1.  設立趣意書
2.  クラブ設立前夜(当時のヨット事情)

1.設立趣意書(クラブ設立時(昭和54年)の趣意書の抜粋
   風光明媚な別府湾の奥深<、別府市北浜にホームポートを持つ別府帆船
 愛好会は、昭和50年より会員相互の親睦を目的として、 レース等の企画
 運営、また外洋帆走艇の安全運航のための上架設備の共同所有等々の
 事業を行ってまいりました。

  最近、経済事情の向上にともない当地においても外洋帆走艇の普及は目を
 見張るものがあり、艇数においても倍増するに至り、安全係留を真剣に考えざ
 るを得ない情勢になってまいりました。
 また、昨今の船舶職員法、船舶安全法の改正による海技免状の必要性、船舶
 検査の実施等により外洋帆走艇の帆走においても、個々人の勝手な考え方に
 よる帆走は出来なくなり、少なからず社会的な規制を受けざるを得ない情勢に
 なってまいりました。

  この様な情勢を機会に我々は、従来の別府帆船愛好会を発展的に解消して
 北浜ヨットハーバーの全体的規模の下に新たに別府外洋ョットクラブを設立し
 外洋帆走艇に関する各種事業を行い、外洋帆走艇の安全運航、安全係留を
 確保し、合せて会員相互の親睦を図り、健全な海事思想の普及に寄与しよう
 とするものであります。

2.クラブ設立前夜(当時のヨット事情)
    この文章は当ヨットクラブ設立10周年の記念誌に森重さんが
    寄稿されたもので1986年(昭和61年)に書かれたものです。
 

別府湾のヨット事情
別府帆船愛好会以前ー昭和40年〜
初代会長 森 重 新 次(サテンドール)
 
  別府外洋ヨットクラブも、別府帆船愛好会発足から数え、はや10周年になりましたが、それ以前の10年、すなわち今から20年前の昭和40年代はどのような情景であったのか、草創期における逸話はいろいろあるが、記念誌の発刊も初めてのことでもあり、記録は残されていない。
  この機会に松野氏が保存されている資料や、当時の新聞、また私の記憶の薄いところは、古参ヨットマン諸氏のお話しを聞きながらも、大部分は私個人の航海日誌や、写真などからの思い出の範囲であることを、初めにお断りして記念誌という性格上、あまり破目を外さずに年代を追って紹介してみたいと思います。
  私自身のヨットとの出会いは、昭和38年唐津の海岸で、1時間400円の貸しヨットに乗ったのが病みつきとなり、その後2年ほど通った後、40年に発砲スチロールのシースナークを38,000円で買った。大分港で学生が本物のディンギーで合宿練習をしているなかを、当時27才のいい年をして気恥しい気持ちで、一人練習をしていた。

昭和40年
 関東では石原慎太郎、裕次郎氏兄弟のコンテッサーUが活躍していた頃、関西の雄と言われた「ミネルバ」(貴伝名氏)は二世で楠港の方に度々来航していた。別府湾のヨットは牛若丸(Y−19生野氏)だけしかなく、やはりヨットハーバーが出きるまでは楠港や大分港を利用していたという。
  この頃38年にスパローも自作したことのある油布さんは、牛若丸と同じ図面から同型を自作していた。牛若丸は自作途中、家から追い出された為、伊延造船に持ち込み仕上げたので早く進水したそうだ。このY−l9とは、(ヤマハ−19)のことではなく、(ワイ−19)すなわち(ヨコヤマ−19)のことで、自作しすやい合板チャイン艇である。
  37年に太平洋単独横断に成功した堀江氏のマーメイド(l9F)は、このY−l9に250Kgのバラストキールをつけた改良型(キングフイッシヤー)であった。
 
