第五章 イベントを成功させるには

熱走のドラマ−「大分車いすマラソン大会」

 地域にCI効果を生む例として、イベントの成功がある。しかし、どこにでもあるようなイベントではCI効果は生まれない。マスコミに評価され、全国ニュースに取り上げられることで、地域に与えるインパクトも大きくなる。ここでは、これまでに全国ニュースに取り上げられた事例を紹介しよう。

     汗が目に入り、前が見えない。
     車輪が進まない。
     何人から追い抜かれたのか、
     数える気力もおこらない。
     じっと目を閉じる。
     「もうダメだ……」
     そのときに、
     「ガンバレ、ガンバレ」の声援。
     一ストローク。一ストローク。
     私はもう一度、力を振り絞って車輪をまわしている。
     遠いゴールめざして。
                 (大分県広報誌「Let's Love Oita」から)  

 毎年秋、大分で開かれる「国際車いすマラソン大会」。最高記録はスイスのハインツ・フレイさんが 平成五年十月三一日に出した一時間三四分三五秒。バルセロナ五輪マラソン優勝の黄永祚選手(韓国) のタイム二時間十三分二三秒と比べると、車いすの方が三八分以上も速い。 「車いすだから」と思う人は、一度自分でやってみるといい。私も五〇メートルほどこいでみたことが あるが、よほどの腕力がないとうまく前には進めない。選手たちの腕は太く、肩の筋肉は盛り上がって いる。ゴールインするときは、車輪を強くこぐため手に巻いた白い布が血で赤く染まり、手袋は摩擦で ボロボロだ。 「身体障害者にスポーツを!」
 今でこそ抵抗も少ないが、この革命的な考え方を日本で果敢に実行した人は、障害者福祉工場「太陽 の家」の創始者、故中村裕博士である。 「身障者を患者としてでなく、健常者と同じようにスポーツをやらせると、十人中八人が半年の治療と 訓練で社会復帰できる」  ロンドンの国立脊髄損傷センター病院長からこの語を聞いて、身障者の機能回復にスポーツを取り入 れようと決意した。昭和三六年、身障者体育大会を初めて大分県で開催。「気まぐれ者の医師が身障者 と遊んでいる」と評されたが、ひるまなかった。
 三九年、パラリンピック(国際身障者スポーツ大会)が東京で、五〇年六月には第一回フェスピック( 極東南太平洋身障者スポーツ大会)が大分で開かれた。その推進力になったのも中村博士だ。さらに五 六年、「国際障害者年」を記念して「国際車いすマラソン大会」を大分でやろうと提案する。 「車いす競技は危険が多い」と異論が続出したが、私はすべてを博士の情熱にゆだね、実施を決めた。
 昭和五六年十一月一日、第一回「大分国際車いすマラソン大会」は、風光る秋晴れの日であった。 十三か国の外国選手四三人を含む総勢一十七人が並ぶ県庁前。私はスターターとして臨んだ。選手一人 ひとりが人種の違いを超えて、おのが可能性の限界に挑戦しようとする意欲にあふれ、瞳の色こそ違え、 眼差しはギラギラと燃えていた。私はその一瞬、号砲の引き金を引いた。 第一回ということもあって、コースは普通のマラソンの半分の二一・〇九七五キロメートル。力の限り 力走するあのたくましい両腕は、健常者が四二キロをひた走るときの健脚の力強さに劣るものではない。 沿道に並ぶ人と走り続ける選手がいつしかひとつになって、熱い心の交流と感激の湧き立つレースであ った。
 閉会式では、世界で初めての大会にふさわしい熱と力と根性のレースと、自信と友好親善が生まれた 輝かしい成果をたたえるとともに、選手たちの今後の幸せを心からお祈りした。思えば、障害者はスポ ーツのできる人ばかりではない。人生を暗い気持で過ごし、精神的にも挫けそうになる方も多いと思う。 そういった人たちも、この選手と同じような不撓不屈の精神で、残された機能を活かして人生に挑戦し てほしいと願う。 「大分国際車いすマラソン大会」は、参加者からの強い要望に応えて、五八年の第三回からフルマラソ ンの部も設けた。国際ストークマンデビル公認の世界大会として、年々参加者が増え発展していった。  大会のスターは優勝した選手ばかりではない。アメリカからハーフマラソンに参加しているマキシム ・ローデスさん。第六回大会以来、毎年参加している。平成五年の第十三回大会のときには八○歳。 もちろん最高齢である。平成五年の第十三回大会ではハーフマラソン出場者二二九人中の一八三位。 記録は一時間三四分五三秒と立派なものだった。 「挑戦するかぎり、私は青春のなかにいる」
 マキシムさんが述べた高らかな青春メッセージは参加者に感動を与えた。大分にはたくさんのマキシ ム・ファンがいる。
 大会が成果をあげているのはボランティアの協力によるところが大きい。その一つ、「大分イングリ ッシュスピーキング・サークル」は戦後すぐの発足だ。大分で最も古い英会話グループのひとつ。 メンバーは高校生から七〇歳代までの一〇〇人。このサークルが、選手や役員の来県したときから通訳 を買って出てくれる。世話をするうちに情が移るようで、競技が始まるとその選手を必死に応援する。 ゴールにたどり着いたときには、二人とも涙を流しながら抱き合っている。その光景は見ている者まで 感動させる。高校や大学を卒業したり、転勤して大分を離れることになっても、車いすマラソンがある と大分に戻ってくる。感動が忘れられないからだ。
 後藤恵子さんはサークルの世話役として、第一回大会から通訳として頑張ってくれている。これまで お世話した多くの人との文通がずっと続いている。サークルのなかで最高齢は奥川寿美子さん、七二歳。 是石典子さんは足が不自由だったが、中村博士の手術を受けて成功し、歩けるようになった。 身障者のために尽くしている中村博士の姿に共感し、以来、通訳ボランティアに参加している。親身に なって世語をしたからであろうか、ボランティアと選手とが文通しているうちに、結婚にゴールインし た人もいる。大会の人気もの、マキシム・ローデスさんもボランティアとの恋を実らせた一人である。
 さまざまな感動のドラマを生んだ「大分国際車いすマラソン大会」。競技の結果だけではなく、温か な交流を含めてその模様が全国に発信される。

