第六章 ローカル外交の時代
         海を渡った一村一品運動

 大分県のCI運動として始めた一村一品運動であるが、日がたつにつれて全国で共鳴現象を起こし、地域 づくりの連帯の輪が広がり始めた。北海道はそのまま一村一品運動のネーミングで実施し、熊本県では日 本一づくり運動を進めている。名称は異なるが、地域に主体性を持たせた運動を取り入れようと、どこも 躍起になっている。
 同時に、私にとっては思いもよらなかったことだが、この運動を勉強したい、この運動の精神を学びた いという人が世界各国に現れた。一村一品運動が海を渡り、大分県と世界の地域とがリンケージ(連携)し たのである。そこで、大分県がこれまで取り組んできたローカル(地域間)外交の系譜を たどってみよう。
  「一プラス一が百にも」−ラモス・フィリピン大統領の熱意

 平成五年五月三一日、私はフィリピンの首都マニラ空港に降り立った。日中の気温は四〇度。フィリピ ンには副知事時代に一度訪れたことがある。同じように暑い日であった。  フィリピンを訪れたのはフィデル・ラモス大統領に招かれたからだ。同年三月、国賓として来日中のラ モス大統領と会談した際、正式にフィリピン政府からの招待を受けた。
 きっかけは三年九月、マニラ南方のカラバルソン地域の四州知事が来県して、一村一品運動を視察した ことだ。この地域では国の総合地域開発計画が始まり、六か所の輸出加工区を中心に工業開発が進んでい る。一方で、地元の中小企業や農水産業との間に所得格差が生じ、工業と農業、都市部と農村部のバラン スのとれた、持続可能な開発が大きな地域課題になっていた。四州知事が大分県の地域開発の事例を大統 領に報告したところ、地域活性化に関心を寄せていた大統領は、「ぜひ大分県の話を聞きたい」というこ とであった。
 大統領は「これからはGNP(国民総生産)より、GNS(国民総充足社会)をめざすべきだ」という私の話にい たく感心され、同席していた閣僚らに「この言葉を覚えておきなさい」と指示していたことが印象に残っ ている。会談の際に、「交流することによって、一プラス一が二になるのではなく、三にも四にも百にも なる力が生まれるのです。ぜひとも互いの地域住民同士の交流を深めたい」と、ラモス大統領が私の手を しっかりと握った。私は経済再生をめざす真摯な姿に打たれ、「大分の地域づくりの若者を連れて行きま す」と、フィリピンに渡る約束をした。その約束が実現したのである。
 私たち「大分県フィリピン地域活性化訪問団(十六人)」一行は、カビテ州にあるカビテ輸出加工区を訪 れた。ここでは八七社が操業中で、日本企業または日本との合弁企業が三二社を数えていた。 見学したのはカーステレオ・メーカー。ロボットも導入され、家内工業的な中小・零細企業が多いフィリ ピンでは最新鋭工場とのこと。八〇〇人の従業員のうち六二〇人が若い女性で、生産ラインに向かう姿は ひたむきだ。
 ラグナ州ビニャン町では小さな靴工場を訪ねた。従業員わずか五人。工具も乏しく、決してきれいとは いえない工場であった。 「ラグナ州は産業も技術も不足している。ぜひ、日本に協力してほしい」  工場のオーナー宅の庭先で歓迎パーティを催していただいたが、レスティテュート・ルナ州知事の挨拶 には熱がこもっていた。
 フィリピンでは一九九二年四月に地方自治法が改正され、地方自治体の権限が強化された。カラバルソ ン地域だけでなく、各州ともいかに地域を活性化させるか、知恵比べ合戦が行われていた。
 六月二日、私はマニラ市内のマラカニアン宮殿で開かれたフィリピン知事会に特別ゲストとして出席し、 カボスやシイタケを手にしながら一村一品運動について説明した。私の講演に出席したのは、全国七三州 のうち約五〇州の知事や副知事。「今日の出席率はとてもいいですよ」と事務局から聞いた。 「トーキョー」とは異なるもうひとつのニッポンの話は、興味深いものであったようだ。メモを取る真摯 な姿が印象的であった。意見交換の席上では、サランガニ州のブリシラ・チョンピアン女性州知事が「う ちの州でも取り組みたい」と握手を求めてきた。
 この日、カラバルソン地域五州との友好交流協定を締結。続くラモス大統領との会見のときに、「大分 県とカラバルソン地域は、県・州政府職員のほか、中小企業、農林水産業関係者らを相互に派遣し、技術 や知識の交流を進めることで合意した」と報告した。ラモス大統領はこうした相互交流の促進を高く評価 していた。
 わずかの間であったが、フィリピンで垣間見た経済状態は決してよいものではなかった。最初の公式行 事としてダニエル・ラクソン地方開発担当大統領顧問に会いに行ったときに、"マニラ名物"と皮肉られて いる停電が起きた。エレベーターは動かず、六階の会議場まで薄暗い階段を手探りで昇る。 私は普段から早朝ジョギングで鍛えているからどうということはなかったが、大分からの同行記者団は、 汗をびっしょりかきながらの"難行苦行"であったようだ。国内失業率は三〇%、灌漑施設の整備も遅れ、 雨期にしか稲作ができない。開発が遅れている一六州では大半の子どもが栄養失調であると聞いた。
 東南アジア諸国連合(ASEAN)結成当時、フィリピンは経済大国であった。しかし、マルコス大統領時代 に経済成長が停滞、アキノ政権でも経済を建て直すまでにはいたらなかった。それだけに、経済再建に利 用できるものなら何でもチャレンジしようという貧欲さが、大統領からも、州知事からも感じられた。
 フィリピン政府内に「一村一品運動促進のための法律制定を」という動きがあることも聞いた。しかし、 一村一品運動とは住民の自主的な運動であり、法律や制度で行政が率先するのは好ましくない。 「それよりも、パイロット地区をつくり、まず成功例を示すことが肝心だ」ともつけ加えた。
 ロドリゲス・ケソン州知事は、「同じアジアの国であり、日本で成功したものがケソンでできないわけ がない。いくつもの課題を背負っているが、将来は克服したい」と、大分県との交流を強く望んでいた。
 日本から学びたいという期待に応えることが、アジアにおける日本の役割を果たすことではなかろうか。 フィリピンとの交流は、NGO(非政府組織)によるODA(政府開発援助)だと思っている。 国際貢献は身近なところでもできる。それぞれ同じ悩みを抱え、互いに研究していくことが大事なのであ る。話し合うことから、学ぶべきことが生まれる。今度はカラバルソン地域五州政府の職員が大分にやっ て来る。

