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政治家の本棚――30 | ||
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平松守彦氏 | ||
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朝日新聞編集委員 | ||
| インタビュー: | 早野 透 | Toru Hayano |
丸山真男、松本清張、そして大分
●―出身は大分市内ですね。
平松 そうです。私のうちは帽子の製造、卸業だった。おやじは広島高等師範を出て、愛知師範の教頭なんかやっておったのを、私のおふくろの実家の家業を継げと言われたのです。
それで、大分に戻ってきて、自分のポケットマネーをはたいて夜間中学、今で言う定時制高校ですね、あれを昭和の初めにつくった。今でもその同窓会があります。その学校の校訓が「継続は力」。今、私は大分県の一村一品運動にその言葉を使っているのです。
●―大分中学では。
平松 図書館部員をやりましてね。一番印象に残っているのは、賀川豊彦の『一粒の麦』。非常に感激した覚えがありますね。
僕は姉三人と三人男兄弟の真ん中。兄貴が旧制高校へ行って寮歌集を持って帰った。「都ぞ弥生」「ああ玉杯」「紅もゆる」「北の都に」って、初めから終わりまで歌える。熊本の五高に進んで、声がでかかったから応援団長みたいなことをしていた。
●―寮歌というのは、勃興する日本の文才でしたね。五高での読書は。
平松 旧制高校は日本教養主義のパターンです。西田幾多郎の『善の研究』とかね。
当時、高坂正顕とか高山岩男とか、京都学派が盛んなころです。レオポルド・フォン・ランケの『世界史』が非常にはやった。「あらゆる時代は神につながる」という有名な言葉があるんです。いわゆる歴史は進歩していくものではなくて、中世は中世独自の世界、近世は近世、マルクス主義的発展説じゃなくて、それぞれの時代は個性的だというのです。非常におもしろかったな。
●―それから東大に行かれて、確か学徒出陣で……。
平松 九大に一たん入りまして、東大には戦後復員して行ったのです。『国家と宗教』という本が昭和十七年に出ましてね。
●―戦後、東大学長になられた南原繁さんの本。
平松 戦争へ行く前に読んだんです。よく発禁にならなかった。ナチスをきびしく批判した、大変難しい本ですよ。それを田中耕太郎さんが批判をして、それを南原さんがまた再批判した。その二冊は戦争中、持って歩いた。何月何日、海軍のどこで読んだと書き入れてあるんです。
●―東大では。
平松 岡義武さんのゼミで、岡さんの家には何回も行って。あの人の『政治史』は、今でも時々読みます。引用もおもしろい。小説的だしね。最近岡さんの、『ロンドン日記』もおもしろい。奥さんにあてた手紙も全部書いてあってね。
戦後では、『近衛文麿』。この本で近衛さんを辛辣に批判している。岡さんは客観的立場に立ち自己抑制のきいた人ですが、近衛さんのために日本は間違ったんだということですね。
●―あのころのアカデミズムは非常に鮮烈でしたね。
平松 そして昭和二十一年、雑誌「世界」に載った丸山真男さんの『超国家主義の論理と心理』。丸山さんはまだ若くて前下がりの髪の毛をたくし上げながら東洋政治思想史を講義していました。新進気鋭の助教授でした。
夏目漱石の『それから』の中の対話を引用して、日本人というのは、朝から晩まで国に仕えている……。ああいう引用から、日本精神の論理構造、心理構造をえぐ
り出した手法は非常に新鮮でしたね。
東条英機も「私は月であって、天皇陛下は太陽である。私は、太陽の光によって光があるだけだ」という有名な言葉を残しているように、当時の日本は総ざんげ論の時代。丸山さんはそれを日本の思想構造の問題点と捉えた。
●―そうですね。
平松 そのころ私は夏休みに大分に帰って、若い女の子や高等学校の生徒ぐらいを集めて講義をしたんですよ。福沢諭吉論とか、丸山さんとかの思想にかぶれて、私と私の弟、何人かの学生で文化講座を開きました。昔の女学校の教室を借りて。
●―へぇ学生の身分で。
平松 昭和二十二年ごろから、『エリート』という同人雑誌をつくったりした。五号でつぶれましたけれどもね。
●―何を書いたんですか。
平松 「日本は変わったか」とか、弟義郎は「神のアリバイ」とかいう題で、それぞれ衒気あふれてね。後で聞いたら。その中に赤瀬川隼さんもいたんですよ。
●―新しい日本の息吹だな。