昭和41年
 大分夏の国体ヨット競技は、まだ下段の防波堤しか出来あがっていない北浜ヨットハーバー沖で9月18日から始まった。地元開催ということで必勝を期し友研一氏を総監督にフイン級とスナイプ級の二種目、四回戦で行われた。
  一般男子フィンA松山和興(青山高教)とフィンB庄崎義雄(県国体事務局)は、当時共に世界選手権2回出場のトップレーサーで、両雄とも実力どおりに手堅く優勝を決めた。
高校男子スナイプ清水、海江田組(鶴見丘高)も愛知県を逆転し優勝した。高校男子フィン宇留島(鶴見丘高)は、1・2レース共1位を取ったが、完勝を狙った3レースでスタートをフライングした為かあせり気味のレースでマークタッチのうえ失格。それでもまだ最終戦に優勝の望みがあり3位で走っていたがベタナギの為、大阪の一艇だけしかフィニッシュ出来ず、タイムリミットにかかり不運の9位。一般男子スナイプ川岡、田染組(県国体事務局)も、最終レース1位を取るも、3レース目の失格がひびき9位。一般女子スナイプの行時、浅井組(別府青山)も、2レース目5位でフィニッシュしたが抗議によリ失格。最終レース1位を取り頑張ったが無念の涙をのんだ。結局第21回国体夏季大会のヨットは3部門に優勝し天皇杯第2位の成績で県総合優勝に大きく貢献した。
  当時競技用以外のヨットは牛若丸の一艇だけで、自衛艦とスタートライン設定に務めた。そして大分県の外洋ヨット界はミネルバの来航、夏の大分国体とマーメイド号、コラーサ号、冒険成功のニュースに刺激され発展のきっかけとなった。しかしまだごく少数の人達であった。
 
昭和42年
  国体ヨット乱舞の美に感動した橋本良多氏は、F.C(フライングキャット)を自作し何とセ−ルまて自作し帆走していた。楠港に訪れた、ミネルバUを生野、庄崎氏らと見学し、貴伝名氏と出合った松野さんは、奥村ボートに当時の人気艇コラーサ号と同型の5mJOGを発注しながら出来上がるのを待ちかねて、知り合いの佐藤、城谷氏(左藤家具製作所)に図面を示しK−l6キャビン付きをも作らせた。
 松野氏は幸せにも家の前がハーバーという自分の庭のような恵まれた環境で、すでに35年頃からモーターボートを持ち、だいぶもてたようである。一方仕事仲間の浅川さん(音楽家)は貯金が少々出来たので車を買いたいと言っていたが、私がヨットをすすめたので、ヨットに一度も乗ったことのない彼が、千怒(津久見)の小さな造船所で5mJOG(フォルテ)を作りはじめた。本家奥村ボートでは60〜70万円かかるが、ここでは40万位の見積りだつた。しかしこの造船所ヨット造りはおろか、ヨットを見たこともなく、彼は津久見がよいのうえ加勢をするはめとなった。完成を前にしてシースナークで練習していたが、何せ小さな発泡スチロ一ル製、風で走リだす前にひっくり返り風邪をひいていた。そのフォルテが出来上がり、はじめての佐賀関越えに苦戦しながらも、当時としては最長距離の回航であった。生野氏らは陸から追いかけ見物していたと聞いている。その後このフォルテには大学ヨット部に進んだ、垣外、橋本(元)両兄弟が高校生時代にクル−として乗り、育っていった。
  松野さんの5mJOGは10月末陸送されて来た。さすがに造りが良かった。早速国体フィンのキング庄崎氏と一杯飲みながら、サボー(北欧の女性がはく木靴の事)と命名した由。この頃の庄崎、松山氏らはよく海外遠征に出かけ、我々はサボーのコクピットで土産話を聞いていたが、皆酒豪でこの頃の逸話も数多いと思う。庄崎氏は現在キングセール主宰、最近では1982年ハワイのパンナムクリッパーレースで「飛梅」のフェルムとナビをかけ持ち、総合優勝の原動力となった人で、そのほかディンギー、クルーザーを問わず、国内外でのタイトルも数多くヨット界では有名な人。余談になるが、東シナ海横断レースにもビッグコスモス(熊本)に乗っていて、上海でのスタート前夜サテンドールのキャビンに招き、交代で相手をし二日酔へと誘う作戦であったが、さすが強者、サテンドールの水分が少々軽くはなったが、やはり優勝された。油布さんはこの年Y−19(ココナッツ) を作り上げ大分港に進水させていた。
 