 豊後牛が日本一に−全国和牛能力共進会

 牛にもオリンピックがあることをご存じだろうか。何も牛が跳んだりはねたりするわけではない。 五年に一度、全国和牛能力共進会が開かれ、日本の和牛の代表が発育、体型、産肉能力を厳しく競い合う もの。すでに五回開催されていたが、六回目を平成四年十月一日から五日間、大分県湯布院町の塚原高 原で開いた。
 大分県は年どころだ。豊後牛を一村一品運動に取り上げている市町村は二一もある。最近では市場の評 価が非常に高くなった。以前、私は売り込みのために東京市場のセリ台にも立ち、「豊後牛をよろしく」 とやったものだ。全国レベルの大会は国民体育大会をはじめいくつかあるが、とりわけこの全国和牛能力 共進会は、「年どころ・大分」の面目をかけても早期開催にこぎつけたいところであった。
 大分県誘致に動いたのは昭和六〇年にさかのぼる。六二年の第五回大会はすでに島根開催が決定してい た。県のほかに、経済連や農協中央会、生産者組織も一体となって関係機関に働きかけ、一か所ずつ、そ して一人ずつ同意を得ていった。
 島根大会理事会で、次回開催県を「大分」に決定していただいた。しかも、牛肉の輸入自由化後の初め ての大会。そこで、大分大会のテーマを「国際競争に打ち勝つ和牛生産」とした。牛のオリンピックは生 産者の励みになるが、一方で消費者にも和牛のよさを知ってもらわなければならない。和牛能力共進会と 同時開催で「アクロフェスタ(交流の祭典)'92in大分」を開くことにした。いわば、和牛の生産と消費の一 石二鳥を狙ったものである。
 地元での開催だけに、畜産農家は並々ならぬ決意で取り組んだようだ。特に私は畜産農家を指導する県 畜産試験場に、「全力を尽くし、年どころ・大分の名前を広めよ」とハッパをかけた。前回の島根大会で 「優勝間違いなし」といわれた牛が、大会直前に病気になり、最下位になってしまったという例もある。
 大分大会には全国から六三六三頭の出品申し込みがあり、三回にわたる選考を重ねた結果、最終的に二 六八頭が湯布院・塚原高原に集められた。 大分からは全国でいちばん多い二七頭が最終選考に残った。今回の大会から審査基準に「栄養度」が加え られた。牛肉の輸入自由化を考慮してのことだ。これまではエサの与えすぎによる栄養過多がみられたう え、国際競争に打ち勝つためには低コスト生産が大きな課題であった。厳しい審査の結果、若牡の部で大 分の「糸姫」が見事に最高の農林水産大臣賞を勝ちとった。
 育成にあたった畜産試験場の研究員は、審査前の二か月間、それこそ朝六時から夜九時まで「糸姫」に つき添った。審査当日は午前三時から、運動、エサの食い込み、マッサージと、最後の追い込みをかけた。 こうした努力が報われたのだ。出産後から「糸姫」を育てた朝比奈さん夫婦も、「病気をしない元気な牛 で、手がかかりませんでした。 素質はあると思っていましたが、息子のような『糸姫』がまさか大臣賞を受けるなんて、夢みたい。 豊後牛の名声を高めることができて嬉しい」と、一緒に喜んでくれた。あとで聞いたのだが、牛につき添 った研究員は「家族に不幸があっても帰れないという覚悟で頑張った」という。これには私も感動した。
 この大会で目をひいたのは、出品者のなかで最年少の中村光宏君(十歳)。小さいときから牛の世語を してきただけあって、優等賞に入ったときには大喜びで、会場を沸かせた。 一方、「アクロフェスク(交流の祭典)'92in大分」では、参加者が楽しみながら学べるようにさまざまな 趣向を凝らした。「ミートピア館」では、マスコットの「ぶん大君」と「MOMOちゃん」が出迎え。肉料理の試食コーナー、 食肉加工品展示コーナー、それにミートステージではジャズダンス、料理トークショーなどを開いた。「世界の牛展」では、世界の珍しい牛に、消費者ばかりでなく畜産関係者の関心も高かった。「豊の国ミルキーランド」はチーズフェア。各種チーズをはじめ、ミルクシェイクや牛乳で作った寒天入 り杏仁豆腐、ケーキなどを展示。消費者相談コーナーでは栄養士が相談に応じていた。「畜産新技術展」では、受精卵の分割や精区別、コピー牛など、遺伝子操作を取り入れた高度な技術を会 場で実演した。イベントホールでは和牛研究会や大分の郷土芸能大会、ラテン音楽やアフリカ音楽の公演。 ワールドバザール・コーナーには世界一九か国の特産品、民芸品がどっさり並び、女性客を集めていた。 チビッ子たちの間では、ふれあい動物ランド、乗馬などに人気が集まった。大分の味コーナーには長蛇の 列。豊後牛の焼き肉は圧巻であった。
 大会期間中の入場者数は六一万人。無論、それだけの人が入場するためには、イベントの企画そのもの に魅力がなければならない。ターゲットをどこに絞るか。単に畜産農家に競わせるだけのイベントであれ ば、大きな波及効果は期待できない。ターゲットは女性と子どもだ。休みの日にどこに行こうか、家族の 中で実権を握っている人にターゲットを絞る。そうすれば、父親は運転手がわりについてくることになる。
 次にPR。広告塔や看板の設置、ポスター、テレビやラジオのスポットはよくやる手だ。それ以外に無料 で広報できないか------そこが知恵の出しどころになる。いかに情報発信の手段を探すかである。 例えば、大会期間中の会場での案内や、全国各地への宣伝隊として働いてもらラコンバニオンを全国から 募集した。そうすれば、募集案内の段階から共進会のニュースが流れる。審査風景やコンパニオンの決定 発表段階を追った情報戦略が展開できることになる。  マスコットのネーミング募集も同じことだ。全国から一〇〇〇通を超える応募があった。大分の畜産紹 介ビデオも制作して、取材に入ったときから情報を発信。さらに、全国和牛共進会のテーマソング『この 星に生まれて』を作成して、CDに歌入りとカラオケを吹き込み、全国で発売した。同時に、大分県庁の昼 休みにテーマソングを流した。
 湯布院町での大会以外にも、「国際 Beef フォーラム21in大分」を二日間にわたり大分市で開催。 アメリカ、オーストラリア、ドイツから世界的な畜産の権威を招いてのシンポジウムでは、世界の牛肉生 産と今後の方向について議論していただいた。会場では多くの畜産農家の方々が熱心に聞き入り、世界の 岼向を知るいいチ塔ンスになったと思う。畜杠技術者のためのシンポジウムは別呻場で、徙営技術も含め て畜産業の生き残り戦略について議論を交わたた。「食肉と健康に関する地域フォーラム」は栄養士や消 費者団体も卉えて実施。牛にちなんださまざま塋イベントは大きなインパ哲トを与寒た。 「大分に豊後牛あ」  畜産農家には大きな自信と励みに、消費者にと潅ても豊後牛をよ姦知るき潅かけに鎚ったのではなかろ うかヽ

