第11章 茜として

 ぼくの願いは聞き入れられている。ぼくは茜のまま、新妻として、母として、女として生きてる。

 夜が明けると、横で眠っている崇を起こさないようにベッドを抜け出して、台所に立つ。その頃には、タイマーが働いて、電気炊飯器から飯の炊けるいい匂いがし始めている。みそ汁を作りながら、崇に持って行かせる、いわゆる愛妻弁当のおかずを作る。会社に行って、冷やかされるらしいが、ぼくはできる限り弁当を作ってやっている。
 そうしている間に、明日香が目を覚まして泣き出すことがある。オムツを換えて、おっぱいをやるとすぐに眠ってしまうことが多いが、寝ないとぼくを捜して泣き続ける。そんなときは、台所まで連れていって、明日香の顔を見ながら準備をする。
 みそ汁ができる頃、崇が眠たそうな顔をして寝室から出てくる。ぼくは、駆け寄って、頬にキスしてやる。
 ふたりで食事をし、崇を送り出したあと、洗濯機のスイッチを入れてから、茶碗やお皿などの汚れ物を洗う。一息ついたら、洗い上がった洗濯物を干す。
 勿論この間にも、明日香が起きることがあるので、何度かおっぱいをやることがある。
 お昼まで、時間があるときは、ストレッチ体操をやる。いや、時間がなくても、これだけはやる。太くなったウエスト、弛んだ下腹を引き締めるためだ。お蔭で、独身時代の体型に(ぼくは実際には知らないけど)戻っている。
 昼は、お弁当の中に入れたものと同じものを食べる。崇が同じ時間に同じものを食べていると思うと、幸せな気がする。
 昼食が済んで、ちょっと休憩したら、夕食の準備に掛かる。何しろぼくは料理をしたことがない。何を作っていいか分からないから、まず料理の本を見ながら、何を作るか決めなければならない。何を作るか決めたら、材料を揃える。足りなければ、買い物に出掛けなければならない。
 明日香を乳母車に乗せて、買い物に出掛けると、可愛い赤ちゃんねと誰もが声をかけてくれるけれど、ぼくの子どもだとは誰も思っていないようだ。
 夕食を作りながら、洗濯物を取り入れ、下ごしらえが済んだところで、明日香をお風呂に入れる。この時間になると、母がやってくるから、手伝ってもらう。母は明日香をお風呂に入れるのが嬉しくて堪らないようだ。
 崇が帰ってくるのは、午後7時前。これは、以前とは変わっていない。独身の頃は、そのまま何処かへ食事をしに行って飲んでいたが、今は家に直行してくる。
 崇がお風呂に入っている間に、夕食の仕上げをしてテーブルに並べる。夕食がすむと、崇は水割りを手に、テレビかビデオを見ている。
 ぼくは、食事の後片づけをして、朝食用のお米をといでタイマーをセットする。入浴すると、ようやく自由時間となる。
 崇のそばに座って、一緒にテレビを見て過ごす。ぼくが幸せだと思う時間だ。そんな時間も、明日香に中断されることがあるが、崇も一緒に面倒見てくれるから、別に不具合はない。
 そして、待ちに待った夜の生活。この茜の体は、ちょっとセックス中毒気味なところがあるようだ。
 結婚してすぐは、崇も毎日頑張ってくれたが、40の誕生日が過ぎてからは、毎日というわけにも行かなくなってきた。
 そんなとき、ぼくはひとりで自分を慰めた。そうしたくはないと心の中では思っているのに、体が要求するのだ。

 結婚当初は、どうしていいのか分からず、ただ闇雲に主婦業をこなしていたけれど、主婦の仕事に次第に慣れてくると、退屈し始めた。
 ぼくが、倉田崇だった頃、毎日毎日同じことの繰り返しだと思っていたが、主婦業はもっと単純な仕事の繰り返しだ。土曜も日曜日もない。生活に起伏がないと言ったらない。
 この時になって、ぼくは、人間が生きるってことは、結局毎日同じことの積み重ねでしかないと気がついた。NHKの連続ドラマのように、いつもまわりで事件なんて起こらない。
 そう思いながら、何かしないといけないと言う気持ちになっていた。このまま生活の中に埋没してはいけないと。

 幸いなことに、ぼくは高校3年生に復学することが許されている。少しは違った生活が送れるはずだ。

 復学してから、忙しくなった。朝起きたら、すぐに洗濯機にスイッチを入れ、出掛ける前までに干しておかなければならないからだ。
 崇を送り出したあと、母が迎えに来る。明日香を母に預けて、ぼくは高校へ向かう。夕方、実家によって、明日香を受け取ってアパートに帰り、夕食の準備。あとは変わらない。
 下田喜美子は、一足先に短大へと進み、恋人ができたようで、最近は時々電話をかけてくる程度だ。女同士の友情も、男ができてしまうと、疎遠になってしまうものらしい。
 新たな友達はできている。ぼくが結婚していて、子どももいることを知っているから、結婚生活や、子どものことを聞きたがる女の子が多いのだ。
 校内では、男の子は誰も声をかけてはくれないけれど、一歩高校の門をでると、結構声をかけてくれる男がいる。勿論誘いには乗らないけれど、気分が良いものだ。
 そんな話しを崇にすると、あからさまに不機嫌になった。
 「ぼくが年だからと言って、若い男と浮気なんてするなよ」
 「そんなことしないことくらい、分かっているでしょう?」
 自分自身を裏切ることになるのだ。そんなことはあり得ない。

