二ヶ月前の10月の終わり、ぼくは倉橋茜として目が覚めた。それ以来、ずっと倉田崇には戻っていない。毎日のように目が醒めたら倉田崇に戻るんじゃないかと思うのに、ずっと倉橋茜のままだ。これが夢だとしたら、あまりにも長すぎる夢だ。どうやら、ぼくは倉橋茜で、倉田崇と言う男になっていた夢を見ていたと言うのが正解のようだ。抓った頬の痛みがそれを証明している。
ただ、自分のことを倉橋茜ではなく、倉田崇だと思っていることは、どう考えても説明ができない。体は間違いなく女だ。それなのにどうしてなのだろう?
ともかく、ぼくは倉橋茜だ。40を前にした男だったはずのぼくが、17歳の女子高生。気恥ずかしいが、仕方がない。倉橋茜としての記憶は曖昧だが、情報を収集して、日常生活に困らないようにしなければならない。
茜のやっている勉強は、受験のためではない。欠点さえ取らなければ、自動的に短大へと進める。だから、楽なものだ。
それでも、負けず嫌いなぼくは、結構真面目に授業を聞いている。
「茜。最近真面目に勉強してるのね」
「まあね」
「何が面白いの?」
「面白いわよ。特に数学は」
「あんた、数学、一番嫌いだって、言ってたじゃないの」
「面白くなったの」
「へええ。茜、あんた、この頃変わったわね」
「そう?」
「まるで人が変わったみたいよ」
この茜が変わった? その通りだ。ぼくは以前の茜じゃない。
「ちょっと大人になったの」
「それだけ?」
「そうだよ」
「それだけじゃないみたいだけど・・・・」
下田喜美子の疑問は当たり前だと思う。ぼくの人格は、倉橋茜ではなく、倉田崇だ。ぼくは、もしかすると二重人格なのかも知れない。
二重人格という言葉は知っていた。しかし、自分に当てはまるなどとは考えていなかった。それを気づかせたのは、ある本を手にしたからだ。
その本とは、ある日、学校の帰り道、たまたま立ち寄った本屋で見た『ぼくを殺した女』と言うミステリー小説だ。
この小説は、実際には女であるが、男として育てられた半陰陽の主人公の心に中に、本来の性である女の人格が生まれて、その女の人格が、主人公の男としての人格が知らない間に体を改造して女になってしまったところから始まる物語だ。
ぼくは、名実共に女だ。それは間違いがない。しかし、何らかの原因で、心の中で倉田崇という男の人格を作り出し、夢の中だけで、倉田崇として振る舞っていた。夢の中だけだから、誰も気付かない。二重人格であることを他人に知られないように、倉橋茜の自己防衛本能がそうさせたのかもしれない。
これまた何かの原因で、本来の茜の人格が隠れて、倉田崇という人格が茜の体を占領した。それが一番事実に近いだろう。そう考えれば、女の倉橋茜の中に、男の倉田崇と言う人格が存在することが説明できる。すべての辻褄が合うのだ。
その考えに辿り着いたとき、ぼくは恐れおののいた。もしも、茜の人格が出てきて、倉田崇の人格が消えてしまうようなことがあれば、その時は、ぼくと言う人格が死んでしまうことを意味しないか? 茜の人格を封じ込めなければ。しかし、どうやって?
少し太った。鏡に映しても気がつかないが、体重計に乗ると、2キロも増えていた。バストも大きくなった。ブラがきつい。
「茜! あんた、少し太ったでしょう?」
一日の授業が終わり、自転車置き場に向かいながら、下田喜美子が話しかけてきた。
「やだ。気がついたの?」
「分かるわよ。胸が大きくなったもん」
「Bがきつくってね。Cにしなくちゃ」
「羨ましい! わたしなんて、Bでも余るのに・・・・」
下田喜美子の胸はぺっちゃんこだ。気持ちはよく分かる。
「彼氏に、揉んでもらったら?」
「彼氏なんていないわよ。知ってるくせに。・・・・まさか、茜、彼氏に揉んでもらってるとか」
「馬鹿言わないの。彼氏なんていないわ」
下田喜美子は、少し妙な顔をした。
「今は誰とも付き合ってないの?」
今は? そんな言葉が出ると言うことは、以前は付き合っていた男がいたと言うことなのか? その言葉を聞いて、夢の中で見たセックスシーンが鮮やかに蘇ってきた。あれは、夢の中の出来事だと思っていたのに、茜の身に現実に起こったことなのか? 心の動揺を抑えて、ぼくは答えた。
「付き合ってないわよ」
「そうなの」
「キー子。わたしが揉んであげようか?」
「やだよ。早く彼氏見つけるわ」
「見つかるかなあ」
「茜! それはないでしょう?」
「ごめん。ごめん」
茜とはタイプが違うが、下山喜美子も結構美人だ。だから、こんな冗談も言える。下山喜美子がブスだったら、こんなことを言ったら、絶交されてしまうだろう。