 ハッラツ!高齢者パワー−第二回「ねんりんピック」大分大会

  「……夫の昼食のため、私は毎日自転車で二駅離れた病院に行く。膝が悪くて駅の階段は昇れないし、平 地でも一〇〇メートル以上は歩けない。その点自転車は良い。足に体重がかからぬし、ペダルを踏む位は 膝も曲がる。  自転車に乗ると、私は七四歳を忘れる。一四歳の少女に戻って、藤村や白秋の歌を口ずさみ、心も身体 も自由になって、天駆ける鳥の様に走る。線路に沿った此の細道は、向こう側が青空と緑の樹に彩られた 広い米軍基地で、鳥の他は人も車もあまり通らない。幸せな、幸せな二五分間のサイクリング……」

 平成元年十一月三日から六日まで、大分県下の大分市、別府市、日田市、湯布院町など四市三町で第二 回「ねんりんピック・全国健康福祉祭おおいた大会」を開いた。ここに紹介したのは、ねんりんピックイ ベント「老年の主張」で最優秀賞となった神奈川県相模原市に住む岩永静子さん(七四歳)の意見だ。岩 永さんの夫は入院中で、毎日昼食の介護に病院に出かける。自転車で楽しく駆けつける様子が描かれてい る。 介護が終わり夕方になると、岩永さんの自宅は塾に早変わりする。岩永さんは十二、三人の中学生に英語 を教え、岩永さんの次男が数学を担当しているそうだ。一人ひとり親身に教えるので、親の評判がいい。 岩永さんはこう締めくくっている。 「……午後十一時、夕飯を済ましてワープロの前に座った。明日の授業に備えるため、テキストを打ち、 コピーを作らねばならない。夜はドンドン更けていく。今夜も寝るのは一時過ぎだな。でもいいや。明日 また朝寝坊ができるから。平穏と充実の時。」  私は、お年寄りの方々の幸せは「三つのK」にあると思っている。すなわち、「健康」で、「経済的に も自立」し、「気力」を持って暮らしていること。これらが揃って、本当の意味の「生きがい」が生まれ るのではないだろうか。岩永さんの夫はお気の毒に病気療養中であるが、岩永さんが厳しい環境のなかで 張り切って人生を送っておられることに共感を覚えた。
 大分県で六五歳以上の高齢者が人口に占める割合は、平成五年四月一日現在で十七・○%(全国平均は 十三・一%=四年十月一日現在)。市町村別にみると、県内で高齢化率が一番高いところは大田村の三三 ・八%。実に三人に一人がお年寄りで占められている。しかし、これも逆転の発想で、大分は高齢化にかけ ては先進県。やがて二一世紀には日本全体が高齢化社会になる。ならば、高齢化社会を先取りした大分県 らしい仕事をやってみようと考えた。
 第一弾は昭和五九年を「'84おおいた高年者年」と銘打って、県民総ぐるみで高齢化問題に対する意識 啓発を行ったこと。その前年に高齢者と女性を対象に、社会参加、生きがい促進、指導者養成を目的とし て「高年大学校」と「婦人大学校」を開校した。校長は私である。当初は"学生"が集まるかと心配したが、 初年度の定員三五〇人に対し五七八人が応募。最高齢は九七歳で入学し、九九歳で卒業された兼田千代さ ん。 卒業式には卒業生代表で答辞を述べた。しかも、原稿も見ずにである。 九九歳の白寿を迎えたときには、ご自分で刺繍をされた袱紗をいただいた。近くの養護施設の子供たちに はお手玉を贈っている。私も子どもたちも、ひたむきに生きることの尊さを教えられた。
 こうした高齢者の学習意欲の表れ、さらにはスポーヅヘの取り組みは各地にみられた。これが全国健康 福祉祭の大分県での開催につながったわけだ。
 前年の第一回全国健康福祉大会は兵庫県で開催。すばらしい施設を利用した、スマートな都会型の大会 であった。二回目を大分県が引き継いだ。しかし、私は大分大会に兵庫方式を持ち込むつもりはなかった。 多彩な行事に加えて、地方色豊かで心温まる人情にあふれ、花と土の香りのする手づくりの大会にしたい と思った。「大分は大分らしさで」ということだ。この年に、プレ大会を兼ねて「豊の国健康福祉祭」を 開催。 県民の意識啓発運動をスタートさせた。
 大分大会メイン会場は大分市の新産業都市・六号地臨海工業地帯。企業進出が予定されている所である (このあと、昭和触媒工場、日産エンシン工場が進出することになった)。十二万平方メートルの特設会 場には、人工の「きらめきの滝」を中心にした日本庭園のグリーンゾーンを囲んで、色とりどりの大型テ ントを配した。「健康フェア」には体力づくり相談コーナー、保健看護コーナー、食生活コーナーなどを 開設。日本の味と大分のバランスメニューの代表作品九〇点の献立を展示して、参加者が日頃の食生活と 比較できるようにした。「うまいもんのれん」には日本の味がズラッと並び、作り方の指導にも大勢の人 が集まって熱心に聞いていた。「食生活と健康チェック」では、自分の好きな食品の組み合せがはたして 栄養的にバランスがとれているか、個人の身体状況も加味してコンピューターによる診断を行い、改善点 まで診断してくれる。「健康福祉展」には一十三社に及ぶ医療機器メーカーの出展を得て、地域住民健康 支援システムや在宅老人コミュニケーションシステムを展示し、新しい福祉情報システムを紹介した。
