季刊「文(もん)」2001年夏号(2001年7月10日発行)
二十一世紀の地球社会に貢献できる人材の育成
大分県知事 平松守彦

 
 

父から学んだ「継続は力」の精神
 
杏 中 きょうはありがとうございます。知事はいつもパイタリティーにあふれていらっしゃいますね。分刻みのスケジュールのなか、健康を維持されている秘訣をうかがいたいのですが。
平 松 知事になって22年経ちますが、大分にいるかぎり毎朝6時半には起床して、知事公舎のまわりを早足で歩くことにしているんです。公舎近くの松栄(しょうえい)神社に「継続は力」と父が書いた石碑がありまして、石碑の前で敬礼するのが日課になっています。土曜も、日曜も、雨の日も傘をさして、毎朝続けているのがいいんでしょうね。やると決めて実行していたら癖になりまして。
杏 中 まさに「継続は力」ですね。ところで「継続は力」という言葉はお父様がおっしゃったお言葉とうかがっておりますが。
平 松 評論家の草柳大蔵さんが調べてくださったのですが、どうやらそのようです。父は広島高等師範学校を出て、名古屋の愛知県第二師範学校で教頭をしていました。私の母の実家が大分で商売をしており、結婚後、その仕事を継ぐことになったため、教師を辞して大分に移りました。事業のかたわら市議会議員など務めるうち、夜間中学校を作ろうと思いついたそうです。私は1924年3月12日生まれなんですが、その年の3月11日、つまり私が生まれる前日に出した学校の設立申請書に、「私は一生を勤労青年の教育に捧げます」という趣意書を精進潔白して書いたそうです。
杏 中 お父様の強い志を感じます。
平 松 夜間中学校は今でいう定時制高校ですから、学生は、昼間は働いて、夜、勉強するわけです。無試験でしたから最初は100人くらい入学するんですが、仕事の後、毎日の通学を3年間続けるのは難しく、卒業できるのは30人くらいになってしまう。何とか学問を続けて欲しいという願いを込めて「継続は力」という書を教室に掲げたのが始まりです。やがて、この言葉は校訓になりまして。ある時、卒業生のかたたちが相談して「継続は力」と父が書いた石碑を作ってぐださったんです。それが松栄神社にあるというわけです。
杏 中 公文の指導者は全国に約16,000人おりますが、「継続はカ」は、指導者が子どもたちに最も伝えたい言葉の一つです。日々の積み重ねが実を結んだ時、まさにこの言葉を実感するのでしょうね。それにしてもお父様はすごい教育者でいらしたんですね。
平 松 昭和の初めのことですから、もちろん補助金などなく自立自助での経営でした。家業の卸製造業のお金を少しずつ貯め、私財を投じて作った学校です。私が子どものころは、春休みになると車力(しゃりき)に机や椅子を乗せ、父と一緒に学校に運んだりしたものです。ですから私学の経営がいかに厳しかったかは肌身に感じていました。今でも私学の人とよく話をするんですが、学校の経営をここまでやり続けた父は、たいへんな人だったと思います。
杏 中 情熱がないとできませんね。
平 松 今は私学「平松学園」として高等学校のほかに短期大学と幼稚園もできています。校訓はもちろん「継続は力」です。父は1967年に他界しましたが、同窓生が「継続会」という会を作り、ときどき集まっています。
杏 中 いいですね。お父様のご意思が脈々と引き継がれているのですね。
平 松 私は知事になってから「一村一品運動」などに取り組んできましたが、この運動はカボスや焼酎、椎茸といった、単なる県の特産品作りと思われることが多いのですが、「品」は品格という意味も含めているんです。
杏 中 人を育てるということですね。
平 松 そうなんです。大分県は歴史的にみると豊前2郡、豊後8郡からなる小藩分立の地域で地形も複雑なので、一つの県としては非常にまとまりが悪かった。県としてのアイデンティティを確立させたいと考え、はじめたのが「豊の国づくり塾」です。私が塾長を務めていますが、経済的な豊かさと地域に住む人々の心の豊かさを目指す人づくりのための場にしました。2年課程で1年目は地域づくりを成功させているリーダーや企業のトップを招聘しての学習課程、2年目は自らの実践課程として、県下12のブロック別の開催で、主婦や農協の職員、教師、定時制の学生など職種も年齢も異なる約30人の塾生が講師選びから実践内容まで、すべて自分たちで決め、自分たちの地域を活性化するにはどうしたらいいかを勉強する塾にしたんです。塾是は「知行合一」で、これまで1,800人以上の卒業生が出ていますが、みんな地域づくりのために運動を続けていますよ。また、農業は農業で「農業平成塾」、それから「ボランティア大学校」、「豊の国IT塾」、「高年大学校」など、細分化された塾活動もあります。