自転車置き場から校門まで、いつも30分かかる。ずっとお喋りしているからだ。下山喜美子とぼくの帰る方向は違う。校門の前で別れた。自転車に乗って家へと向かう。
交差点で、信号が変わるのを待っていると、同じく信号停止した車の中からぼくを見ている視線に気が付いた。その方向を見ると、中年の男がぼくを見ていた。視線は、ぼくの下半身へ向けられていた。ショーツが見えないのは分かっているけど、いやらしい目で見られるのは、いやなものだ。
それなら、短いスカートは穿くなと言うのかも知れないけれど、これは女子高生のファッションなのだ。
キッと睨んでやると、ぼくに手を振ってきた。やなやつだ。何考えてんだ。おまえみたいな小父さんには、目もくれないよ。
茜の父親は、福岡に単身赴任中。月に一度ほど自宅に帰ってくる。大手の商社の部長をしているらしい。退職するまで、単身赴任が続くとのことだ。
茜として暮らし始めて、一度も父親に会ってなかったが、正月が来て、その父親と初めて顔を合わせた。自分の父親に向かってこんなことを思っちゃいけないのだろうけど、いい男だと思う。
年齢は38歳。3月に39歳になると言う。夢の中の倉田崇と同年齢と言うことだ。つまり、倉田崇と言う人格は、父親を参考にして作り上げたものだろう。
倉田崇と茜の父親はまったく似ていない。ちょっと不思議な気がした。しかし考えてみれば、倉田崇は、夢の中で女になってセックスするのだ。父親に似せたくなかったのだろう。
倉橋進は、六日間の短い休暇を終え、福岡へと帰っていった。父親がいなくなって、ぼくはひどい寂しさを感じた。父親がいる間、余所余所しくしていた自分に腹が立った。人格は以前とは違っても、娘であることは間違いない事実なのだから・・・・。
高校2年の3学期が始まって一週間が経ったある日、食事が済んでしばらくテレビを見た後、お風呂に入った。初めの頃は、裸の自分の姿を見ていると、どきどきしていたものだが、最近はもう慣れた。
湯船を出て体を洗っていると、茜の母親も入ってきた。
「久しぶりに一緒に入ろう」
茜の母親は、茜にそっくりだ。そんなことは、当たり前だ。茜の顔に皺を増やして、少し太らせ、髪をショットカットにすると、茜の母親になる。
「茜。ダイエットしてる割には、太ったみたいね」
「3キロも太っちゃった。でもね、おっぱいが大きくなったからいいのよ」
そう答えて、ぼくは、ボディシャンプーで体を洗い続ける。
「ほんと・・・・。茜・・・・、ほんとに太っただけなの?」
「そうだけど、どうかしたの?」
茜の母親は、ぼくの体をじっと見ている。
「何よ。お母さん。恥ずかしいじゃないの」
「茜! ちょっと、わたしの方を向きなさい」
茜の母親は、恐ろしい目でぼくを睨んだ。それから、確かめるようにぼくの体を眺めまわしたあと言った。
「茜。最後の生理はいつ?」
最後の生理? どうしてそんなこと聞くんだ!? ぼくはその時、母親の意図がつかめなかった。
「いつって、いつだったかしら・・・・」
ぼくが茜になってから、生理になった記憶はない。そろそろ三ヶ月になるが・・・・。女にゃ、生理ってものがあったんだ。そんなこと、ぜんぜん気にもしていなかった。
「茜。あなた・・・・」
茜の母親は、体も拭かずに浴室を出ていった。ぼくは、体に付いたボディーシャンプーを洗い流して、湯船に入った。
「茜! 8月の生理の後は、いつあったの?」
裸のままで、茜の母親がカレンダーを抱えて浴室の出口に立っていた。カレンダーには、赤のボールペンで、×印が六つ付いていた。
すぐにはピンとこなかったけれど、しばらく考えてやっと気付いた。あれは生理があった日のマークらしい。
「早く言いなさい! 9月はいつなの?」
9月のカレンダーには赤の記録がなかった。ぼくが完全に茜に戻ったのは、11月だ。その間の記憶は、倉橋茜の人格と共に心の奥に沈んでいる。
「覚えていないわ」
「覚えていないなんてことはないでしょう!!! ・・・・なかったのね!」
生理がない! ぼくは茜の母親の言わんとすることにようやく気がついて目を見張った。茜の母親は、ぺたりと床に座り込んだ。
「結婚するまで、処女でいなさいって、あれほど言ってたのに・・・・」
茜の母親は、ぼくの妊娠を疑っている。生理がない。少し太って、乳房が大きくなった。よく見ると、乳首のまわりが黒ずんでいた。自分でも、妊娠しているのではないかと思い始めていた。
「あなた、まだ17なのよ。どうして・・・・。お父さんに何て言ったら・・・・」
あれは・・・・、倉田崇として見た夢は本当だったのか? 4人の男とセックスしたという夢は・・・・。それとも、あれはまったくの夢で、他に相手がいるのだろうか?