 中国では「一廠一品」「一郷一品」、韓国ではセマウル運動

 大分県のローカル外交が始まったのは中国の上海からであった。昭和五八年八月、私は汪道涵・上海市 長(当時)の招きで中国に向かった。汪市長は早口でまくしたてる。 「平松先生が書かれた『一村一品のすすめ』にたいへん感銘しました。早速、翻訳して出版しましたし、雑 誌や新聞でも大分県の成果を上海市民に紹介してきました」
 汪市長は、一村一品運動とは農村活性化運動だけではなく、職場の活性化にも役立つ一種のQC(クオリティ・コントロール=品質管理)運動ととらえていた。すでに上海市では、市長のもとで「一廠一品」(廠と は工場のこと)運動が展開されていた。
 六〇年五月には、大分市と友好都市協定を結んでいる武漢市の呉官正市長の招きで武漢市を訪れること になった。
 武漢市人民政府講堂には、農業、経済等の委員や湖北省の幹部ら三〇〇人が集まっていた。私の講演が 終わると質問が相次いだ。特に人づくりに関しての質問が集中した。大分県では地域づくりのノウハウを 学ぶ「豊の国づくり塾」を開講している。塾活動の話をすると、大分と武漢とで青年同士の交流をしよう と提案された。農業青年の研修受け入れも決まり、毎年、農業を学ぶ熱心な青年が大分市を訪れている。
 武漢での交歓会の最後に、「上海に負けぬよう、"一村一宝""一人一計"にがんばろう」と呉市長が呼び かけ、出席者が割れんばかりの拍手で応えていた。"一計"というのは知恵、アイデアのこと。 「一村一品運動」というネーミングは六三年の日本流行語大賞にも選ばれたが、さすがに中国は文字の宝 庫だけあって、どんどん新語が生まれる。
 このあと、汪市長は六三年三月に大分に来られた。すでに市長職を辞し、中国国務院上海経済圏計画弁 公室主任として、上海周辺の五省一市の工業化政策に携わっていた。上海で「一廠一品」運動が始まって 五年がたっていた。 「この五年間、大分県の一村一品運動を学び、少しずつ成果が上がってきました。今日は学生の立場で平 松先生に報告します」
 一村一品報告会の席上で汪主任はこう切り出し、上海市郊外の各県(中国の県は日本の町村程度の規模) で行われている「一廠一品」運動の事例を披露した。私と汪主任とは旧くからの"朋友"である。再会を喜 び合い、友人が住む地域の発展を心から喜んだ。
 上海が大分県に興味を持ちだした五六年頃、中国東南にある江蘇省も大分県を注目し始めた。江蘇省の 面積は十万二〇〇〇平方キロ、人口六八○○万人。全国でいちばん土地の肥沃な地域であり、「魚米の 郷」として名高い。
 中国では、一九八一年に全国的規模で「小城鎮」建設が始まり、商工業、建設業、サービス産業などの 郷鎮産業が発展した。小城鎮とは小さな地方都市のこと。中国は地方都市を活性化させることによって、 失業者が北京、上海などの大都会に大量流入しない方策をとった。郷鎮産業のなかには数人規模の個人経 営的な企業から、数百人、数千人規模の集団的な企業まである。
 江蘇省は土地が肥沃な反面、過密人口のため農民一人あたりの耕地面積は全国でもかなり低い。 「離土不離郷(土を離れて郷を離れず)」策、つまり農村への工業導入政策をとっていたこともあり、小城 鎮建設が非常な勢いで展開された。「以工建農(工業で農業を建てる)」策は、大分県が進めているテクノ ポリスの柱の一つでもある「農工並存」と同じ考え方だ。  江蘇省で一村一品運動を取り入れたのは、中国の著名な社会学者・費孝通教授であり、小城鎮建設を研 究している江蘇省小城鎮研究会(朱通華・経済研究室主任、総幹事)であった。一九八四年には江蘇省の市、 県の指導機関に大分県の一村一品運動の特色と経験を紹介し、省の多くの場所(数百の郷・鎮)で「一郷一 品」「一鎮一品」運動が繰り広げられている。平成三年十二月には、小城鎮研究会のメンバー五人(王雪非 団長)が来県。大分の一村一品運動のリーダーらと意見交換を行った。その後、大分県の海外研修制度を利 用して、江蘇省各地の小城鎮を研究している大分県職員もいる。
 日本と中国が友好関係を回復して二〇年。それを記念して、平成四年十一月、東京で日本と中国の学者 グループを中心としたシンポジウムが開かれた。その分科会では私が議長となり、郷鎮産業と一村一品運 動の共通点、地域活性化への貢献度について話し合った。これとは別に陳・江蘇省長からは、「省都の南 京市で、日本と中国とで一村一品シンポジウムを開催しないか」ともちかけられている。 「豊の国づくり塾」の開塾十周年記念として、平成五年十一月五日に別府市で「国際地域づくりセミナー」 を開いた。江蘇省から朱通華先生を招いて、「日本と中国の一村一品運動」について討論を行っている。 南京市での一村一品シンポジウムもぜひ実現したいと思っている。
 江蘇省と大分県の市町村が直接手を結んだ例が、すでに述べた梅、栗の大山町と、江蘇省蘇州市の郊外 にある呉県との友好都市提携(平成四年六月一日締結)であった。地域と地域との交流は中国政府にも聞こえ、六一年四月に呉学謙外交部長(現副首相)、翌年一月には田紀雲副首相が一村一品運動を視察するため に来県している。