 全国の郷土色豊かな手づくり民芸品フェアには二三道府県から千一八五点が寄せられ、会場では実演作 業も行われた。綿布を重ね合わせ、一面に細かく刺し縫いにした「刺し子」。柔道着や剣道着に用いる縫 い方だが、新たなデザインの刺し子を考案して、バッグやショルダー、コースターなどに応用し、さまざ まな製品に仕上げているグループが大分にはたくさんある。鶴見町で刺し子の指導にあたっている稲村節 子さん。地域のリーダーの一人である。 「たくさんのお客さんから『ほしい』と言われたんですが、差し上げられる数が限られていまして……。 静岡、三重、東北の方五人だけに、半年の期限つきで帯、暖簾、鏡掛けの製作を引き受けました。『ぜひ 教えて』と言う人もいまして、沖縄・佐敷町、静岡・御殿場市、富士市、神奈川県、それに県内の別府、 直入の方の通信指導をすることになりました。『大分に来て本当によかった』という声を聞くと、ねんり んピックに参加できてよかったと思います」  地域リーダーの活動が全国区に広がるいい機会になった。  高齢者のスポーツ活動は何もゲートボールだけではない。「ねんりんピック大分大会」では、県下の各 会場で卓球、テニス、ソフトボール、ペタンク、ゴルフ、マラソンなど、十五を超える競技が繰り広げら れた。試合が終わると親善交歓会に早変わり。都道府県境を越えた友情が生まれていた。  このほか、シルバーファッションショーでは、公募した六〇歳から七八歳までの"モデル"がシャンソン やタンゴの軽快なメロディーに乗って、トータルファッションに身を包んで登場。盛んな拍手を浴びた。 「ピンクのヘアバンドがかわいかった」「パリにいるみたいでした」といった感想が聞かれた。 「人生八○年時代をどう生きるか」をテーマにした国際シンポジウムには、私もパネラーとして参加した。 ほかにミシガン大学のJ・C・キャンベルさん、岩波ホールの高野悦子さん、それに元NHKアナウンサーの 鈴木健二さんら。安らかな老後とは何かスウェーデン、イギリス、アメリカの老人ボランティア活動や福 祉の具体例を報告しながら、高齢者の仕事、生きがい、社会への参画、高齢者を取り巻く環境のなかで、 特に家族や地域の役割、行政の取り組み方、都市と地方との交流といったさまざまな視点から議論が交わ された。
 スウェーデンでは子どもが成人すると家から離れ、あとは老人だけの家庭にな色一人暮らしの問題も非 常に深刻になっているが、その場合でも二DKで車いすが十分動くような広さと設備がある。非常べルがあ り、アラームもある。ホームヘルパーもいつでも派遣してもらえる体制が整っている。
 問題は心の寂しさだ。ホームヘルパーが滞在するのはほんの三、四時間ほど。公的な条件整備は行政の 役割であるが、心の寂しさまでは埋めようがない。隣近所の人たちがどう支えていくのかスウェーデンで も大きな課題であると報告されていた。
 試行錯誤ではあるが、各国の試みは参考になったのではないか。パネラーの豪華さとタイムリーな話題 とあって、このシンポジウムの模様がNHKで全国放送された。 「ねんりんピック」では、直前になって予期せぬ出来事が起こった。県内で最も大きいホテルの一つが突 然ロックアウト。大会期間中のべ二〇〇〇人を超す宿泊施設を失ってしまった。事務局はホテル探しに奔 走したが、遠方のホテルではバスの手配ができない。最終的に弓道関係者四五〇人分が宙に浮いた。
 万策尽きた末の決定が、大会参加者の搬送用にチャーターしていた船「サンシャインぶじ」の客室利用 であった。
 全国有数の温泉郷に来ていながら、船室にしか泊まれない。別府温泉に入ることは大きな楽しみであろ うと思うと、胸が痛んだ。そこで事務局には、ほかの宿泊施設では味わうことのできないような歓迎体制 を整えること、満足してもらえるような数々の催しを企画することなどを指示した。
 予期せのことが二度起こった。別府温泉のイメージダウンを回復しようと、船中泊のお客さんに対して 県民からの温かな申し出が次々に舞い込んだのだ。県内のほとんどといっていいくらいの温泉地から「無 料開放します」と案内がきた。クリーニング業界からは洗いたての浴衣が毎日届いた。麦焼酎やワイン、 みかん、真珠のブローチ、手づくりの竹鈴、交通安全のお守り札など三〇〇〇点以上が届き、協力を申し 出た団体は五〇以上にのぱった。「一村一品市場」に出展していた業者は船内で土産品店をオープン。破 格の値段で販売していただいた。船内ではショーダンスやマンドリン、三味線、太鼓、マジック、民謡が 次々と演じられた。善意の差し入れはお楽しみ抽選会で分配することになった。会場からも飛び入り演技 が続出し、終始なごやかな雰囲気で温かい触れ合いが生まれた。 「大会関係者の方々の苦労は大変だったと思います。大分の人たちの心に触れて本当によかったです」
 栃木県から参加した樋山晃一さんの言葉に、事務局スタッフも泣いた。 「ねんりんピック」の精神と成果は、健康づくりと生きがいづくりのための県民運動となって結実した。  新たに設置した財団法人「豊の国長寿いきいき振興センター」(第三セクター方式)が運動の母体として 活動を開始した。平成二年度からは、大分版「豊の国ねんりんピック」を毎年開催。平成四年十月の「 第三回豊の国ねんりんピック」には三二〇〇人が参加して、スポーツに、文化活動に、「ふれあいステー ジ」や「うまいもののれん」で交流を楽しんだ。     真夏の夜の競演−別府湾ジャズフェスディバル