「茜。明日は学校を休みなさい。病院へ行かなくちゃ」
「病院へ行って、どうするの?」
「どうするって、あなた、妊娠してるかどうか、調べてもらうに決まってるでしょう?」
「妊娠・・・・。わたし、妊娠してるのかしら?」
「自分の体をよく見なさい! 生理がなくって、その体だったら、妊娠に決まってるわ」
「妊娠してたら、どうするの?」
「堕ろせるものなら、堕ろしてもらうの」
「堕ろすって・・・・」
「茜、あなたは、まだ17なのよ。結婚もしていないのに、産ませるわけにはいかないわ」
それはそうかもしれない。母親としては、そう思うのが当たり前だ。
「妊娠じゃないかも・・・・」
妊娠しているらしいとは自分でも思っていた。しかし、男の人格であるぼくとしては、そんなことは思いたくなかった。
「わたしの目は節穴じゃないわ。どうして今まで気がつかなかったのかしら・・・・。ああ、もう、なんてことなの・・・・」
「もし、妊娠だったら、相手の承諾が要るんじゃ・・・・」
「そうよ!! 誰なの? いったい相手は誰なのよ!」
誰だろうか? 夢で見たあの4人だろうか? もしそうだとすれば、可能性は絞られるが・・・・。
自分で自分が怖くなった。この虫も殺さないような顔をした茜が、多くの男と関係を持っているなんて・・・・。
いや、違う。一度だけの関係でも、女は妊娠する可能性があるのだ。多数の男と関係したなんて・・・・。そんなことは思いたくない。
複数の男と関係したということは別として、妊娠した事実を茜の人格は知っていた。そんな自分から逃げ出すために、茜の人格は隠れてしまった。そうに違いない。
「いったい誰なのよ!」
茜の母親が繰り返す。しかし、ぼくには返事ができない。
「分からない・・・・」
「分からないって、どういうこと!!」
「誰だか分からないわ」
「複数の男が相手だとでも言うの?」
それは分からない。しかし、この茜は、あの夢の中の4人と関係を持ち、お腹の中にいる子どもの父親はその中のひとりであるという確信が何故かぼくの中にあった。そうは思いたくないのに・・・・。
ぼくは頷くしかなかった。茜の母親の手が飛んできた。頬に感じた痛みは、茜の母親の悔しさ、嘆き、後悔が入り交じったものだった。
浴室から出ると、茜の母親は一言も口をきいてくれなかった。ぼくは、仕方なく部屋に戻った。母親の寝室から、泣き声が漏れてきた。ぼくがやったわけじゃないが、済まない気持ちで一杯だった。いや、やっぱりぼくがやったことだ。ぼくという人格が知らなくても、この体、倉橋茜のやったことには間違いないのだ。
翌日、茜の母親は、茜の担任に電話し、体調が悪いからと、休む旨を伝えた。
「茜! 早く着替えなさい」
セーラー服を着ていると、茜の母親が真っ赤になって怒り始めた。
「茜! あなた、何を考えてるの! そんな格好じゃあ、産婦人科には行けないでしょう。ワンピースを着るのよ」
茜の母親の言うとおりだ。制服のままでは婦人科へは行けない。ぼくは、クローゼットの中から、少し大人っぽく見えるワンピースを取り出して着た。
「そこに座りなさい」
茜の母親は、ぼくを椅子に座らせると、自分の部屋から持ってきた化粧ケースから、ファウンデーションを取り出してぼくの顔に塗り、眉を描き、頬紅、ルージュを塗った。
鏡に映ったぼくの顔は、17歳にはとても見えない、凄い美人になっていた。
「これをして」
茜の母親がぼくに手渡したのは、ゴールドの細いネックレスとシルバーの指輪だった。
「左のくすり指にするのよ」
ぼくが結婚しているように偽装するつもりだ。ぼくは、黙ってそれに従った。
準備が済んで、近所の目を気にしながら、ぼくはマークUへ乗り込んだ。
「近くには行けないわね」
マークUは南下して、隣の町を通り過ぎ、次の町はずれにある産婦人科の駐車場へ入った。
病院の中には、大きなお腹を抱えた女性と生まれたばかりの小さな子どもを抱えた女性が何人かいた。ぼくは、待合室の隅に腰掛けて順番を待った。
「倉橋さん、倉橋茜さん。おしっこ取ってください」
そう言われて、トイレでおしっこをカップに取り、検査室に廻した。しばらくして、診察室に呼ばれた。
ぼくのそばに茜の母親が立っていた。医者は、優しそうな目をした、50くらいの、髪の薄い人だった。