 「住み心地のよいふるさと、健康で活気あふれた社会を自分たちの手で築こう」をスローガンに掲げて いるのが、韓国で豊かな地域社会づくりに取り組んでいるセマウル(新しい村づくり)運動である。 一九七〇年に提唱され、今では家庭から学校、職場、工場へと浸透し、幅広い国づくり運動へと展開して いる。自立自助で地域活性化に取り組む点は一村一品運動と同じだ。そこで互いのノウハウを交換しよう と、「一村一品・セマウル」交流が盛んになってきた。
 昭和六一年十月、韓国の婦人たちとの交流のため、「大分県婦人の船」が韓国釜山に向けて出発した。 私も五〇〇人を超す女性とともに名誉団長として乗船。釜山港では金周浩・釜山市長が歓迎会を開き、チ マチョゴリで正装された全徳淑・婦人会長をはじめ、婦人会の方々から心のこもったもてなしを受けた。(その後、韓国からの公式訪問団が相次ぎ、民間の動きも活発になった。
 韓国のプロ球団「ソウルOBベアーズ」が、平成三年、四年と続けて冬季キャンプを津久見市で行ってい る。市民球場では婦人七団体が交代で選手たちの昼食の世話をし、おにぎり、おでん、ぜんざいをふるま う。市内の商店、旅館、料飲業界では講師を招いて韓国語講座を開いたりと、市民をあげての歓迎だ。
 このほか、県内の市町村でも小中学生の日韓交流を行うところが多くなった。宇佐市は韓国南部の慶州 市と四年七月に姉妹都市提携し、十一月には慶州市の高校生が宇佐市文化祭に参加した。その慶州市に、 日田郡内四市町村が共同で「日田郡青少年の家」を建設している。杉のログハウス(二階建て、二二八平方 メートル)で五〇人収容。青少年の海外研修の場として活用するとともに、日田郡特産の杉をPRする。

 文化・経済交流が盛んになるにつれて、大分空港と韓国との定期航空路開設の動きが急ピッチで進んだ。 二年十二月、大分空港とソウル金浦空港との間に定期便を就航させようと、盧泰愚大統領に直接依頼した。 私は大統領室のテーブルに一村一品の地図を広げ、その精神と現状を話した。 「韓国は全人口の四分の一がソウルに集中し、地方は農業中心の所が多く疲弊している。ぜひ一村一品運 動を勉強したい」と希望を述べられ、心強い思いをしたものだ。そのかいあって、県民が待望していた大分−ソウル国際定期便が平成四年四月に就航。ソウルヘ週三便、大韓航空で一〇〇分のフライト時間は大 分−東京間とほぼ同じだ。これまでは大分から羽田、成田を経由しての世界への旅であったが、各国にネ ットワークを結ぶ大韓航空を利用すれば、早く、安く、しかも気軽に世界に飛んでいける。
 ソウル線就航を記念して、「豊かな地域づくり国際シンポジウム'92」を四年五月にソウル市で開催。 大分県側から地域づくりのリーダーら五〇人、韓国側からセマウル運動関係者など一五〇人が参加。 双方の地域づくりの事例を発表したあと、意見交換、交流パーティヘと移った。  次いで四年十月、大分県農業祭の開幕に合わせて韓国のセマウル運動家八〇名が来県。別府湾に係留 中のイギリス客船オリアナ号の船中で、一村一品運動とセマウル運動のリーダーたちの日韓国際シンポジ ウムを開催した。翌五年五月、今度はソウル市郊外の水原市でシンポジウムを開き、私も講演をした。

 マレーシアのマハティール首相は、「ルック・イースト(東方)」政策を提唱。特に日本人の労働倫理、 経営哲学に着目し、留学生や研修生の日本派遣、技術導入、学術・文化交流を進めてきた。平成三年九月、 ダトー・カティブ駐日マレーシア大使からの招待を受けた私は、マハティール首相と会見した。「大分県 の一村一品運動やテクノポリス構想に深い関心を持っています」との歓迎の言葉をいただいた。
 大分県は昭和五四年以来、マレーシアからの技術研修員を受け入れ、農業実践大学校や林業試験場など で六名が学んでいるほか、大分キヤノンでも、平成二年四月からキヤノン・カメラ・マレーシア工場の研 修生を受け入れ、これまでにのべ五三〇人が修了している。マハティール首相には、「東南アジア各国か らの技術訓練生を受け入れる"大分テクニカル・トレーニングセンター"を大分空港周辺に建設したい」と 説明した。首相も「大分での技術訓練を通じて地域間交流は一層深まる」と述べ、この構想を支援してい く姿勢を示してくれた。 「地域開発はマレーシアにとっても大きな課題である。特に首都クアラルンプールと地方との格差は途方 もなく大きい。マレーシアは、"ルック・イースト"政策をとっているが、なかでも地域開発に成功してい る大分県の手法を学びたい。"ルック・オーイタ"です」と言う。このときに、首相からケダ州との交流を もちかけられた。同州は首相の出身地、タイと国境を接する最北部の州である。人口約一三〇万人で大分 県とほぼ同じ。全産業のうち三八%を農業が占め、しかも米の生産量はマレーシア全土の四八%、マレーシ アの穀倉地帯になっている。私たちはそのままケダ州に飛んだ。
 オスマン主席大臣(州知事)との会談では、「すでにケダ州は州政府幹部四人を一週間、十一地区から各 一人ずつの農業従事者を一か月間、大分県に派遣することに決めている。いつから受け入れてくれるのか」 と催促された。いきなりのことでとまどったが、それだけ大分に対する期待の大きさがわかった。州政府 会議室で一村一品運動について講演したあと、ケダ州と友好交流覚書に調印。会場には新聞、テレビ陣も 大勢押しかけ、熱気が渦巻いていた。
 その年の十二月、マハティール首相は夫人と数名の随員を連れて非公式(つまり、お忍び)の大分訪問を した。夫妻はマイクロバスに乗り込み視察先に向かう途中で、農村であろうと、どこであろうとバスをと め話を聞いていた。大分の産業で自国でも導入できるものはないかと検討していたようだ。 まさに「日本を見習え」(ルック・イースト)の実践版である。マハティール首相はこれまでもしばしば非 公式に来日され、日本国内をつぶさに視察している。私にもマハティール首相の気持が痛いほどわかる。 大分県としてもできるだけの協力を惜しまないつもりだ。

 OECDでの講演からヨーロッパとの交流

 ヨーロッパと関係が深くなったのは、OECD(経済協力開発機構)に招かれてからのことだ。昭和五八年十月、私はパリに本部を置くOECDで開かれた「研究・技術及び地域政策に関するワークショップ(研修会)」 に出席して、「先端技術による地域開発と地方自治体の役割」と題して講演した。