 別府と聞けば「温泉」。

 連想ゲームではないが、日本を代表する温泉といえば必ず別府の名前があがる。一日の湧出量一三万キ ロリットル、利用泉源二八六〇か所。泉源総数四二四九か所は、二位の鹿児島の二五五四か所を抜いて圧 倒的な全国一位。泉質は世界薬剤学会公認十一種のうち九種を数え、名実ともに日本一の温泉地である。 そして今、別府市は「国際観光温泉文化都市」のスローガンを掲げる。
 地球の熱が大地に伝わり、人に伝わる。毎年、真夏の別府にジャズが響きわたり、若者のエネルギーが 爆発する。 「別府国際ジャズフェスディバル−−城島ジャズイン」は昭和五七年八月、アート・ブレーキー、カーメ ン・マクレエ、ディジィ・ガレスピー、それに地元別府出身の世界的なピアニスト・穐吉敏子ら、内外一 四〇人の一流プレーヤーが出演して開催された。ストリートフェア、ジャズフィルムコンサートも交えて、 湯の町別府は三日間ジャズに染まった。観客動員数一万五〇〇〇人は予想をはるかに超えたものであった し、『スイングジャーナル』(ジャズ専門誌)からも高い評価を得た。もうひとつ予想を超えたものがあっ た。初回に一億円近い赤字が出たことだ。  もともと、ジャズはマイナーな音楽だ。世界的なサックス奏者・渡辺貞夫も九州の小さなジャズ喫茶な どでライブを行ったことがあるほど。マイナーであるだけに、仲間同士の情報交換は頻繁に行われていた し、結束も堅かった。その九州のジャズ仲間が年に一回、真夏の城島高原(別府市)に集まっていた。北九 州や熊本、宮崎にも近く交通の便利がよいこと、高原で夏でも涼しいことなどが理由で、自然に城島に集 まるようになったのだ。
 そのうちに、誰ともなく「ここでジャズフェスティバルをやろう」と言いだし、それがついに実現した。 もちろん赤字。翌年は休止になったが、「もう一度、開きたい」という"ジャズ熱"は高まるばかり。ジャ ズ仲間の"熱"に口説かれたのが地元のテレビ局であった。以後八年間、「城島ジャズイン」として開催さ れていった。
 折から、別府観光が宮崎や鹿児島に追いあげられていたときだった。観光業界を中心とした別府の若手 経営者らが、観光客の伸び悩みを何とか打開しようと、毎晩のように集まって策を練っていた。 「国際観光都市にふさわしい文化の香りのするイベントを生み出せないか…」
 結論が、「城島ジャズインをスケールアップし、国際イベントに仕上げる」ことであった。
 別府には主な温泉が八つある。別府温泉、亀川温泉、柴石温泉、鉄輪温泉、明磐温泉、観海寺温泉、堀 田温泉、浜脇温泉。立地条件も温泉の個性も風情も異なる。サービスや施設の面でも互いに競い合ってい る。悪くいえばまとまりがなく、みんなで一緒にやろうという意識が薄い。若手経営者は、ただ"遺産"を 食いつぶすだけでは別府温泉の将来はないと強い危機感を抱き、連帯の道を歩み出そうとしていたのだ。 「攻撃的な観光売り出し。そのために団結してジャズインを成功させよう」
 おそらく初めての団結ではなかったか。  方針は決まった。行政からの援助を仰がず、経営者ら五〇人が一〇〇万円ずつ出資。集まった五〇〇〇 万円を元手に別府国際音楽協会を設立した。ここに「別府国際ジャズフェスティバル」が第一歩を踏み出 したのである。
