リ ー フ デ 号

 17世紀の初頭、西暦1600年4月19日、佐志生の入江に今にも壊れそうな、とてつもなく大きな帆船が漂着しました。遠いオランダの地から、東洋の国ジパング(日本)へ向けて旅立った5隻の船団(ホープ号500トン乗員130人、リーフデ号300トン110人、ヘローラ号300トン109人、トラウ号220トン86人、スハッブ号150トン56人)の中でただ1隻だけ、1年10ヶ月におよぶ苦難の航海の末日本に到着した船、それがオランダからの初めての船、リーフデ号でした。この船には、江戸時代、日本とイギリス、オランダ両国の友好をとりもつことになったウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが乗っていました。
 1600年という年は、関ヶ原の戦いで徳川時代を決定した年であり、臼杵は太田氏から稲葉氏に領主が替わった年でもあり、日本にとっても、臼杵にとっても重要な年でありました。
 この時代、世界史の中では15世紀末にはじまった大航海時代の末期にあたり、ヨーロッパの新興国オランダも東洋進出に躍起になっていました。
 オランダという国が正式に公認されたのは1648年でしたので、リーフデ号がオランダを出発した1598年という年は、オランダがスペインから独立を宣言した1581年からわずか17年しか経っておらず、まだ独立戦争の最中のことでした。そのような意味から、リーフデ号に思いをはせることは、大航海時代の荒波を乗り越えた勇者の情熱に感動し、見知らぬ異国人に示した臼杵人の親切なもてなしに誇りを覚え、同時に臼杵と日本と世界の歴史に限りない興味をかき立ててくれます。

ウイリアム・アダムス(三浦按針)

 1564年、ロンドンの近くで生まれ、12才の時郊外の造船所の弟子となり、12年間造船と航海術はもちろん、砲術、天文学、幾何学、数学などの勉強をし、航海士兼船長の資格を取りました。
 オランダから東洋遠征隊が出ることを知ると、単身オランダに出向き、リーフデ号を含む5隻の船団に加わります。この時アダムスは34才でした。1600年4月19日、佐志生の海に漂着し、日本に来た最初のイギリス人でした。徳川家康に引見され、ヨーロッパのいろいろな事情を説明し、やがて家康に認められ、家康の外交顧問となり、ヨーロッパの地理学、数学を教え、天文学、造船、砲術などを指導しました。1605年家康はアダムスの功績に対して、三浦半島に土地250石を与えられ、日本の旗本となり、三浦按針と呼ばれるようになりました。
 家康の死後は、平戸に移り、イギリス商館に勤務し、後に独立して貿易をはじめ、船を買い入れて中国に渡ったりしますが、1620年病に勝てず、平戸で56才の生涯をとじました。

ヤン・ヨーステン

 オランダのデルフト出身で漂着後、家康の顧問となり、オランダ商館の設立に力を尽くし、オランダと日本の歴史的関係の礎を築きました。その後、幕府の外交顧問となったヨーステンは、江戸と長崎に屋敷を与えられました。
 現在、東京駅の八重洲口(ヤエス)と呼ばれていますが、これはここにヤン・ヨーステンの屋敷があったことに由来しているといわれています。日本に着いて約20年間にわたり、特に貿易面でめざましく活躍しました。その後、帰国許可を求め、1622年にバタビヤに渡りましたが、オランダには帰国できず再び日本に向けて出航しましたが、船が難破し、水死しました。
 東京駅の地下街にはオランダ政府によって寄贈されたヤン・ヨーステンの胸像が、生花を添えて飾られています。




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