 会議の目的は、先進二四か国の地域開発政策の新しい方向を検討するものであった。当時の世界経済は 長期化した不況と財政的制約のもとにあり、ちょうど現在の経済情勢と酷似していた。地域主導型で開発 を進めてきた私のもとに、テクノポリスと一村一品運動について話をしてくれないかとの要請があった。
 なぜ、大分県がテクノポリスを始めたのか−その地域的背景をポイントに熱弁をふるった。しかも英語 で話した。そのときにいちばん熱心だったのが南フランスのラングドック・ルション州。同州出身で、社 会党のジェラール・デルフォー上院議員がやって来て、「自分の故郷であるモンペリエ市でテクノポリス や一村一品運動を役立てたい。ついては、ラングドック・ルション州と大分県とで姉妹県提携を結びたい」 と、せっかちな申し出を受けた。急に申し込まれても準備もできておらず、「お互いに交流をしながら検 討していく」ということになった。
 翌五九年二月、南フランスのニース近郊にあるアンティーブ市のソフィア・アンティポリス開発協会の べルナール・イルシュ会長らが来県。ソフィア・アンティポリスは一九七〇年代から科学技術研究都市と して地域開発に着手しており、世界の一流企業七十数社が立地している。工場用地の半分は森林として残 すなど、自然との調和を大切にしていることで、豊の国テクノポリスとの共通点も多いことがわかった。
 その後、ラングドック・ルション州の親善視察団が来県したり、同州のギャプドヴィル州議会議長(フラ ンスには州知事はなく、州議会議長が知事の役割をする)らの視察団も訪れ、そのたびに「あなたに来ても らって、直接話をしてほしい」と、たびたび要請を受けていた。  昭和六〇年十月、モンペリエ市が市の発足千周年を迎え、記念行事として「日本の三日間」を企画し た。その記念講演者として私も招かれ、重ね重ねの要請にやっと応えることができた。モンペリエ市もソ フィア・アンティポリスと並んで、日本のテクノポリスにあたるテクノポール建設を進めている。
 農業とハイテク産業の調和、独自の文化都市づくりでも討論が行われ、地理的、経済的にも共通点の多 いことが指摘された。こうしたことから、「大分県とラングドック・ルション州との間の友好協力宣言」 に調印。双方のテクノポリス建設、農業、観光、文化など、あらゆる面で交流、協力することになった。
 友好協力関係を結んでからさまざまな交流が展開された。六三年九月、同州のジャック・ブラン州議会 議長ら、地方議会、経済界、研究機関の関係者ら三九人が来県し、大分市で友好シンポジウムを開いた。 このとき「1988大分宣言」を採択。同州は地中海でのムール貝養殖にみられるように、水産業も主産業に なっている。大分県南部ではマリノポリス構想を展開しており、その中心である海洋牧場は音と餌でマダ イを管理している。訪間団も興味を示し、大分宣言では、リゾート開発のみならず水産業やさまざまな産 業での交流、文化面の交流を続けることを誓い合った。
 平成元年十月、大分の農村婦人、農業高校の女生徒ら一七人が同州を訪れ農業研修を行った。二年十月には、同州との交流フォーラムを中心に「国際地域づくり週間イン大分'90」を開催した。また、南フ ランスのプラードは音楽家のパブロ・カザルスが毎年音楽祭を開いた場所として有名だ。そこでプラード 市長に要請したところ、パブロ・カザルス音楽祭'90 チェーンアンサンブル」の室内楽を大分県立芸術会 館で開催することができた。  三年六月、今度はラングドック・ルション州で開かれた「大分フォーラム」に参加した。このとき、地 中海に面したセトという町を訪ねた。この町はムール貝の養殖を中心に漁業で発展しており、海洋牧場の 話をすると、「大分のユニークな養殖技術を導入したい」と町長が熱っばく語っていた。首都から離れた 避遠の地で過疎に悩む町村長の心のなかは、日本もフランスも変わりがない。 「我々は独自の文化を持ち、独自の町をつくるべきだ。パリのペリフェラル(周辺部)であってはならぬ」
 かつてモンペリエで開かれたジャパン・ウィークでの、フレッシュ・モンペリエ市長のオープニングス ピーチの言葉だ。ペリフェラルとはコンピューター用語で「周辺装置」のこと。東京一極集中時代の日本 では、東京がコンピューターの本体。情報はすべて東京発で、地方は端末機と同じように情報の受け手に とどまっている。それだけに、「パリのペリフェラルであってはならぬ」という一言は私の記憶に今でも 鮮明に残っている。