 第一回大会は音楽史に残る大きな評価を得た。しかしそのツケはあまりにも大きかった。出資金五〇〇〇 万円を食いつぶし、さらに四〇〇〇万円を銀行から借り入れるハメに陥った。当然、批判が出た。しかし、 別府音楽協会の会長を務めていた友永文月(別府商工会議所会頭)は、「撤退すべきだ」という声が出そう になる前に、いち早く継続を決定した。何としてもやり抜くんだと、決意は固かった。このとき、別府音 楽協会事務局長に別府商工会議所職員(現在は企画会社経営)の向井より子さんが就任した。二八歳の辣腕 家である。向井さんを中心に、音楽協会会員、協力団体、協賛企業の連帯を強め、きめ細かいチケット販 売の戦略体制を組織化していった。
 私は「借金があってよかった」との声を聞いたことがある。仮に第一回目から黒字を出していたら、今 のように強い結束力は生まれなかったに違いない。  毎年開催していくうちに、「城島ジャズイン」は市民運動として盛り上がっていった。別府観光の浮揚 のために黙々と努力する会員とたくさんのボランティアたち。ホスピタリティにひかれて、辛島文雄トリ オ、松岡直也グループ、阿川泰子グループが駆けつけてくる。「別府は観客とスタッフが最高だ」と、外 国のミュージシャンの間にもうわさが広がった。
 五周年記念では会場内イベントも盛りだくさんになった。ジャズクィーン・コンテスト、一村一品フェ ア、おたのしみ抽選会など。カシオペア、スタンリー・タレンタイン・クインテット、松岡直也、阿川泰 子グループ、マリーンらが、城島と別府駅前通りでのストリートフェアに競演。観客は一万八○○○人を 数え、一日としては全国最高の動員数であることが『スイングジャーナル』誌によって認められた。つい に「日本一」のジャズインに成長したのだ。
 この間、熊本県の阿蘇アスペクタで、「火の鳥」が城島ジャズインにぶつけて開催されたが、ジャズイ ンの動員数は着実に一万八○○○人を確保していった。十周年アニバーサリーは平成三年八月。 農協中央会や県内十一の村長が集まる「豊の国村サミット」も支援し、一村一品巨大ビアレストランが大 評判になった。
 ここにいたるまでの向井事務局長の苦労は、並みたいていのものではなかったと思う。最初の五年間は、 どんなに苦しくても行政から補助金をもらわなかった。 「絶対、行政が無視できんようなイベントにしてやる」  向井さんの熱意にまわりも動いたのだ。資金繰りから、出演交渉、会場設営、広報など。向井さんは「 地域づくりのリーダー」ということで、あちこちから講演やシンポジウムのパネラーとして引っ張り凧に なった。ところが、本人はもともとこういったイベントが嫌いだという。ノコノコ出かけていくのは、「 これでまたジャズインの宣伝ができるぞ」と思うからだという。
 平成五年八月一日。第二一回ジャズインは会場を九州横断自動車道の別府湾サービスエリア近く、別府 市十文字原に移して開催した。市がジャズイン専用の特設ステージと会場を整備したからである。タイト ルも「別府湾ジャズフェスティバル」と変え、サブタイトルにはこれまでなれ親しんできた 「Kijima jazz inn」をそのまま残した。この十文字原には地元放送局の中継塔も立っており、見晴らしは 抜群だ。なだらかな斜面を見下ろすと別府湾が一望できる。ニューヨーク・ツアーで大成功を収めたオル ケス・デ・ラ・ルス、NHK大河ドラマ『琉球の風』のテーマ曲『ちゅら・じゅら』をはじめ、『ありがとう 』をヒットさせた沖縄の「りんけんバンド」、それにおなじみになったマリーンや松岡直也グループらに、 一万二〇〇〇人が熱狂した。
 湯の町別府とジャズ別府のCIがすっかり定着した。