 高校を卒業したら、主婦業に専念しようと思っていたら、母が短大くらいは行きなさい。そのためにあの高校へ入れたのだからと、ほとんど無理矢理、短大へ行かされた。

 短大を卒業する直前、二人目を妊娠した。今度は、崇の子どもだ。
 「ほんとに入れ替わったのなら、元に戻って子どもを産んでみたいな」
 崇は、そう呟いた。
 「入れ替わりなんてあり得ないってば。ただ、互いの記憶を知っているだけよ」
 最近、ぼくはそう思うことにしている。元に戻ったら、自分の産んだ明日香や、次に産まれてくる子どもが自分の子どもではなくなってしまうような気がしているからだ。

 短大を卒業した秋、ぼくは次女若菜を産み落とした。それから2年後の春、待望の男の子、陽一を産んだ。男の子でも女の子でもいいと思うのだけど、男の子と産まないといけないなんて、おかしな気がする。ともかくも、ぼくは22歳の誕生日を迎える前に、3児の母となった。

 陽一が保育園へ通うようになって、時間ができたぼくは、パッチワークなどのサークルへ参加し始めた。何かしていないと、マンネリの生活の中で気が狂いそうになるからだ。
 さらに、PTAにも積極的に参加し、副会長を務めた。会長を女性が務めることはまずない。何もしないお飾りの、名士と呼ばれる男が会長を務める。男女差別撤回と言いながら、妙なところで、根強い差別が残っている。日本は変な社会だ。

 22歳になった明日香が、結婚したいと言いだした。相手は、父の勤める商社の社員だ。父は、専務取締役社長を務めていて、正月に挨拶に来たその男に、明日香が一目惚れしたのだ。相手の男も、ぼくに似た美人に育った明日香に一目惚れだったことは言うまでもない。

 結婚披露宴での、明日香の挨拶には、崇やぼくは勿論のこと、ぼくの結婚式以来、涙なんて流したことのなかった父までが涙を流した。

 披露宴が終わり、10年前に買った二階建ての自宅に戻って、ぼくは付下げから、ブラウスとスカートに着替えていた。
 「あなた! お着替えにならないの? そんなところで寝ていると、風邪を引きますわよ」
 新婦の父として、お酌をして廻った崇は、完全に酔いつぶれたらしく、居間で鼾をかいて寝ていた。
 「あなた! 風邪を引くって言ってるでしょう?」
 その時になって、崇の様子がおかしいのに気がついた。鼾があまりにもひどいのだ。それに、いくら起こしても起きない。ぼくは救急車を呼んだ。

 「脳内出血です。かなり広範囲に出血しています」
 「命は? 命は助かるんですか?」
 「五分五分、いや、五分五分は言い過ぎかも知れません。かなり厳しい状態です」
 「手術は?」
 「とても無理です。薬で治まるのを待つしかありません」
 医者は、今撮ったばかりのCTの写真を指し示しながら、そう説明した。

 ベッドの上に横たわり、点滴をされた崇は、ごうごうと鼾をかくばかりで、一向に目覚めようとはしなかった。
 ぼくは、崇の手を握って、目覚めるのを待った。

 「血圧が下がり始めています。呼んでおくご家族があったら、早めに呼んだ方がいいでしょう」
 医者から、そう最後通牒を受けた。崇の母は、倒れた日からずっとぼくと一緒に崇の看病をしていた。新婚旅行中の明日香を呼び返すべきだろうか? 明日香は、今カナダにいる。呼び返したとしても、すぐには戻ってこられない。それなら、心配をかけるより、帰ってくるのを待とう。そう判断した。

 倒れてから5日目、崇は突然目を覚ました。
 「茜! 茜! どこにいる?」
 「ここにいるわ」
 「おまえの顔が見えない。ぼくはどうなったんだ?」
 「脳内出血で倒れて・・・・」
 「脳内出血? そうか・・・・。このところ不摂生だったからなあ」
 「良かった。気がついて」
 「ぼくは死ぬんだろうな」
 「そんなことはないわ。絶対助かるわ」
 そうは言ったが、助かりそうもないことは分かっていた。意識が戻ったことすら、奇跡なのだ。
 「助かりそうもないな」
 「そんなことはないわ」
 「自分のことは自分で分かる。ぼくはもう長くない」
 「そんなこと言わないでよ」
 「おまえに一言謝っておかなきゃ・・・・」
 「何を謝るのよ」
 「おまえに嘘を言っていた」
 「嘘って?」
 「・・・・やっぱり言えない」
 「何を? 何をよ。・・・・。まさか、まさか、明日香の父親のこと?」
 「・・・・」
 崇は、黙り込んでしまった。
 「話して! ねえ、嘘を付いていたって、明日香の父親のことなんでしょう? あなた、知らないって言ってたけど、ほんとは知ってたのね。誰? 誰なの? 明日香の父親は・・・・」
 「・・・・話せない。誰にも言いたくない。例えおまえにでも・・・・」
 「教えて! わたしには、知る権利があるわ」
 「知る必要がない。知ってもおまえにとって何のメリットもない。苦しむだけだ」
 「それでもいい。教えて!」
 「だめだ。このことは、ぼくの心に秘めたままにして置くんだ。それがみんなの幸せのためだ」
 「教えてよ、あなた」
 答えは返ってこない。
 「どうして教えてくれないの? わたしは誰の子を産んだのよ。あなた! あなた? あなた!!」
 崇は二度と返事をしてくれなかった。返事の代わりに聞こえたものは、心電図の連続音だった。それは、夫、崇の死を意味した。
 「先生!! 先生、早く来てください! 先生!!」

 崇は、帰らぬ人となった。ぼくに明日香の父親のことを告白しないまま・・・・。もっと早く聞いておくべきだった。しかし、遅かった。