「済みません。東京まで、子ども一枚ください」
 俺は、一万円札を差し出した。
 「ぼく、ひとりかい?」
 「うん。冬休みで、おばあちゃんちに行くんだ」
 家出と疑われないように、俺はできるだけ明るく振る舞う。
 「そうか。東京は広いけど、おばあちゃんちはどこだ?」
 駅員が俺の言うことを信じていないのは、分かっている。嘘を見破ろうという魂胆だ。俺は、準備していた答えを言う。
 「東大和市なんだ」
 「じゃあ、東大和まで買って置いた方が安いよ」
 「東京駅まで伯父さんが迎えに来るって言ってたから、東京まででいいんだよ」
 「そうか。それなら安心だ」
 窓の奥から、切符と釣り銭が返されてきた。俺は急いで改札へ向かう。後ろを振り返ってみたが、おふくろが追いかけてくる様子はない。まだ、気付いていない。
 ホ−ムに出て、列車を待つ時間が長く感じられる。七時三十二分まで、あと十五分。おふくろが、気付きませんように。そう祈るしかない。

 時間通りに列車がやってきた。俺は急いで乗り込む。列車の中はガラガラだ。誰もいないボックスを探して、座り込んだ。窓からホームを窺う。人影はない。列車はすぐに駅を出た。俺はほっと胸をなで下ろす。
 「乗車券を拝見します」
 ビックリした。車掌が俺のそばに立っていた。俺は切符を取り出して、車掌に渡す。
 「どうもありがとうございました。気を付けて、どうぞ」
 誰も乗り込んでは来なかったと思ったのに、列車が動き出してしばらくの間は、列車の中を探し回っているおふくろを想像して、俺は客車の前後の入り口を交互に見ていた。
 今、何時だろう。俺は時計を持たない。キョロキョロと見回すと、ふたつ向こうのボックスに眠り込んでいる男がいるのに気付いた。腕時計をしている。トイレに行く振りをして、時計を覗き込む。八時十分だった。
 俺がアパートを出て、一時間二十分経つ。もう気付いている頃だ。おふくろは、慌てて探し回っていることだろう。三ヶ月後なら、ありがとうも、さよならも、直接おふくろに言えたのになと思うと涙が流れた。