第12章 真実が白日の下に

 明日香が帰国するのを待って、通夜、そして葬式が行われた。その間、ぼくの心を占領していたのは、明日香の父親は誰なのかと言うことだ。
 若菜も陽一も部屋に戻ったあと、ぼくは居間のソファーに座ってじっと考えていた。
 明日香の父親は、あの4人目の男だ。間違いない。
 一緒にて、心が安らぐ人。ぼくはそう感じた。まるで父親のような人だった。
 父親のような人? 父親・・・・?
 まさか!? まさか、そんなことが・・・・。

 その考えが頭に浮かんだとき、あの日の情景が鮮やかに蘇ってきた。
 エレベーターを昇るぼくの目の前にスーツ姿の男の背中。買ってもらったものが詰まった袋をぶら下げて、男のあとを嬉しそうに歩く。
 ドアが開き、男の横をすり抜けて、部屋の中へ駆け込む。男は、クーラーのスイッチを入れた。
 季節は夏だ。
 「意外に綺麗にしてるのね」
 「一人暮らしが長いからね」
 「可哀想・・・・」
 「明日の予定は?」
 「福岡ドームに行って、野球観戦だって。男の子はいいけど、わたしたちはお買い物しようって言ってるの」
 福岡ドーム? と言うことは、場所は福岡だ。
 「そうだな。明後日は?」
 「別府で地獄巡り、高崎山で猿山見物。それから、湯布院に行くの」
 修学旅行か? そう言えば、茜はセーラー服を着ているようだ。
 「湯布院はいいぞ。あそこは最高だよ」
 「誰と行ったの?」
 「あ、いや。話しに聞いただけだ」
 「嘘! 顔に書いてあるわ」
 男が返答に困って黙り込む。
 「誰と行ったの? 女の人?」
 「・・・・ちょっとした出来心だ。一度だけだ」
 「最近のこと?」
 「いや、もう5年も前の話しだ」
 「じゃあ、大阪にいたとき?」
 「そうだ。もう止めよう。昔のことは思い出したくもない」
 「分かったわ」
 「コーヒーでも飲むか?」
 「わたしが入れる」
 「そうか。じゃあ、頼む」
 男は、スーツを脱いで着替え始める。いや、着替えるのではなく、スーツを脱いだだけで、ランニングシャツとトランクスのままだ。
 「はい。どうぞ」
 「ありがとう」
 「お腹出たわね」
 「そうか? 最近運動してないからな」
 「でも好きよ」
 「ありがとう。わたしも茜のことが好きだ」
 「愛してるわ」
 「わたしもだ」
 「抱いて」
 「コンドームは、いいのか?」
 「勿論よ。生理が終わったばかりだから」
 これは嘘だ。この日が一番の危険日。男の、子どもが欲しい。騙して、妊娠するつもりだったのだ。
 茜はセーラー服を脱ぎ下着だけになって、男に縋り付く。男は、茜を抱き上げて、ベッドへ運んでいった。
 男に愛撫され声を上げる茜。それはぼく自身だ。ぼくを貫いて、ぼくの首筋に舌を這わせる男。その男の顔が目の前にあった。
 それは、間違いなく、想像通り、若い頃の・・・・父の顔だった。

 茜は、父親と関係していたのだ。何て事だ。愛してはいけない人なのだ。
 ふと明日香の結婚式の様子がフラッシュバックする。涙を流す、崇、ぼく。ぼくの父! 涙を見せたことのない父が涙を流していた。あれは、花嫁の父の涙だったのだ!
 崇がぼくとの結婚を父に承諾させた理由。崇は知っていたのだ。明日香の父親が誰なのかを。結婚させなければ、事実を公表すると・・・・。
 父の血液型はAB型。B型の明日香が生まれても不思議ではない。

 その時、ぼくは重大なことに気がついた。ふたりは知っていたのだろうか? このことを・・・・。知っていて関係したのだろうか?

