(社)観世会 月刊  スケジュール4月号より

「初心忘るべからず」

平松守彦


 桜咲く四月。真新しい制服やスーツに身を包んだフレッシュマンが颯爽と門をくぐ
る。学校や会社では入学式、入社式のシーズンだ。大分県でも、新規採用職員への知
事訓示式が県庁正庁ホールで行われる。

 こういう式の時、きまって使われる言葉は「初心忘るべからず」。今年も、上司か
らこの言葉を聞く人が多いのではないか。例えば、
 「諸君は、これから新しい人生が始まる。今、君たちの胸中には不安と期待が交錯
しているだろう。今日の緊張した気持ちをこれからも持ち続けて、全力を尽くして頑
張って欲しい。”初心忘るべからず”である」

 結婚式でもよく使われる。
 「新郎新婦は、今日の初々しい気持ちを生涯忘れることなく、相ともに手を携えて
幸せな家庭を築いてください。そこで”初心忘るべからず”の言葉を送ります」

 ところで、この「初心忘るべからず」とはそれほど単純な意味ではない。入社式の
情熱をいつまでも保つことは不可能だし、新婚夫婦にしても、一生新婚当時のままの
愛情を保ち続けることも無理だ。「嵐も吹けば雨も降る・・・」の歌もある。新婚の
時の愛情もやがて薄れ、いさかいや空々しい寒風が吹くこともあろう。「結婚は他人
の始まり」「孤独が怖ければ結婚するな」という諺もあるくらいだ。

 この言葉の真意を教えてくれたのは、観世流シテ方で、昭和六十年に亡くなられた
武田太加志さんの随筆であった。

 私事になるが、私の妻(照子)は、別府に住んでおられた井本完二先生から能を教
えていただいた。そのお陰で、名誉師範を受けている。

 井本先生の勧めで、たまたま妻が読みかけていた武田さんの本を手に取り、「初心
忘るべからず」の意味を知った。

 「初心忘るべからず」とは、能の流祖・世阿弥の秘伝書『花鏡』のなかにある。

 「当流に、万能一徳の一句あり。初心忘るべからず」

 初心には三つある。まず「是非とも初心忘るべからず」-若いときの初心を忘れず
において、芸がすすんでいったとき反省する土台とする。つまり、新婚の時の気持ち
を忘れず、その後の一年間の間柄がどれだけ深いつながりになっているのかを比較す
る。次に「時々の初心忘るべからず」-初心の時から年盛りのころまで時々に適した
曲を習得する。過去の一つ一つを忘れてしまっては、現在のことしか知らぬことにな
る。最後に「老後の初心忘るべからず」-老後になると、体力が衰え技を控えめに、
心を演じるほかない。こんな重大なことを初めて手がけるのだから、これが初心でな
くて何であろう。

 初心を忘れずに芸に励めば、芸は下ることなく上るばかりで、芸が行き止まったと
見られることなく、生涯を終えることができる。これは芸道の奥義であり、子孫へ残
す秘伝とする。

 "He is not what he was"-「彼は昔の彼ならず」という言葉もある。初めの気持
ちを一生持続せよというのは無理な話だし、人間は成長していくものだ。昔の彼を忘
れないでいてこそ、今の彼がどう変わったか分かる。そこで「初心忘るべからず」な
のである。私は、新規採用職員への訓示の時に、こうつけ加える。

 「今の気持ちを永遠に持てということではない。この緊張感を覚えておいて、一年
経ったときに君たちはどれくらい進歩したのは、公務員としてどれだけ勉強して、ど
れだけ強い倫理観を養ったのかを比較してください。”初心忘るべからず”という言
葉を思い出して欲しい」と。

 世阿弥の言葉は深い。そのことが能が幽玄にして、深遠な芸であることの証明でも
ある。