 「東京一村一品フェア」に千人の大分ファン

 売れる商品は決まっていいイメージを持っている。
 一村一品運動が始まって以来、実にたくさんの一村一品が生まれた。しかし、いくら品質の良いものを 作ったからといって、必ず売れるとは限らない。できた一村一品にいいイメージを付加させることが必要 だ。「販路拡大=イメージアップ=CI」作戦を、まず東京、横浜、大阪で展開した。大都市をターゲット にして高い評価を得れば、地域にCIが還流されるからだ。
 都市へのイメージアップ第一弾は五六年、東京のホテルオークラで開いた「'81 大分フェア」であった。 政官界、マスコミ、文化人、芸能人、各国大使ら一〇〇〇人を招待。開場時間にはホテルの外まで列がで きていた。私は会場入り口に立ち、一人ひとりに感謝の気持を伝えた。
 観光を売り出すには「安心、味、ありのまま」が大事だと、私は観光にたずさわる人によく話している。 頭文字をとって「三つのA」だ。まず「安心」。仕事や家事に追われる生活から抜け出し、体や精神をリフ レッシュさせる−これが観光の目的であり、異文化体験の目的である。そのためには、ゆったりした気持 を持たせることだ。それに「味」。「大分の味」とは「大分の心」を売ることだ。おざなりな味、作りも のの味は、そのときには客がとびつくかもしれないが、いつか飽きられてしまう。 施設整備でも、大分の自然、大分の特性に合ったものでなければ長続きしない。「ありのままの大分」を 体験させることが大切なのだ。
 大分フェアでは「徹底して大分の味を売れ」と指示した。大分には銘茶といわれる「杵築茶」「耶馬渓 茶」がある。これを東京のまずい水でたてれば、「普通のお茶」にしかならない。水は湯布院の渓谷から 汲んだ水を使う。料理は関アジ、関サバ、関タイ。それに城下カレイにフグ。しかも大分から直送したも のだ。ホテルオークラの総料理長は小野正吉さん。フランス料理のシェフとして国際的にも高い評価を得 ている方である。会場で使うフランス料理の素材に「大分のものを使ってくれないか」と頼んだら、小野 さんはわざわざ大分の市場で材料を吟味してくれた。「大分風味」のフランス料理が出来上がったのであ る。  大分を代表する郷土料理は、わざわざ大分から調理団を組んで上京してもらった。名物「だんご汁」の 調理は大分市鶴崎の小中島婦人会のおばちゃんたちが引き受けてくれた。おばちゃんたちは、いつもの使 い慣れた道具がないと料理ができないと、ナベ、カマ、包丁持参でオークラに駆けつけてくれた。「味を売る」とはそういうことなのだ。もともと、料理とは地域の文化や伝統に裏打ちされたものであっ て、そこに行かなければ味わえない。東京で大分の味を売るときには、当然それなりの努力をしなければ ならない。「大分の味」を気に入ってもらえたら、「この次はぜひ、大分で」ということになる。
 お客さんの目をひいたのは、会場中央に設置しだ巨大な水槽であろう。長さ五・五メートル、幅一・五 メートル、高さ一メートル。そのなかをマダイやシマアジの群れが悠然と泳ぐ。これも大分から生きたま ま運んだ。大分から東京への移動というのは、思ったより魚の体力を消耗させる。そこで、豊後水道で水 揚げされた魚を漁船で和歌山に運び、いったん湾内の生け簀で休ませる方法を取った。 体力をつけてから再び東京へ----水産の技術職員が十二日間つき合ってくれた。
 ただ、水槽の設置にはホテルが驚いた。水を満たせば約十トン。絨毯が汚れたらどうするのか、床が 抜けたらどラするのか修復するまでの損失補填までホテルが見積もってきた。そこでホテルの建設会社に もあたり、耐久力は十分あるとの回答を得た。保険も掛けた。これでホテル側もやっと納得してくれた。