平松 それからずっと経って、私が大分県知事になり、丸山先生が安東仁兵衛さん、松山幸雄さん、筑紫哲也さん、石川真澄さんと大分に来られたのです。
●―どういういきさつだったのです。
平松 朝日新聞の広瀬道貞さんが勧めたらしい。広瀬さんは日田の広瀬淡窓の子孫です。
●―僕は不思議に思っていたんだけれども、丸山先生はあれほど福沢諭吉を書きな
がら、中津に行ったことがなかったらしいんですね。
平松 丸山さんは三浦梅園の地を訪ねたい、むろん中津に行きたい、できれば日田にも行きたい、ということだった。で、喜んでお迎えした。このときが大学以来の丸山さんとの再会なんです。そのとき丸山さんは肺が悪くて酸素ボンベを携帯されるというほどでしたが、城下カレイを食べていただいたり、空気がよくて大分にいた間は、ボンベを持参せずに済んだ。
●―三浦梅園の地は……。
平松 梅園は江戸時代に京都にも行っていない、長崎も行ってない、一歩も国東半島から出たことがない。しかし宇宙の天体を見て、「弁証法」の論理を、「反観合一」という言葉をつかって書いたんですね。
●―『玄語』などという難しい本がありますね。とても読めない。
平松 全然入り口にも入れません。福沢諭吉については小泉信三さんも書いています。しかし丸山さんの『「文明論の概略」を読む』は「丸山真男の福沢諭吉」ですね。惑溺しないとか、複眼思考とか。丸山さんは、カール・マンハイムの「視座構造」という言葉が好きですね。丸山さんは中津から日田の咸宣園を訪ねました。
そのあと丸山さんから手紙が来た。「大分はあれだけすばらしい碩学がいるんだから、日本文化研究センターをつくったらどうか。」と言うんですよ。難しい構想を言われたなと思ってね。その発想から、私は大分県先哲叢書というのをつくったのですよ。大分県で毎年一人ずつ、南画家の田能村竹田とか、三浦梅園とか、二十年かけて発刊する計画を考えまして、丸山さんに相談したら、「大変結構だ。そのときに必ず矢野龍渓を入れて下さい。明治のジャーナリストで、その序文は必ず自分が書くから。」と言われたんです。
●―で、どうなりましたか。
平松 丸山さんはその後、床につかれ、この矢野龍渓の序文が丸山さんの絶筆になりました。一九九六年七月三十日、この本ができたので、新宿の女子医大の病院に入っているところにお届けしたんですよ。暑い日に、奥さんが寝泊まりしていて、周りに荷物が多くて、ちょっと異様な感じだったですね。
●―そのあとまもなく、八月十五日に亡くなったんでしょう。
平松 平松ー丸山さん、えらく喜ばれ、私に「出来ましたね」と言って下さった。ベッドで本をかざして序文を見るわけですね。矢野龍渓はおもしろいと盛んに言われる。奥さんがあんまり見ると体に悪いですよと心配されて、菅が入っていてよくしゃべれないんですけれども、声は非常に元気がいい。
●―お話しはできたんですね。
平松 福沢諭吉の脱亜入欧の話とか、ハンス・ケルゼンの話とか。窓際にある一冊の本を、これ読みなさいと。みすず書房の『アーレントとハイデカー』。ハイデカー教授の恋物語ですよ。
丸山さんが亡くなってしばらくして、丸山さんのお宅に伺ったんですよ。奥さんの話では、ご家族は別にして、部外者として生前の丸山さんにお会いしたのは僕が最後ということでした。奥さんから「私が病室にいたら、皆さんの面会はお断りしていたんですが、ちょうど私がはずしていたときだったんですよ。でも、非常にいい功徳してくれました。」と言われました。
●―先生も喜んだんだな。
平松 丸山さんが大分に来られたときに、平松さんのやっている地方分権を日本で一番最初に言ったのはだれと思いますかと言うのです。知りませんと言ったら「福沢諭吉ですよ。明治十年に」と言うのです。国防と通貨と外交は中央政府、あとは地方政府にまかせろと福沢が言うのを丸山さんが教えてくれた。
●―福沢の『分権論』ね。
平松 そうそう。僕は『分権論』を初めて読んで、これはほんとうを言うと、当時、武士が公債をもらって失業したでしょう。だから、地方政府に武士を雇えというのが隠れた意図なんですよ。
●―ああ、そうなのか。
平松 けれども、福沢はトックビルのアメリカンデモクラシーに倣ってガーウルメントとアドミニストレイションとに分けているんですね。丸山さんにいろいろ手紙を出しているうちに、丸山さんも筆まめでしていろいろなことを教えていただいた。
そういえば、三浦梅園の地を訪ねたときに、そこの町長さんが丸山先生に色紙を頼んだのですね。その町長さんは三浦梅園が好きで、三浦梅園の資料集をつくっておって、それを丸山さんも大変喜んでいた。色紙を嫌がる丸山さんが、よし書きましょうと三枚書いてくれた。