 頭痛がし始めた。ひどい頭痛だ。割れるように頭が痛い。ぼくは、ソファーの上に倒れ込んで、意識を失った。
 夢を見た。今まで、記憶になかった夢だ。ぼくは、父の書斎で、父に向かって話しをしている。
 「お父さん、わたし、妊娠したわ」
 父は、ギョッとした目でぼくを見る。
 「わたしの子どもだと言うんじゃないだろうな?」
 「お父さんの子よ」
 「馬鹿な!」
 「わたし、産みたいの。お父さんの子どもを。愛してるんですもの」
 「そんなことが許されるものか?」
 「じゃあ、どうして、わたしを抱いたの? わたしを愛してくれたからでしょう?」
 父は、黙っている。
 「違うの? わたしを愛してくれたからじゃないの?」
 「・・・・おまえを愛していたからではない」
 その言葉を聞いて、ぼくの、茜の目から涙がこぼれ出る。
 「どうして? じゃあ、どうして、わたしを抱いたの?」
 「復讐だ。復讐のためだ」
 「復讐? 何の復讐なの?」
 父は言おうかどうか迷っている様子だ。
 「わたしに子ども産ませないための言い訳でしょう? そうでしょう? そうに決まってるわ」
 「違う!」
 「じゃあ、教えて! 復讐って、何なの?」
 「おまえの母さんに対する復讐だ」
 「お母さんに対する復讐!? どう言うことなの?」
 ぼくは父に詰め寄る。
 「おまえはわたしの子じゃない」
 「ええっ!?」
 そうなのだ。父の血液型はAB型。ぼく、茜の血液型はO型。ふたりに親子関係は成立しない。
 「おまえの父親は、西脇剛三と言う男だ」
 「そんなこと・・・・」
 西脇剛三は、ぼく自身の結婚式の日、母の恩師として出席していた男だ。招待客の中で浮いていた人物。・・・・母の恩師という男。あのテーブルにキャンドルサービスをしたとき、あの男だけが涙を流していた。あの男だ。あの男は、茜が自分の子どもであることを知っていた。だから、花嫁姿の茜に涙したのだ。
 「西脇は、悦子の大学時代の恩師で、在学中から、ずっと悦子と関係があった。悦子がわたしと結婚してからも、関係は続いていた。西脇は、当時わたしの会社の顧問をしていて、かなりの力を持っていた。わたしが会社に就職できたのも、同期のものを出し抜いて出世できたのも、悦子が西脇を動かしたためだ」
 父は、涙を浮かべていた。
 「わたしは、弱い人間だ。悦子を責めることができなかった。茜が産まれたとき、血液型がO型で、わたしの子どもじゃないと知ったときも、何も言えなかった」
 可哀想な父。ぼくは涙を流した。夢の中だけではなく、ぼく自身も涙を流していた。
 「西脇が、卒中で半身不随となり、関係を持てなくなってから、悦子はわたしの元に戻ってきた。悦子は、貞節な妻を演じていた。・・・・わたしはそんな悦子を愛せなかった。許せなかった・・・・。おまえが産まれてから、わたしは悦子を一度も抱かなかった。わたしは、悦子への復讐の機会を窺っていた。その時は、何をすれば、復讐になるか分からなかった」
 「そんなとき、わたしがお父さんに迫ったのね」
 「そうだ。おまえは、もしかしたら、わたしが本当の父でないことに、気付いていたのかもしれない」
 「・・・・そうかもしれないわ」
 「戸籍上は親子でも、血は繋がっていない。わたしは、おまえを犯すことで、悦子に復讐しようとした」
 「わたしを愛してくれたんじゃないのね?」
 「・・・・復讐のためだ。許してくれ」
 夢が途切れた。
 茜は、愛していると思っていた父に拒絶され、女から逃げ出したのだ。妊娠することのない男に・・・・。
 ちょうど女になりたいと思っていた倉田崇と入れ替わったと言うわけだろう。

 「お母さん、こんなところで寝ていると風邪引くわよ」
 「ああ、若菜。ついうとうとしてしまって」
 「お葬式で疲れたでしょうからね。そうそう、お父さんの机を整理していたら、こんな封筒が出てきたの。遺書かしら?」
 若菜から手渡されたものは、表に茜へと書かれた封書だった。