 イギリスのサー・ジェフリー・ハウ外相の名セリフを紹介しよう。 「Tokyo is not real Japan(東京は本当の日本ではない)」
 その通りである。本当の日本を見たいなら、地方を見るべし。ハウ外相は外務省のアドバイスもあって 大分県を選んだ。昭和六三年一月、ヒースロー空港から成田へ、さらに羽田空港に車を走らせて大分空港 に−約十三時間かかって大分市までやって来た。まずソフトパークを視察し、東京と大分を結んだテレビ 会議を体験した。東京側の盛田昭夫ソニー会長が「近い将来、日本とイギリスを結んでテレビ会議が楽し めるでしょう」と呼びかけると、ハウさんと一緒に来ていたエルスペス夫人が、「そうなれば、こうして 大分に来ることができなくなるのでは……」と、ジョークで応じていた。
 湯布院町の日本旅館に滞在した翌朝、雪のちらつくなか、溝口武彦さん宅を訪れ、豊後牛を飼育してい る牛舎や、温泉熱を利用してミョウガを栽培している様子を興味深く見ていた。その農家で一村一品の活 動家四人とじっくり懇談。エルスペス夫人はイギリスで地域づくりを実践しており、こうした大分の取り 組みにも興味が湧いたようだった。 「イギリスでも、農業は家族でするもの」とハウ外相。「世代から世代へ技術を受け継いていくことが大 切。新しい技術を修得し、農業に付加価値をつけることはなお大切だ」との意見に、一村一品運動のリー ダーもしきりにうなずいていた。それにしても、仏壇の前の座席にぎこちなく正座したハウ外相の姿は絵 になった。
 ハウ外相はイギリス南部、ウェールズ州の出身。その場でウェールズと大分県とのビジネスマン交流が 決まった。平成二年四月、ウェールズの若手ビジネスマン一二人が来県。十月には大分県の若手ビジネ スマンをウェールズに派遣した。
 その後、双方で「大分フェア」「ウェールズフェア」を開くことが決まった。三年十月、「大分フエ ア」をウェールズの州都カーディフ市で開催。大分県からは野津原町の少年神楽十四名の一行も参加し、 開会式に彩りを添えた。ウェールズ地方はウェルシュ(ウェールズ語)という独自の言語を持ち、かつては 炭鉱地帯として栄えたが、その後エネルギー革命とともに衰退した。今日では日本企業が四〇近く進出し、 ハイテク産業を中心に目覚ましい発展をとげている。カーディフ市にあるアトランティック大学は国際色 豊かな大学で、世界各国から学生が勉強に来ている。そこで「一村一品運動と地域活性化」について講演 した。  翌四年十月、ハント・ウェールズ担当大臣、同夫人を迎えて、大分市で「ウェールズフェア」を開催 した。ウェールズ地方の「ラブスプーン」(愛のサジ)などの特産品を展示販売したり、革製品の加工製作 実演、バグパイプやアイリッシュハープの演奏など、会場はウェールズ一色に塗られた。
 ウェールズはラグビーの本場だ。そこで、ハント大臣に高校ラグビーを派遣してほしいと要請したとこ ろ、早速、ウェールズ地方でトップの座にあるニース高校ラグビーチームを派遣してくれることが決定。 わがほうは全国優勝の伝統を持つ大分舞鶴高校を中心に、県高校選抜チームを編成して対抗試合をするこ とになった。結果は本場のラグビーチームが七一対十で圧勝。しかし、ニース高校のトレビルコック校 長は試合後、感激した面持ちで、「大分舞鶴高校の男女二名を本校に留学させてもらいたい。費用は当方 でもつ」と申し入れがあった。ローカル外交は地域づくり運動だけではなく、こうして高校生同士の交流 にまで広がってきた。
 ハウ外相の大分訪問がきっかけで、外務省も、外国首脳が来日する際にはなるべく地方を案内するよう になったそうだ。東京だけ見てはいけない。地方にこそ本当の日本がある。これからは世界のトップリー ダーもどしどし地方まで来て、本当の日本の姿を見てもらいたい。私は大分のローカル外交に貢献した外 国人を顕彰する「外国人名誉県民証」制度を創設し、ハウ外相にその第一号を贈った。

 ヨーロッパとの交流が深くなった昭和六一年頃、駐日EC委員会ロレンス・ヤン・ブリンクホルスト大使 から、大分EC協会をつくってほしいと依頼があった。EC(ヨーロッパ共同体)は今でこそ国民の間に知らぬ 人は少ないが、当時はまだECという言葉も耳新しい時代だった。  そこで、まずECへの理解を深めるために、駐日EC委員会と県が共催して大分ECウィークを開催し、EC加 盟十二か国の青年、婦人が参加した。
 好評だったのが「味の国際交流」であった。別府市にある「大分県農村婦人の家」では、EC各国の婦人 と県内の農村婦人が自慢の郷土料理を作った。ドイツ風まんじゅう、スペイン風オムレツ、アンダルシア 風冷しスープなどがいっぱい並ぶ。材料はカボスなど一村一品をふんだんに取り入れている。大分のだん ご汁にECの女性も挑戦した。小麦粉を練り、長く伸ばす。さまざまな言葉が飛び交うなかで、次々に作り 上げていった。
 ECウィークのなかで、EC側からEC協会設立が正式に提案された。昭和六三年十月、全国のトップをき って大分EC協会を設立。このときの駐日EC委員全代表はオランダのアンドレアス・ファン・アフトさん。 オランダ首相を務めた経歴を持っている。
 オランダは世界最大の花卉生産国で、巨大な市場を持っている。県下の花卉生産も伸びて移り、新しい 一村一品として期待が大きい。そこで「大分の花卉生産農家をオランダに派遣したい」と話すと、快く応 じてくれた。オランダヘの技術研修は毎年続き、平成四年で六〇人になった。六三年五月には、大分県EC 訪問友好使節団三六人がEC議会をはじめヨーロッパ五か国を訪問した。
 EC本部はべルギーのブリュッセルにあるが、EC加盟国から選挙された議員が集まるEC議会は、ドイツと の国境に近いフランスのストラスブールにある。EC議会議員の数は五一五人。十二か国から直接選挙で選 ばれた議員が、ヨーロッパ問題を討議する場になっている。折しも、市場統合に向けての諸問題が審議さ れている最中で、「地域間の協調と競争」がどう展開されるのか興味があった。 議会のなかば市場統合を実現させようという熱っぽい空気に満ちていた。
 このEC議会をヒントに、現在私は九州府構想を提案している。ECでは歴史、民族、文化の異なる国々が 自らの主権を放棄して、単一市場、単一通貨に向けて一大ブロックを形成しようと努力している。
 同様に九州においても、国の出先機関を統合して九州府をつくり、九州府長官には政府の次官クラスを あてる。長官をコントロールする機関として、地方公共団体代表、経済・農業団体代表、学識経験者など 各県五人程度で構成する「九州議会」を九州府に併設してはどうか。九州のことは、東京に行かなくても、 九州ですべて解決できるようにするのである。こうすれば、かって提唱された「道州制」のように、上か らの中央支配の恐れはなくなる。
 東京は大きな磁石である。この磁石に引きつけられぬためには、地域が連合し、東京にはないユニーク な経済圏を構築し、東京に負けない磁石をつくることだ。地域には水資源問題、交通通信問題、産業廃棄 物の処理問題など、県境を越えた課題が山積している。「九州は一つ」を進めるためにも、各県は自らの 主権を制限して、県政を超えた課題に対応すべきである。ECの努力は参考になった。