「最終月経は、8月6日からでしたね」
「はい」
茜の母親が答えた。
「避妊はしなかったの?」
婉曲的な言い方に、ぼくは少し安心する。男と寝たか、セックスしたかと聞かれるより、ずいぶん響きが弱い。しかし、そう聞くところを見ると、ぼくは、この茜はやっぱり妊娠している。
「してたんですけど・・・・」
ぼくが見た夢の中では、みんなコンドームをしていた。あの夢がすべてではないかもしれないが・・・・。
「そうですか・・・・。まあ、いいでしょう。あっちのベッドに横になって、お腹を出して」
ベッドの上に横になると、ぬるぬるしたものを下腹部に塗られた。
「これは超音波検査って言って、お腹の中の赤ちゃんが見えるんだよ。そこの画面を見ていなさい」
白黒のブラウン管に、何やら訳の分からないものが映り始めた。
「これが、茜ちゃんの子宮だよ」
細長い空間があって、その中に人形のようなものが見えた。その人形のようなものを指さしながら、医者が続けた。
「これが、茜ちゃんのお腹の中にいる赤ん坊だよ。ほら、これが、頭だ。目や鼻、口も分かるだろう」
はっきりとはしないが、その様に見えた。
「これが手。先に指付いてるだろう」
小さな指らしいものが見える。
「これが足だ」
「あっ!」
「分かったかい?」
「はい。今、赤ちゃんが足で蹴ったんですね」
「そうだよ。それが胎動だ。元気な赤ちゃんだ」
医者が指し示すものが動き、それをぼくの体が確かに感じた。ぼくの体の中に別の生き物がいる。ぼくは、間違いなく妊娠している。
「先生! 間違いないんですね」
「見たとおりですよ。お母さん」
茜の母親は、床に泣き崩れてしまった。
「堕ろしてください、先生。たった今!」
病院中に響き渡るかと思うような声で、茜の母親は叫んだ。医者は、それには答えず、超音波の画面で何か操作した後、スイッチを押した。ブーンと小さな音がして、画面がコピーされた紙が出てきた。
「茜ちゃんも、お母さんもこれを見てください。この数字は、赤ちゃんの頭の直径です」
プリントされた紙の隅に数字があった。
「この数字から赤ちゃんの育ち具合が判断できます。最終月経から計算したものと一致します」
「つまり・・・・」
茜の母親が恐る恐る聞いた。
「妊娠したのは、8月の終わり頃です。茜ちゃんは、現在、妊娠23週と二日です」
「妊娠23週って、もう六ヶ月ってことですか?」
「そうなりますね」
「六ヶ月・・・・。茜! つわりはなかったの?」
そんなことは知らない。ぼくが茜になる前だろう。
「なかったわ」
そう答えるしかないのだ。
「先生。堕ろせるんでしょう?」
「残念ながら・・・・」
「どうして?」
「優生保護法で、22週未満でないと堕胎手術はできません。事情は聞きませんが、初めてのお子さんでもあることですし、産ませた方がいいと思います」
「茜は、17なんですよ」
「もう立派な大人です」
医者はぴしゃりと言った。
「結婚もしていないのに・・・・」
「相手は分かるんでしょう?」
ぼくは黙っていた。分からないものを言えるはずがなかった。
「不特定多数の男ってことはないんでしょう? 茜ちゃん」
医者は、優しくぼくに尋ねた。
「はい。・・・・複数ですけど」
ひとりに特定できない以上、そう答えるしかない。
「じゃあ、およそ分かるでしょう。妊娠したことを話して、事情が許すなら、結婚してもらいなさい。それが一番いいよ。さっき見たとおり、赤ちゃんは、手も足もあって、元気に動いている。堕ろそうなんて、殺人と一緒なんだよ。わたしはね。例え22週未満でも堕ろすことは薦めない。せっかくこの世に生まれようとしているんだからね。分かるね」
「分かりました」
「どこで産みますか? ここは、ご自宅からちょっと遠いから、近くがいいのなら、紹介しますが・・・・」
「堕ろせないのなら、ここで産ませてください。先生はいい人だから」
「ありがとう」
医者はにこりと笑顔を見せて続けた。
「じゃあ、事情が変わったら、連絡してください。取り敢えず、来月診察に来てください」
「はい」
涙を流す母親を抱えて、病院を出た。
妊娠六ヶ月か。ぜんぜん気がつかなかった。相手があの4人だけとは限らないが、ともかく父親探しをしてみよう。