杏 中 大分県が独自に行っている活動ですね。
平 松 そうなんです。どれも活発ですよ。「ボランティア大学校」の学生は、16歳から78歳までいて、この幅広い年代の学生たちが一緒になって1年間、勉強するんです。それから「高年大学校」はもう20年以上続いていますが、55歳以上のかたが対象です。スタート時に教育委員会がカリキュラムを作り、別府で開校したら希望者が殺到しまして。2年制ですが今でも毎年500人ずつ入ってきます。97歳で入って99歳で卒業したかたもいますよ。そのかたは卒業式で答辞を読みました。青春は年齢と関係ない、歳をとっても向学心ある者は青年である。逆に、若くても勉強しないのは年寄りだ、と言って在校生を激励していました。それから、もう1年勉強させてくれとおっしゃって、ほかにも希望者が出たので「マスターズコース」といって大学院も開設したんです。もう700人以上が卒業しています。みなさん本当に勉強熱心です。郷土史や福祉などの希望者が非常に多いです。
杏 中 10年偉大なり、20年恐るべし、30年歴史なる」ですね。
平 松 今年の年賀挨拶の時、私は「21世紀は人を育てる"育材育心"が県のスローガン」と話しました。地域づくりをするには、まず人づくりからだと思っています。
杏 中 知事は就任されて22年間、一貫して、県民に夢や希望を与えるための明確なコンセプトを打ち出してこられたと思うんです。全国的にも大きなムーブメントとなった「一村一品運動」も県民にとっては誇りであり自信につながっているでしょう。企業経営に携わる身から考えますと、トップが何を目指しているのかをきちんと打ち出すことはとても重要ですね。それを県という大きなレベルで実践されていることには本当に頭が下がります。
平 松 企業で言えばコーポレートアイデンティティですね。先程も言いましたが、九州のなかでは鹿児島は島津、熊本は細川、宮崎は日向の天孫降臨など、みな郡主割拠で地域の特色がありますが、大分は小藩分立で、これといった個性がなかった。私が知事になった当時、県のある職員が出張先で名刺を出したら「大分(だいぶん)県はどこですか」と聞かれたそうです(笑)。それぐらい知られていないところだったんです。ですから、私は県民に、まずしっかりとしたアイデンティティを持ってもらいたかった。そのためには地域に誇りを持ってもらわないといけない。それで、特産品でも流行歌でも民謡でも何でもいいから県の特色となるものを作ろうと言ったんです。これが「一村一品運動」です。結果として特産品だけじゃなく、湯布院のように町づくりにも大成功しました。
杏 中 そうですね。大分といえば別府温泉と一般的に思われがちですが、17、8年でこれほど変わるものなのですね。
平 松 逆転の発想で始めたんです。湯布院は、町中にネオンサインをつけない、歓楽街は作らない、映同館も1軒もないところでしたので、高度経済成長の頃は別府温泉に客をとられ、本当にひっそりとしていました。この「ひっそり」に目をつけたのが良かったんです。映画館のない町で映画祭をしようと決まり、夏に、東京から有名な映画監督と俳優を招き、小さな公民館でその監督の作品を上映する。終わった あと監督や俳優が観客と懇談できるようにしたんです。そうしたら東京や大阪から若い女の子がワァーっと来るようになった。町内の宿泊施設も流行りの高層ビルのホテルはやめて、2,3階のこぢんまりした宿にした。夏は川に天然のホタルが出て、という自然を重視した町づくりが世の中に受けたのでしょうね。
杏 中 町全部が一丸となって関わったことがすばらしいですね。
平 松 「大分県は今、たとえ一番ビリでも、時代が変わるとトップランナーになる」といつも言っているんです。時代が変わり価値視がひっくり返ればビリはトップですから(笑)。
杏 中 それも逆転の発想ですね。しかし、知事のお話には「文化」を感じます。ビジョンが明確に示され、誇りや、やる気が県民に相当出ていますね。人は喜びや誇りを持ったときに、努力した、勉強をした、何かを知った、だからできたというのが実感できるとさらに成長しますよね。それは塾や高年大学校という形で、県内のあらゆる人たちに学ぶ機会をつくってこられたことも同じですね。
平 松 父親の影響かもしれません。人づくりも地域づくりも、それぞれ成功もあれば失敗談もあるわけですが、陽明学でいう言行一致、言うばかりじゃだめで、何か1つでも実現しないと。新しいものを具体的に実行に移さないと、ただ言うだけでは何も変わらないですよ。