 アメリカとのローカル外交はテキサス州から

 日本の経済界でテキサス州に進出している会社や関係のある企業と、テキサス州にあるアメリカの会社で 日本に進出している企業(例えば、大分県日出町に立地しているテキサスインスツルメントはIC製造工場と して有名だ)や、日本に関心を持つ企業との間で、日本テキサス会議が開かれている。 日本とテキサス州で毎年交互に開催されるが、日本での開催地は東京か京都に限られていた。日本側の世 話役である昭和電工の鈴木治雄名誉会長に、「たまには地方で開いたらどうか」と提案したところ、快諾 していただいた。
 昭和六二年九月、第十四回日本テキサス会議が湯布院町の「山下の池」のほとりで開かれた。テキサス 州側がエルパソ銀行のドハティー会長以下九三人、日本側が鈴木会長以下一十七人の総勢二一〇人。「日 本と米国経済の見通し」「ハイテク分野における産学共同と日米協力」「日米投資交流」等を議題に、終 日問題提起が行われた。日米貿易摩擦がらみでジャパン・バッシング(日本たたき)が激しくなっていた時 期だけに、「海を越えた人と人との交わりの大切さ」を改めて思い起こさせる会議でもあった。
 テキサス大学の幹部との懇談会の席上では、学生や研究者の相互交流をはかることを約束した。平成四 年までにすでに五回、夏休みに大分の高校生が毎回一〇〇人、テキサス大学オースチン校のキャンパスで 学び、アメリカ文化を体験している。一方、テキサス大学の大学院生は平成二年から毎年、大分県庁で地 方行政の研究に携わっている。五年五月にやって来たのは、ハイディ・ロペスセペロさん。大分県の主要 プロジェクトや一村一品運動を学んだのち、地元企業や商工会議所で日本企業の経営や日本の流通機構に ついても学んだ。
 大分には一村一品運動などの”進取の精神"がある。一方、テキサス州からはブッシュ、べーカー、ベン ツェンといった大物政治家が出ていることにもみられるように、「テキサス塊=Can do spirits(なせばな る精神)」がある。双方とも首都から離れた辺境の地にあり、地域活性化には真剣だ。お互いが一つのビジ ョンに向かって取り組めば、できないことはない。
  ロサンゼルス市長から「一村一品デーを決めました」という報告を受けたのは昭和六三年のこと。 トム・ブラットレー市長は当時四選目。かつてのLA(ロサンゼルス)市警時代は健脚刑事として鳴らし、「 泥棒がブラットレー刑事の姿を見つけると、三ブロック先でもとまって観念した。どうせ追いつかれ捕ま るから(城山三郎著『プロフェッショナルの条件』)」といわれた人だ。この年には行けなかったが、翌平 成元年にロサンゼルス市を訪れた。このときは、十月七日の「On Village, One Product Day」の前日に リトル・トーキョー広場で「大分一村一品フェア」を開いた。
 私はオープニングスピーチで、「Seeing is believing(百聞は一見にしかず)というが、まさにEating is believing(食べることは信じること)だ。よく大分の味を賞味してほしい。味に国境はない。食文化を 通じて地域の交流をしよう」と呼びかけた。 会場にはシイタケ、カボス果汁、竹細工など自慢の一村一品八三品目、一万三〇〇〇点を展示した。 カボスやシイタケ加工品、醤油、タケノコ、真珠製品が人気を集めていた。焼酎のコーナーでは「カボス を絞り、お湯割りで呑むとうまいよ」とセールスした。
 ブラットレー市長がなぜ大分の一村一品運動に着目したのか。直接、市長に確かめてみた。 「アメリカには世界各国の人が集まっている。それぞれの国の特産品が市民に愛されるのはすばらしいこ とだ」と言う。市長は特産品によって民族の誇りを復活させようと考えたのである。  大分一村一品フェアで起こったハプニング、ブラッドレー市長への綱引き挑戦状事件は先に述べた。ブ ラットレー市長も一瞬とまどったようだが、かつて陸上選手としても鳴らしたスポーツマンだけあって、 「挑戦を受けよう。ロサンゼルス中の力自慢を集めてくる」と、若者の熱意に応えてくれたことが嬉しか った。
 平成二年の「一村一品デー」は十月六日であった。この日、ロサンゼルス市郊外で「一村一品アンテ ナショップ」がオープン。農水産物加工品五三品目、約三〇〇〇点を並べた。別府市の女性太鼓チーム「 豊後くれない太鼓(三浦千恵子代表)」が、オカメとヒョットコの踊りも交えて景気づけの演技を披露した。 前年約束した綱引き大全に出場する大分県チーム一〇〇人も会場にかけつけ、一村一品の売り込みに一役 買った。
 男の意気に感じたトム・ブラッドレー。黒人として初めてアメリカの主要都市の市長になり、二〇年間 にわたってロサンゼルスのかじ取り役を務めてきたが、平成五年七月に引退した。女性や黒人、アジア系 市民を積極的に登用したり、低所得者用の住宅建設など、リベラルな政策で高い人気を保っていた。初の 民営五輪も成功させた。引退後はカリフォルニア州の弁護士事務所で働くという。これからも友人として 教えを請いたいと思っている。     ロシア発「日出ずる国」との交流宣言