昭和43年
  松野氏に懇願し真紅のK−16を譲り受けた私は、白に塗りかえコラソンと名をつけた。松野氏はこの年も話題の新素材アルミマスト、FRP製のインペリアル23も購入し5mJOGと2艇所有。その後もビバシティ、6.7mJOG(国東堀田氏自作)と次々乗りついで行く。
  この頃ひときわ美しい塗りの「オプティミスト」という名のY−19を渡辺覚氏が所有、よく小深江に家族と行かれていたが、今回わかったことだが、花本氏から受け縦いだヨットだったらしい。
  その花本氏は三河造船で6.2mJOGヒロU(合板、ダブルチャイン)を建造、別府に持って来た。それまではずんぐりした5mJOGやキャビンはあっても所詮センターボーダーのY−19やK−16を見慣れた我々には、スマートで美しく、これぞ(金銭的にも)理想のクルーザーに映った。ヒロUはオーナーの転勤の為か永くは見られなかった。4月にミネルバは現在の三世で(ミスサンバード9位)と共に、日本を代表しチャイナシーレースに出場、5位の好成績を上げ別府に来た。夏には日本外洋帆走協会(NORC)別府フリ−ト(フリートキャプテン生野雄一郎氏)が結成され、第一回別府レース(4号ブイ〜沖家室)が開催された。牛若丸(Y−19生野、庄崎)が優勝し、別府フリートとしては幸先よいスタートとなった。参加8艇中4艦がセンターボーダーであったのもこの時代を反映していると思う。当時はセンターボーダー(鉄板製)でもキャビンがあれば、ディクルーザーという感覚で、訓練しだいでかなりの長距離帆走も出来た。K−16を手に入れた私も橋本さんの力を借り、早吸瀬戸を横断、四国は三崎の盆踊りを見物に行った。以後三崎の美女に魅せられ毎夏のように行ったが、午前3時、月に走る雲で天気、風力を予想しながら出帆、今では考えられない程長時間かかってたどり着いていた。橋本さんには、フォルテ、コラソン、後の雷電に乗ってもらい、いつも一諸にレースやクルージングをし、まるで兄弟のような青春の時を過しながら帆走の技を学んだ。
  この頃森繁久禰氏の「ふじやま丸」が来た。旧関汽桟橋から出航し、コラソンで伴走したが、日本最大のヨット73フイートケッチは鉄鋼船のうえ70フイートの電柱のような2本マストに圧倒され、ヨットと言うよリ汽船そのものだった。
 
昭和44年
  第2回別府レースは平郡島(山口県)に集結、別府フリートからは、サボー(5mJOG松野)、フォルテ(5mJOG浅川)、牛若丸U(インペリアル生野)が参加したが台風の影響で強風が予想されノーレースになった。私は牛若丸に乗せてもらっていたが、帰りに吹かれ前を走るサボーは船外機を荒波にもぎとられた。6月サボーU(インぺリアル)は3名の悪童中学生に乗っ取られハーバーから消えた。3人は別府警察署に補導されたが、施設入りを逃れようと、沖縄からハワイへと国外に脱出しようとしたが、食糧、燃料不足で日出に上陸、艇は日出沖で発見された。今の非行中学生に比べて何ともスケールが大きく、うそみたいな話だが松野氏はこの事件の新聞切り抜きを保存されている。
  この頃当時としては珍しいクループオーナーでポセイドン(ヤマハ22)も進水したと思うが、新素材、FRPの耐久年数が話題になっていた。県ヨット連盟会長でもあるヨットマン代議士、左藤文生氏もオーナーで現在も里帰りの折りはセイリングを楽しまれている。
 
