第31話
中世・田染荘から
−生活空間こそ地域力−




〈中世の秋〉
 晩秋の午後、「仏の里」で知られる国東(くにさき)半島の、現代に息づく中世のムラ「田染荘(たしぶのしょう)」を訪れた。
 田染荘は、半島の付け根にあって、全国八幡宮の「根本」である宇佐八幡の私的保有地。つまり「荘園(しょうえん)」である。鎌倉中期、弘安8年(1285年)宇佐八幡の神官の分家で、この地に土着した田染氏の文書によると、文永、弘安の役で蒙古襲来を「神風」で乗り切った鎌倉幕府は、神領興行法を発布、神への感謝の代償として九州各大社の神領を復活させた。
 

 現在、この地は豊後高田市小崎(おさき)地区に編入されている。
 地元の方々の案内で小高い丘に立った。背後に六郷満山の総本山高山寺のあった西叡山がそびえ、前面には遥か彼方に間戸(まど)耶馬と呼ばれる奇岩、峻峰がそそり立っている。この山々に囲まれた盆地のほぼ中央に、村落が肩を寄せ合うように集まっている。周辺には棚田が重なり合うように広がっており、その中を雨乞いの神を祀る雨引神社のあたりから潅漑水路として小崎川が流れている。
 今年は台風もなく豊作で、秋の収穫も終わり、田んぼには藁こずみが点在している。

中世のムラの雰囲気が漂う田染荘
中世のムラの雰囲気が漂う田染荘

 地区の方の厚意で机と椅子が用意され、机上には小崎村絵図が置かれていた。元禄2年(1689年)、この地を支配していた島原藩(今日でも豊後高田市と長崎県島原市とは兄弟都市)に提出され、天保7年(1836年)あらためて写し取ったものだ。ミドウ、イイズカ、カドなど鎌倉時代と同じ地名や屋号が残っており、古図と現在の地形を重ね合わせつつ往年の村落の原景を想像することはさして困難なことではない。全国でも珍しく中世村落の景観が良好に残されているといわれる所以だ。
 暮れなずむ荘園風景を眺めていると、私はオランダの文明史家ヨーハン・ホイジンガ(1872−1945年)の名著「中世の秋」がしきりに思い出される。
 彼は、14世紀に花開いたルネッサンス(文芸復興)は、決して中世の否定ではなく、中世思想の花園の中にあってゆっくりと成長し、その基底には真に中世的なものが深く残っている、と指摘した。
 今日、農村集落や棚田の環境保全への役割が見直され、その保存のための施策が国においても検討されるようになった。


<新田園風景の創出〉
 戦後、大規模ほ場整備事業がすすめられ、農村集落風景が一変した。
 この地区でも、現在52世帯158名が農業に従事している。重畳とした田園で、耕作機械の導入も困難なため、人手中心の重労働から脱せず若者は流出し、高齢化率は40%を超える。だが、畦(あぜ)をこえての「田越し」灌漑で農家の結びつきは強い。田染荘内の他地区で機械化導入のため、ほ場整備にふみ切った時、この地区でも原景を残すか否かの選択を迫られたが、国と県、市町村の支援を受けて、風景を保全し、コンクリートの用排水路でなく、親水性の小川や風景にマッチする遊歩道的農道を設け、都会人が訪れたくなる「田園空間整備事業」による村落整備の途を選んだ。
 ソフト面では「荘園領主制度」で、都会人に年会費3万円で領主になってもらい、田植祭、収穫祭などに参加し、農業体験をしてもらうほか、収穫された荘園米30キロの宅配がある。私も早速、荘園領主の名札を掲示板にさげてもらった。


〈地域づくりの原動力〉
 田園空間整備事業といっても用排水路、農道、販売所などハード面の事業ばかり目立つが、実はこの地域の山で囲まれた棚田のある「田園空間」こそ、地域づくりの原動力である。「粘土をこねて茶碗を作る。中のうつろな部分があってこそはじめて茶碗は役立つ」(老子の言葉。「故二有ノ以テ利ヲ為スハ、無ノ以テ用ヲ為セバナリ」)
 われわれは、若者を魅きつける都会の力として、文化・娯楽施設・高層オフィスビルなどを連想するが、この施設に囲まれた都市空間、都会の雰囲気が、その引力(都市力)なのだ。
 一方、地方には、みどりの山と美しい川と汚染されぬ水に囲まれた「生活空間」がある。地球環境問題が人間生存にかかわる課題として我々の目の前にあるいま、中世荘園特有の「田園空間」は、貴重な地域力として、現代の人を引き付ける「用ヲ為ス」のではないか。
 話は現代にとぶが、ニューヨークの青空の都市空間を飛行機が突き進み、高層ビルに激突するテレビの画像やアフガニスタンの砂漠の山岳地帯の空間をミサイルが落下してゆく光景は、まさに21世紀を象徴する生活・文化空間の衝突と私には見える。次元の異なる生活空間の共生をどこに求めるか、世界人類の最大の課題ではないだろうか。


(大分県知事 平松守彦)


読売新聞11月16日号より



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