 「ロシア共和国閣僚会議の名でロシア共和国に招待します。期間は一週間、人員は六名程度、滞在費は 当方でもちます」 平成二年二月、こんな招待状が突然舞い込んだ。まだソビエト連邦であったときのことだ。ロシア共和国 は面積一七〇〇万平方キロ、人口一億四八○〇万人。沿海州からモスクワ、レニングラード(現サンクトペ テルブルク)を含む広大な共和国である。ソ連が国家として招待するのではない。ローカルなレベルでの話 で、大分県にとっても有益だと判断した。
 きっかけは、当時の政府機関紙「イズベスチア」が「資本主義競争社会の突撃隊員の話」という見出し で、一村一品運動を紹介したことだ。続いて、ソ連国営テレビが全国に放映するという熱の入れようであ った。
 平成二年六月、私をはじめ農村青年、経済界代表などの訪問団一行は、シュレメチェボ空港に初めての ソ連訪問の第一歩を印した。空港にはチチカノフ・ロシア共和国閣僚会議副議長が出迎え、滞在中の日程 を説明してくれた。「最終日にはエリツィン議長とも対談を用意してあります」と言う。同行の記者団は、 エリツィンが議長となって初めて西側の人と公式会見すると聞いていろめき立っていた。
 モスクワからサンクトペテルブルクヘ。レニングラードといった方がなじみがあるに違いない。大分県 出身で戦前は「軍神」といわれた広瀬武夫中佐が、駐在武官として多感な青年時代を送った町。 今でも昔のままの静かなたたずまいであった。  レト(夏)という国営農場(五四ヘクタール)を訪問したときのことだ。ここではガラスを使った温室栽培 でトマトやキュウリ、ピーマンなどを作っていた。労働者には収穫に応じて月給を払い、一人当りの平均 月収は三〇〇ルーブル(当時は約七万八○○○円)。国営農場のなかでは収入の多いほうだ。  農場関係者と意見交換したときに、訪ソ団の一人で山香町でヒラタケを栽培している佐藤紳一さんが「 六〇〇平方メートルで年間六〇〇〇万円の収益をあげている」と言ったところ、会場は騒然となった。 「六〇万平方メートルの間違いじゃないか」 「何人でそんなに収益をあげているのか」 「技術のノウハウは教えてもらえるのか」と、次々に質問が出た。
 一つずつ答えていると、農場長のライサ女史がサッと私の手を握って、「早速この青年と合弁事業を進 めたい。この握手は調印だ」とまくしたてる。 「ただ合弁して技術を導入してもうまくいかない。大分に来て、"やる気"の精神をよく学んでほしい」と 答えたが、とにかく現状を打開したいという意欲は強烈に感じられた。
 ソ連の経済混乱のなかで、収穫作業の組織化が遅れ、資材、機械の補給や都市住民の援農活動が途絶え た。生産性の向上に最も必要なのは労働者の"やる気"である。自分たちがいくら一所懸命に働いても、儲 けが国に持っていかれるようでは働く気にならない。ロマノソフ国営陶磁器工場は二〇〇〇人の従業員の うち八割が女性で、イダ工場長も女性。しかし、何といっても工場が古い。ロマノフ王朝時代にできたと いうから、歴史博物館にしてもいいほどだ。設備が老朽化しているから若者に人気がなく、労働力は不足 している。 「外貨は連邦政府に吸い上げられ、設備の更新もできない」と、イダ女史はこぼしていた。 「政府幹部に会ったら、外貨を還元するように言ってほしい」と、逆に陳情を受けて面食らってしまった。  かっては声をひそめなければ語れなかった政府や党に対する不満や批判が公然と出てくる。ペレストロ イカが末端まで浸透していることがわかった。しかし、政府や党が生産現場の改革に熱意を持っていない わけではない。地域経済を活性化する方法論として一村一品運動に注目したのは、むしろ党、政府のペレ ストロイカ推進派なのである。  エリツィン議長との会見のために最高会議ビル四階の執務室前に行くと、チチカノフ副議長が困ったよ うな顔をしていた。「エリツィン議長はクレムリン内の会議室で、ソ連政府とロシア共和国との権限配分 をめぐって大議論をしており、会議場から抜け出せないので会見は不可能になった」と言う。  すでに会見のニュースを流している記者諸君ともども、「ぜひ会見を実現してほしい。飛行便が遅れて もかまわない」と強談判に及んだ。我々の見ている前でチチカノフ氏がクレムリン(らしき所)へ電話する が、どうもラチがあきそうにない。とうとうエイリツイン会見は幻に終わった。  六月七日、大分県とロシア共和国との間で「友好と協力に関する共同声明」に調印した。産業や文化な ど、幅広い分野で交流することを誓った。サインをしたのはチチカノフ副議長であった。 「今日の閣僚会議でロシア共和国の自主権が認められた。この記念すべき日に"日出ずる国"日本の大分県 から平松守彦知事がやって来た。共和国として公式の調印第一号です」  ソ連でも中央集権から地方分権への歩みが始まっている。その言葉に感激して、私たちは堅く抱擁し合 った。
 ディクソル全ソ脊髄・小児マヒ・リハビリセンターを訪ねた際、大分県で行われている国際車いすマラ ソン大会に初めてソ連からの選手が参加することが決まった。この年の十一月、第十回記念大会にシ ルキン、プストビツト両選手が出場。それぞれ二時間四分一八秒、二時間三一分二二秒と、立派な成績で あった。翌年の第十一回大会には五人が参加。ソロベンコーバ選手は女性だが、二時間五三分四二秒で見 事にゴールした。 「"アリガトウ""サヨナラ"それに"ガンバレ"という日本語を覚えました。応援が嬉しくて完走できました」 と、息を弾ませながら話していた。
 ロシア共和国との友好協力の一環として、三年二月に同国の女性リーダーが来県した。ロディムツェバ・ クレムリン国立博物館館長、スタロボイトバ・ソ連邦最高会議兼ロシア共和国最高会議代議員ら四人であ る。 「ソ連は経済基盤の改革をめざしておりそのため農地を個人所有に戻し、新しい農業形態を奨励すること になった。大分の農村の経験を学びたい」とスタロポイトバ女史。こちらは、榎本弥生・県農村婦人組織 連絡協議会会長が、農産品に付加価値を高めるための加工品づくり、組織づくりについて意見を述べた。  ロシア共和国を訪れた翌年の平成三年八月に、ロシア共和国のイワン・シラーエフ首相が来日すること が決まり、その第一歩を大分にするということで先遣隊が来県したことがある。大分県とロシア共和国と の間で公務員を交流することや、ロシア共和国内の特定市と大分の町村とで地域づくりの交流をすること など、共同声明を発表することにしていた。
 その一行が大分空港に到着予定の八月二〇日の前日、ソ連にクーデターが起こりゴルバチョフ大統領が 失脚。ソ連邦の解体、エリツィン・ロシア共和国大統領の誕生といラトラマチックな事件が相次いで起こ り、この共同声明もまた幻に終わった。
 実は、シラーエフ首相来県の際にロシア共和国への提案を用意していた。「ロシア共和国の特定地域に 自由主義体制に近いフリーゾーンを設定し、大分県との間で農業、中小企業の人的交流による活性化など を進める」というものであった。地域間交流は息の長いものロシア共和国との交流はこれからだ。
 平成二年七月、大分県竹田地方を襲った水害は死者五名を含む大きな被害をもたらした。即座にエリツ ィン議長から丁重なお見舞いをいただいた。災害本部で陣頭指揮をとっていたときだけに、たいへん嬉し かった。このあとソ連が崩壊。ロシア共和国が一つの国として独立したものの、経済混乱が続いている。 三年の年初、食糧危機に直面しているロシアの窮乏を救おうと県民に呼びかけ、県民からの救援寄金二二 〇〇万円が集まった。ところが、いざ食糧品を送ろうとしても、輸送費に一〇〇〇万円近くかかることや、 ソ連国内の混乱で、発送した荷物が確実に届くかどうかわからないということで送れずにいた。
 こうしたなかで四年七月、ストロボイトバ女史や、ロシア外務省からの報告を聞いたというロシア共和 国の女性協会「レディース・リーダー」から、大分県の女性リーダーを招請する手紙が届いた。
 これに応えたのが五年六月である。三浦タカコ団長(県地域婦人団体連合会長)ら一二人がモスクワ、サ ンクトペテルブルクを訪ねた。「レディース・リーダー」との交歓会のあと、「ロシア共和国と大分県の 婦人交流プログラム覚書」に調印し、双方の幅広い分野にわたっての親善交流を約束した。県民からの寄 金で購入した医薬品やベビーフードを国立中央病院に届けることもできた。 「北方領土問題」という重い荷物が背中にあって、国家間外交は冬の季節を迎えている。だが、地方と地 方との地域づくりノウハウの交流や、バレエなどの文化交流はこれからもますます活発にして、相互理解 に役立てたいと思っている。そのことが、国交正常化を進めるうえでも大きな力になるのではあるまいか。