昭和45年
  県ヨット連盟の角宣彦、渡辺覚氏(Y−19オプティミスト)らが指導していた、少年少女OP教室の小、中学生選手は、江ノ島で行われた全国大会ジュニアオプティミストチャンピオンシップに於いて、ヨットマン一家生野氏(牛若丸)の二世たち、生野邦子(中学1年)が優勝、弟の生野祐治(小学4年)が2位となり姉弟で1、2位独占の快挙をあげた。このOP教室では当時のヨットマン親父の子供達も訓練し、後に国体選手になった伊延造船の伊延律子さんも中学生の頃練習をしていた。
  手作りのコントラバスやバイオリンを作って浅川さんにヨット作りを懇願されたことのある東郷氏(音楽家)は、まずは自分のヨットを作ってからと、そのK−16キャビンの図面を43年に譲り受け、居住性を良くしようとシアーラインを上げ、熱作し7月に進水させた。親父さんが指物大工さんだったとかで、さすが見事な出来ばえだった。
  この年の第3回別府レースは新艇シーアドラー(スプレンダー19河野剛)に乗せてもらったが、往きは暗夜守江沖の張り網にひっかかり、網を切るわけにはいかず、夜が明けるまで冷たい海につかり、やっとの思いで脱出。レースは残念ながら濃霧のためノーレースとなり、帰りも夜の霧のなか張り網の恐い別府湾を牛若丸とさまよった事を、思い出すが、5月の瀬戸内は霧の季節で度々このようなことがあった。この年は白(横山7.5m)がマゼラン海峡に挑み、これを突破して世界一周達成。         
 
昭和46年
  第4回別府レースは、シーアドラー(2位・河野)、サボーV(3位・松野)、フォルテ(浅川)が八島〜4号ブイ間を走った。春に橋本さんと相模湾のヨットハーバーを見物しながら晴海のボートショウで(スプレンダー22)を見染めその場で発注、7月末に陸送されて来た。翌日の処女航海は先に出た牛若丸とシーアドラーを、サボーと共に追い保戸島まで行った。関の黒ヶ浜で停泊中、生野氏一家四人はY−19では狭ますぎるということで、美しいコラソンU(スプレンダー22)を見られた奥様のOKサインで次艇スブレンダ−22の購入がきまった。また友人でもある同行のシーアドラー(スプレンダー19)の河野氏と共に2艇発注しコラソンUが白の艇体で、牛若丸が赤、シーアドラーUが紺色と同型が3艇となり、それからはハンディなしの熾烈な競走を楽しんだ。
 油布さんと橋本さんは、5mJOGの安全性とY−19の軽快性を合せ持つ6.2mJOGを自作していた。本来は合板の艇体であるが、FRP(伊延造船)でハルだけ2艇分作り、それぞれ自作していたがこの年一足先に油布さんがココナッツを進水させた。艇体をFRPにしたのは手入れも楽で、耐久年数も延び、さすが数多く自作した経験のある両氏の選択であったと思う。
 