その町長が僕のところへ一枚持ってきたのは、「自由在不自由之中」という言葉です。ほんとうの自由というのは、自分を規律するというところにあるという意味なんでしょうね。僕はそれをもらったんだ。
僕は丸山さんに、私もあの町長からもらって、知事室に掲げておきましたと書いたら、お叱りの手紙が来た。「それは絶対困る。地方に出て気持ちよかったからつい書いたので、あんなことはやったことはない。今まで断った人に申しわけない。即刻おろしてくれ」というわけです。僕は机の奥深くしまっちゃって。
●―それにしても丸山さんは、最後まで実に情熱的な啓蒙家でありましたね。さて
平松さんは、通産省時代はコンピューター産業をてがけ、知事になられてからは一村一品運動で有名です。松本清張の『西海道談綺』、あれは確か大分の鯛生金山と縁があるんですね。
平松 清張さんの本は、芥川賞をとった『或る「小倉日記」伝』から、あらゆる本は皆読んじゃった。あの人は小倉の朝日新聞社時代にアルバイトで竹ぼうきをつくって、それを売りに大分まで来て、帰りに暮れなずむ国東半島の磨崖仏を見て非常に感激したというのです。当時から大分は好きだったらしい。
●―清張さんの『半生の記』だったかな、出てきますね。
平松 『西海道談綺』の舞台の中津江村の村長が鯛生金山の地底博物館をこさえたんです。
清張さんが「私は小説を書いた。あれを映画化しよう。大分県の俳優でつくろう」。古手川祐子っているでしょう。
●―大分が生んだ美女ですな。
平松 彼女主演の映画をつくった。それから清張さんは、鯛生金山の由来を全部テープに自らの声で吹き込んで、地底博物館にくれた。過疎の村に、百万人近いお客様が来て大盛況だった。今でも清張さんの小説の原稿が地底博物館に陳列されていますよ。
●―そうですか。
平松 清張さんとは、非常に親しくなりまして、東京に行くと時々、料理屋に呼んでごちそうしてくれて、わたしも一席設けたりした。大分にも何度か来て、講演もしてくれまして、最後は「荒城の月」を作曲した滝廉太郎の住んでいた竹田へ行って……。
●―山あいのいい町ですね。
平松 清張さんは、『ゼロの焦点』というのを書いて能登半島が有名になった、これから竹田を題材にした小説を書いて、竹田に観光客を増やそうと言ってくれたのです。それNHKの月刊誌に書いた『詩城の旅びと』です。
清張さんというのはおもしろい人で、NHKに必ずこの小説はテレビ化してくれよと頼んで「テレビ化決定」ということを冒頭に記載する。サービス精神の旺盛な人でした。
竹田の城とフランスのレ・ボーという古いお城、竹田には名曲「荒城の月」があり、あちらには吟遊詩人がいる。竹田と南フランスを題材にした推理小説になったんですよ。 あの人は愛郷心が強く鳥取県の生まれで、出身地の村には工場がない、村長をおまえのところにやるからと、清張さんの紹介で村長さんが来たのです。知事からよくノウハウを聞けというわけですね。そういうことも細かく気配りをする人でしたね。
●―そうでしたか。
平松 清張さんから私に来る手紙も、「東京都杉並区高井戸東 松本清張」と後ろにちゃんと直筆で書いてありました。私の方は封筒の裏は「大分県知事」と印刷してありますからいつも申しわけない気持ちでした。
野上弥生子さんとも、大分県の広報誌の対談第一号で登場していただいて以来、おつきあいさせてもらいました。野上さんから、いただく手紙にも必ず「東京成城 野上」と書いてありました。野上弥生子読書感想文コンクールというのを岩波と共催で大分県で催しているのです。今でも全国から三千点ぐらい来ますよ。
●―知事としての業績も画期的なものだけれども、随分楽しんでいらっしゃること
もあるんですね。
平松 もう一人忘れることができないのは遠藤周作さん。大分を有名にするには大河ドラマをやらないといかん。大友宗麟という大分のキリシタン大名はどうかと考え、NHKに頼んだら「平松さん、大友宗麟なんか、知る人は少ない。まず有名な人に小説を書いてもらいなさいよ」と言われ、それで、私は遠藤さんに書いてくださいとお願いした。遠藤さんは「書きましょう。ただし私が書くのは、神と人間とのはざまに悩む、弱い宗麟ですよ。いいですか」と言うのです。それが、『王の挽歌』です。
丸山さん、清張さん、野上さん、遠藤さんなんていう方と親しくお話しを聞くことができるなんて、知事になるとき考えもしなかったけれど、これも知事冥利につきるというもんですよ。
(早野)