 おわりに

 地方からの情報発信について具体例をあげながら述べてきた。そのポイントは三つに絞ることができよ う。
 第一に「しかない」文化の創造、「しかない」情報の発信である。その地方にしかない文化を築き、そ の地方にしかない情報を出すことである。アイデンティティとは自分と他人を区別すること、その地方な らではの情報を自分でつくることだ。車いすマラソン大会にしても、一村一品運動にしても、湯布院の町 づくりにしても、すべてクリエイト(創造)したものだ。無から有が生じたのである。知恵をしぼり、潜在 力を掘り起こして、みんなが注目するようなパフォーマンスをつくり出していくことだ。
 第二に「繰り返す」こと。私は「継続は力」とよく言っている。ただし、同じことの単純な繰り返しで は飽きられる。常に増幅し、共鳴現象を起こさせること、説得性と普遍性を持った繰り返しが大事である。 一村一品運動とはカボスやシイタケや焼酎を作るだけではない。一村一品運動を徹底すればするほど一村 一文化、一村一スポーツヘと展開していくことになった。
 さらに平成五年からは「一村一風運動」を提唱している。会社には社風、学校には校風、家には家風が あり、それぞれの伝統や誇りがある。同じように、町や村にも風格があっていい。ほかにない独特の風格 をつくってほしい。
 一村一風運動のもう一つの特色は、風通しのよい町づくりである。各町村が連合して社会資本の整備に あたるのだ。なにも、すべての市町村に立派なスポーツ施設や文化施設、リゾート施設を設置すべきもの でもない。市町村の特色に合った施設をつくって、周辺市町村と機能を分担すればいい。圏域の中心には 魅力ある商業地域を形成し、周辺にスポーツ施設を整備するといった、新しい経済圏、生活圏、文化圏を 構築して、有機的な連合体をつくるのだ。これが新しい「風おこし運動」である。
 しかし、基調となる低音は変わらない。「自分の住む地域への愛着」だ。愛がなければ地域おこしもな い。バックボーンをしっかり固めて、運動を増幅させることが大切だ。同時に、常に新鮮でなければなら ない。みんなの目を引きつけるフレッシュさがないと、情報は流れない。
 最後に「情報を流す人」である。一村一品運動も究極の目的は人づくりにある。私がひとりで一村一品 運動をやっているわけではない。県の広報誌を担当している広報マンが「豊の国づくり塾」をスタートさ せ、県下に地域づくりのリーダーをたくさん誕生させた。吉四六さんが生まれた野津町では、日本一の笑 いを生み出している吉本興業に町役場の職員を出向させた。イベントの企画を勉強したり、営業活動につ いてまわったりして、急成長した吉本興業の舞台裏を学んできた。
 焼酎をヒットさせた三和酒類の西社長も情報発信力を持っている人だ。湯布院町の溝口薫平さん、中谷 健太郎さんもそうだ。うまく仕掛けのできる人、情報発信力を持った人がその地域に何人いるか、感性を 持った人がどのくらいいるかが重要である。世界に情報ネットワークを築くことのできる人をつくる。情 報化とは個人や地方の多様性を育てることだ。情報発信力を持った地域が集まれば、本当の民主主義が生 まれる。
 これからは各地域のCIの交流、豊かさの交流が求められている。都市のCIと田園のCIが互いに求め合い、 行き来する。そのたびに地域のCIがさらに磨かれる。自分たちはここで生きるんだ、この町を良くするこ とが自分の生涯を豊かにするんだという自覚一それが地域おこしの成功のカギではあるまいか。  おわりに、本書の執筆にあたり多くの方々から協力を得た。また、NHK出版の木村手旗さんからも貴重な アドバイスをいただいた。感謝したい。

                            平成五年十一月
                             平松守彦


●著者紹介 平松守彦(ひらまつ・もりひこ)
1924年大分市に生まれる。
1949年東京大学法学部卒業、商工省(現通商産業省)入省。
通商産業省産業公害、輸出保険、石油計画、電子政策、 基礎産業局総務等の各課長を経て国土庁官房審議官(地 方振興局担当)等を歴任
1975年大分県副知事就任 1979年大分県知事に当選就任、現在4期目
1991年九州地方知事会長就任。
●主な著書
「一村一品のすすめ」(ぎょうせい) 「テクノポリスヘの挑戦」(日本経済新聞社) 「東京で出来ないことをやってみよう」(文春ネスコ) 「グローバルに考えローカルに行動せよ」(東洋経済新報社) 「地方からの発想」(岩波暮店) 「一身にして二生」(新潮社)
わたしの地域おこし 地方のCI戦略 1993年11月30日 第1刷発行 著者 平松守彦 ◎1993 Morihiko HIRAMATSU

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