昭和47年
  大型艇も増えた第5回別府レースはl2m/secの強風の中、午前0時のスタート時報をラジオで聞いていると、軽快な音楽をバックにこのレースの事を放送していた。思わぬことだったが感激し、15艇が、40マイル先の八島目指して暗夜の4号ブイをスタートした。そして強風に強いと言う高松のでんぷくU(7.5m松岡)と夜明けのデッドヒートをくりひろげ、共に397分(6時間37分)の快記録で同着。コラソンU(SP−22森重、橋本、東郷)が優勝し、2位牛若丸(SP−22生野、浅川)4位オルフェ(6.7mJOG松野)、6位シーアドラー(SP−22河野)、13位ココナッツ(6.2mJOG油布)、と別府フリートの圧勝となった。
  艇庫で自作していた橘本さんの6.2mJOG「惜春鳥」が5月28日進水、深江まで試走した。当日の日誌にはフォルテと惜春鳥にはそれぞれ女性が乗っていて、コラソンUはシングルハンドとあるが、両艇に乗っていた女性が誰だったかはどうしても思いだせない。
  この年はクインエース(ブリスク萱島)、雷電(ジャンカー19池部)、翌檜丸(F.F17河村)と新艇種が進水、レース熱も高まり後半の半年で6回もレ−スをし、またその内の4回を惜春鳥が優勝をした。(惜春鳥は現在サンライト、奈良氏所有)。
  またこの年の台風は別府を直撃。防波堤を越えた彼浪は係留ヨット上に打ちかかり、波の重さで沈んだヨットがマスト、リギンをガラガラとふるわせ、左右にに身をよじって浮き上る様をホテル二条の何階かで見守っていた。私のコラソンUはまだ月賦が残っているし、惜春鳥も労作の末進水させたばかりだし、橋本さんに「何とかならんかえ〜」と言ってみたが、「もうしかたねーな、船には近かずけん命の方が惜しい」と言った。私は命より愛艇の方が惜しいと思ったのだが・・・・・ 
  台風の目に入った為か、波浪か小さくなったので、私達5、6人は花菱の角の石段を堤防の上まで登ったが、すぐに大波で最上段から吹き飛ばされ、大量の水と一緒にホテル二条の前まで流された。打ち所の悪かった庄野さんは二ヶ所も骨折し、浅川さんは一週間も寝込み河野さんも怪我をした。艇庫は波で打ち破られ陸置きのY−l9もひっくり返り横腹に穴があいた。肝を潰した台風だった。
 
昭和48年
  1月にモーターボート歴の古い大内氏のサザンクロス(FBV)が小豆島、岡崎造船で進水、貴伝名氏が回航して来た。別府の小さなヨットを見慣れていた我々には、かなり大きく見えたが、最近入ったトリトン(村田グループ、東レアルぺージュ)と同型で、大型艇の増えた現在はそうは見えなくなった。
 第6回別府レースは新艇サザンクロス(FBV大内)、クインエース(ブリスク萱島)もエントリーしていたが、北東の強風が吹き続き、波浪厳しく、両艇は平郡島への回航を途中断念した。レースは11時間余りの長いレースとなり優勝は雷電(ジャンカー19、池部、橋本、前河)2位コラソンU(SP−22森重、浅川、橋本元)4位ココナッツ(6.2油布)、5位シーアドラーU(SP−22河野)と前年に続き別府勢が上位を独占した。レース後半ビールを飲みすぎ、わずかの差で連続優勝を逃がしたコラソンUは、レース後すぐに福岡の佐々木兄弟に買いとられたが(現在、ブルーノア、朝来野氏所有)第4次中東戦争が起り石油危機,狂乱物価が出現し、ほとんど石油製品であるFRPヨットは恐しい勢いで値上がりして行った。
次艇か決まらずあせっていたが、丁度ヨットからゴルフに転向すると言う萱島さんのクインエース(ブリスク24)を譲り受けた。このブリスクは7.5mクラスの中でも、レイズドデッキの為その居住性の良さは抜群であった。(現在臼杵、河野金禰氏所有)。
 