 『茜。君がこの手紙を読んでいると言うことは、ぼくはもうこの世にいないってことだろう。
 君に言っておきたかったことがあるから、この手紙を残すんだ。
 君は今でも、ぼくと君の人格が入れ替わったと信じているかもしれないが、あれは間違っていた』
 間違いだった!? どうしてだろう?
 『初めから、人格の入れ替わりなんて、あるはずがなかった。君が明日香を産んだ病院で話したことが真実だった。
 ぼくらはふたりとも二重人格者だ。互いの作り上げた人格が、偶然実在しただけだ。
 それでは、互いの記憶を持つ理由が分からないと言うかもしれない。それの説明も考えた。おそらく、君の作り上げた男の人格と、ぼくの作り上げた女の人格が、テレパシーのようなもので結ばれたんじゃないかと想像している。
 この説明が正しいか、入れ替わったと考えるのが正しいかを判断するのは、ただ一つだ。ぼくらの心の中に、二重人格のもう一方の人格があるかどうかだ。
 君は、ぼくにかけてきた電話の中で、君の中にはもうひとつの人格はなかったと言った。しかし、ぼくの中には、男の人格が隠れていた。
 実は、ぼくは、君と結婚したあと、ぼくの、男の人格を取り戻していたんだ』
 ぼくは驚きに胸がどきどきする。
 『君という素晴らしい女性と結婚できたことで、ぼくの中に生まれた女の人格は潜んでしまって、ぼくは男の人格を取り戻したんだ。それに引き替え、君はずっと男の人格のままだった。
 ぼくは考えた。君に女の人格が戻らないのは、女の人格が隠れてしまった原因がなくならないからだと。君の心の中にある女の人格は深く傷ついているのだ。
 ぼくは、その原因を知っていた。知っていたが、言えなかった。君を失いたくなかった。元の茜の人格が戻れば、君はぼくを愛してくれない。そう思ったからだ。
 すまない。許してくれ。
 ぼくには、もう隠す理由がない。その原因を話そう。
 君はもう気付いているかもしれないが、明日香の父親は、君のお父さんだ。君のお父さんは、ある目的で君を抱いた。そして、愛しているからではないと君に言った。
 君の人格は、その時、いなくなってしまったのだ。愛していると思った、お父さんに拒絶されたために・・・・。
 ぼくは、お父さんの言葉は嘘だと思う。君のお父さんは、君を愛している。間違いない。君のお父さんに確かめてみることだ。実の親子で愛し合うなんてことは許されないかもしれない。しかし、お父さんが君を愛していることが分かれば、君は君を取り戻せるだろう。
 茜。君を愛していた。心から。
 今日まで黙っていたことを許してくれ。
 崇』
 崇は、ぼくと父の間に親子関係がないことには気付いていなかったようだ。だから、直接ぼくに言わなかったのだ。
 崇の考えが正しいとすれば、わたしの心の奥底に茜の人格が隠れている。真実を追究すれば、この22年間の記憶は失われてしまうかもしれない。だけど、ぼくは真実を知らなければならない。ぼく自身と茜のために・・・・。

 ぼくは、今は東京本社にいる父を訪ねた。崇が確かめろと言ったことを確かめるのだ。
 「お父さん、聞きたいことがあるの」
 「何だ?」
 「人払いしてくださらないかしら?」
 「いいよ。榊原君、ちょっと外してくれ」
 「かしこまりました」
 スタイルのいい、ぼくよりちょっと若い秘書は、品を作りながら、社長室を出ていった。父は、この女と関係しているに違いない。
 「で、話しとは何だ?」
 「単刀直入に言います。明日香は、お父さんの子ですね」
 「な、何を言うのかと思えば。馬鹿なことを・・・・」
 父の顔が青ざめた。
 「思い出したんです。何もかも」
 「・・・・」
 「お父さんは、わたしが二重人格になって、茜の人格が失われてほっとしていたでしょう。だけど、思い出したんです」
 「今になって・・・・」
 「責めるつもりはありません。明日香はお父さんの子ですね」
 「・・・・そうだとおまえが言った」
 「わたしは、お父さんを愛していました。あの時、お父さんは、復讐のためにわたしを抱いたと言いました。ほんとにわたしを愛していなかったのですか?」
 復讐のためだけに茜を抱いたとは思えないのだ。あの暖かさ。愛があった証拠だ。愛していると言われれば、茜の人格が戻って、ぼくの人格が失われるだろう。しかし、ぼくは、茜のために、それを質さざるを得なかった。茜はぼく自身なのだから・・・・。
 「それは・・・・」
 「どうなの?」
 「・・・・おまえを愛してしまった。悦子とは、形だけの夫婦だったからな。しかし、戸籍上はおまえとは親子なのだ。そんなことが許されるわけがなかった。まして、子どもなど産ませるわけにはいかなかった。だから、愛してないと・・・・」
 良かった。崇の書き残したとおりだ。
 「お父さん。今でもわたしのこと、愛していますか?」
 「勿論だよ。倉田におまえをやるとき、どれほど口惜しかったことか」
 「お母さんと別れて、わたしと一緒になってくれますか?」
 父は、下を向いて黙っていた。そんなことができるはずがない。妻が不倫してできた子どもと関係を持ち、その子どもと結婚するなんて。
 「別れたら、一緒になってくれるのか?」
 「本気なの? そんなことをしたら、会社も首になってしまうわよ」
 「本気だ」
 驚いた。父は、地位も名誉も捨てて、この茜を愛してくれようとしている。それが分かっただけでいい。涙がこぼれそうになった。
 「冗談よ。わたしのことを愛してくれていると分かっただけで、充分。お父さんに迷惑をかけないわ。わたし、もう、あの時の茜じゃないんですもの」
 部屋から出て行きかけて、ぼくは振り向いて父を見た。父は茫然として、椅子に座っていた。
 「わたしからのお願い。わたしを今でも愛してくれているのなら、お母さんを愛してやって。お母さんは、好きであの男に抱かれたんじゃない。お父さんのために嫌々ながら、抱かれたの。それを分かってあげて」
 「何だって!?」
 「お母さんは、お父さんを愛しているわ。ずっと待ってるんだから、悲しませないで。お願いよ」

 ここに来る前、ぼくは母を問いつめた。
 「わたしの本当の父は誰なの?」
 「な、何を言い出すの? あ、あなたは、お父さんの子よ」
 「お父さんは、AB型、わたしは、O型。親子関係は成立しないわ。誰なの?」
 しばらく黙っていた母は、諦めたように話し始めた。
 「あなたの結婚式に呼んだ、西脇って人よ」
 「どうして?」
 母は、父の出世のため、あの男に抱かれたと言った。
 「あの人が出世するのが、わたしの望みだったんですもの。そのためには、何でもしたわ」
 父が38歳で部長になったのは、西脇の引き立てがあったためらしい。ただ、父には、その充分な資格もあったとも聞いた。
 母の考え方は、恐らく間違っているだろう。しかし、それを責めることは誰にもできない。ただ、父を苦しめたのは確かだ。

 49日が過ぎ、崇の納骨を済ませ、ぼくは夫を失った悲しみから何とか元気を取り戻しつつあった。そんなある日、玄関のチャイムが鳴った。
 「お久しぶり」
 見覚えはあったが、名前がすぐには浮かんでこなかった。
 「名前を忘れられたのか? 残念だなあ。ほんとに覚えてないの?」
 「俊介? 佐藤君なの?」
 「やっと出てきたか。思い出してくれなかったら、帰ろうと思っていたよ」
 「ほんと、久しぶりね。元気にしてた? あら、ごめんなさい。時間あるんでしょう? おあがりになって」
 「遠慮なく、上がらせてもらうよ」
 佐藤俊介は、あの頃悪ぶっていたが、可愛らしい男の子だった。それが、今やナイスミドル? いや、まだ40前だから、好青年でいいか? ともかく、いい男になっていた。
 「コーヒーでよろしいかしら?」
 「何でも頂くよ」
 「どうしてらしたの?」
 「大学行って、卒業してから、銀行に勤めてる」
 「銀行マンなんですか?」
 「そうだよ」
 「ご結婚されてるんでしょう? お子さんは何人ですか?」
 「結婚? まだ独身だよ」
 「えっ!? 結婚されてないんですか?」
 「そう。でも、プロポーズしようと思っている女性がいるんだ」
 「まあ。どんな方ですか?」
 「スタイルが良くて、可愛くて。ちょっと、意地悪な人だよ」
 「へええ。はい、コーヒー」
 ぼくは、テーブルの向かいに座って、コーヒーカップを佐藤俊介に差し出す。
 「ありがとう。その人はね。昔ぼくの心を奪っていった人でね。ぼくがプロポーズできる年齢になる前には結婚していたんだ」
 ぼくは、驚いて、佐藤俊介の顔を見た。
 「最近、独身に戻ったみたいだから、プロポーズしようと思うんだけど、どうかなあ」
 「どうかなあって、わたしに聞かないで、直接言ってみたら?」
 「そんなところが意地悪だって言うんだよ」
 「本気なの?」
 「ずっと待ってたんだ。独身になるのを」
 「独身にならなかったかもしれなかったのに?」
 「でも待ってた」
 「3人の子持ちよ」
 「関係ない。ふたりだけの問題だよ」
 「・・・・直接プロポーズしたら、喜ぶと思うわ」
 佐藤俊介は、にこりと笑ってはっきりとした口調で言った。
 「茜! ぼくと結婚してくれ。これ以上待たせるなんて言わないでくれ。お願いだよ」
 ぼくのために、22年待ち続けてくれた。嬉しかった。
 「本気なのね」
 「返事をはっきり聞かせてくれ」
 「勿論、いいわ」

 こうしてぼくは、佐藤俊介と再婚した。ほんとは茜はこうなることを望んでいた。崇の遺書の中に、あの当時の茜のノートの切れ端が入っていた。その片隅に、こう記されていた。
 『俊介のことが好き。俊介は、わたしのことを愛してくれている。それが分かっているのに、父への思いが断ち切れない』
 あの時、父が母の気持ちを分かって、復讐などしなければ、茜は回り道をせずに佐藤俊介と結ばれていたに違いない。
 あの時、わたしを診察した精神科医が言った。
 「女である喜びを知れば、直るでしょう」
 俊介と再婚してから、頭痛は嘘のように消えていた。それと共に、茜の人格が戻ってきた。倉田崇としての男の人格は消えず、茜と倉田崇の人格が融合した。だから、この22年間の記憶は残ったままだ。
 わたしは、わたしを取り戻した。わたしは、すべてを忘れて俊介のために生きる。わたしには、愛する人がいる。