昭和49年
  第7回別府レースは出走22艇と盛大になり、別府フリートは9艇も参加し盛り上がった。FRPの新鋭艇が増えたこのレースで手作りのココナッツ(6.2mJOG、油布)が優勝、4位アフロデイテ(エクメ、岡)、7位サザンクロス(FBV、大内)、8位シンシア(YA−25、猪原)、9位ランデブー(オセアン25、平山)、10位翌檜丸(F.F、河村)、シ−アドラーU、雷電、コラソンV、共にリタイア。
翌檜丸の河村哲郎さんは、小さな子供さん二人をいつも乗せていたが、新日鉄のマラソンランナーで、たしか別大毎日マラソンで30位ぐらいで走ったこともあった。
  この年もランテブー(オセアン25、平山、宮成)、トラケン(キャナル19、結城)、英神(キャナル19、小出)と新艇の進水ラッシュが続いた。とリわけ年末近く岡崎造船より戸塚氏の手で回航されて来た大内仁氏のサザンクロスU(パイオニア10)は、チークとマホガニーで作られた木造FRPコーティングの美しいヨットで、前後の優雅なオーバーハング、バウの方へとそり上がって行くシアーライン、ニスの美しいドグハウス等は,持つ誇りと喜びが味わえる名艇だったと思う。このサザンクロスUがハーバーにある時、となりの私のFRPヨットはプラモデルのように見えた。
  夏の頃、神田夫婦のアストロUが停泊、越冬し翌春3月21日橋本,吉田稔君が乗り込み、沖縄へ向かって出帆する。この航海の様子は二人だけではなかったが、「二人だけのヨット旅行」神田真佐子著(下巻)に北浜ヨットハーバーの情景も含め、各地のヨットマンとの交流が書かれている。  この年ホーン岬を歴代最小のヨットで回った青木洋「信天翁」(K−20合板、自作ケッチ)がノーエンジンで単独世界一周達成。
  という風に北浜ヨットハーバーの草創期は、ミネルバのキャビンや松野さんの事務所でヨット談議にふけり、若い連中は、小さなJOGに泊まり込み、インスタントラーメンの好きだった東郷さんは栄養のバランスが悪かったのか、失明しかけその後塩分がどうの、コレステロールがどうのと皆を困らせていた。
  ハーバー内で「なまこ」や「サザエ」が捕れ、ヨットで良く食べた。「あさリ」の貝がらで雷電が座礁?の心配をしたり、フォルテを引き継ぎ「いそしぎ」と名を変え寝泊まりしていた吉田稔君は何かの罪滅ぼしか、深夜ハーバーにはまったうら若き女性を助け人命救助の表彰を受けた。ハーバー内には2〜3ヶ所の貸ボート屋があって夏は観光客でにぎわっていた。
  この頃をミネルバの貴伝名さんは(ヨット)キチガイ部落と称していた。関西の方からもハーバー沖で炎上、沈没した面白い手作りヨットや、新婚旅行に出て7年目という自作7.5mの米国艇や、美しい国内外のヨットも数多く来た。免許や船検制度もなく、ベニヤ板で手作りした小さなヨットで、金もかけずに、どこまでも行けるヨット本来の夢があり、もっと大きな艇でもっと遠くまで、もっと早く走りたいと希望の持てる良い時代であった。このような光景の中から昭和50年、別府帆船愛好会が役員なしで生まれたが、主に池部、前河、橋本さんらが、レースの日程、連絡や記録のやりくりをしていた。
 別府レースはクルージングも兼ねた主な行事となっていて、50年には、42艇二百数十名の参加と盛大になったが、それまでの気楽に参加し、また勝てるチャンスもあった雰囲気のレースが、次第にレーサー仕様艇が目立ち始める様になった。レーサーの少ない別府は、ヨットライフも多様化し参加が減って来ているが、今でもラリキン、サザンクロス、出納氏のバンベール等が頑張って上位に入っている。とリわけ61年第19回大会に優勝を果したウインドキッス(吉田、広本)は、49年ココナッツの優勝以来12年振りの事だった。外洋ヨットは島から島へと遠くまで安全にクルーズするのが本来の姿だと思うが、家庭や仕事にしばられ長期の暇がとれず短距離のレースや、4〜5日のクルージングで我慢せざるを得ないが、別府外洋ヨットクラブから太平洋を渡って行くのは果してどの艇であろうか。


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