 大分フェアの目的は、「一村一品を東京に売り込むこと」であった。たしかに、会場を訪れたお客さん には大きなインパクトを与えたと思う。これまで大分フェアを三回開催しているが、「今度はいつやるの か」といった声をよく聞く。「大分の味が忘れられないよ」と、それからちょくちょく大分を訪れるファ ンもいる。
 フェアの効果は、外へのPRと同時に内へのCI効果をもたらした。 「東京でだんご汁を作ってくれないか」と大分市の婦人全に頼んだときには、ためらう人が多かった。自 分たちが作っているのは田舎の料理で、とても恥ずかしくて東京のお客さんには出せないというのだ。  何とか説得して手伝ってもらえることになったが、いざ乗り気になると実によくやってくれた。ナベ、 カマ持参の上京がその一例だし、材料も直接生産地に乗り込んで、自分たちで買いつけるほどであった。
 フェア会場では長蛇の列ができ、最初に品切れになったのはその「だんご汁」であった。おばちゃんた ちは、東京の人たちが「うまい、うまい」と何杯もおかわりする姿に喜んだ。これまで作ってきた田舎料 理が東京の人たちに評価される。これがおばちゃんたちの大きな自信につながった。これからも一所懸命 にだんご汁を作ろうという自信である。  この自信が地域づくりに大きな影響を与えていく。
 オークラでの大分フェアは、このあと昭和五九年、平成元年と三回行った。さらに、大阪、福岡、北九 州と場所を変えて開催し、横浜には一村一品をどっさり積んだ船を就航させて、港でデモンストレーショ ンをした。その都度ニュースが全国に流れたためか、同じような催しをする自治体が多くなったと聞く。 それでも、大分は「元祖一村一品」。新たな趣向を凝らして都市に挑戦していくつもりだ。

 「隗より始めよ」−県庁「WM作戦」

 私はこれまで、一村一品運動や一村一文化運勲、一村一スポーツ運動と名づけて、地域活性化対策と取 り組んできた。課題は「若者の定住と過疎からの脱却」である。若者が地域に定住できる条件整備のため に全力を尽くしてきた。
 大分県が全国一の過疎率を示していることは先に述べた。では、どうすれば人口が増えるのか。人口が 増える要素は二つある。自然増と社会増である。自然増とは、赤ちゃんの生まれる数が亡くなっていく人 の数より多いということ。社会増のためには、これまでも企業誘致や地場産業の育成に尽くしてきた。 平成二年六月、厚生省が発表した元年の人口動態に大きな関心が集まった。一人の女性が生涯に平均して 何人の子どもを産むか。これが合計特殊出生率である。このとき発表された数字は一・五七人。二.○八人 を下回れば人口が将来減少する可能性があるということで、このままの出生率で今後八○○年推移すれば、 日本民族は地上から消滅するといった過激な発言まで飛び出した。いわゆる"一・五七ショック"である。 翌年はさらに一・五三人まで落ちた。
 子どもを産みにくい条件を改善し、女性の社会進出と出産、育児が両立しないかぎり、女性は子どもを 産みたがらないという意見もある。日本のように夫の不在が多く、家庭生活に魅力がなくなれば、それも うなずける。
 大分県をみると、昭和五七年から平成三年まで十年間の自然増が一万六〇〇〇人。社会減の二万九〇 〇〇人を差し引くと、一万三〇〇〇人の減となっている。自然増一万六〇〇〇人は九州最下位。 原因はいろいろあるが、ひとつには大分の女性の結婚年齢がたいへん高齢化していることがあげられる。 そのうえ、女性が赤ちゃんを産む割合が低い。女性が働きやすく、また育児もできるようにする条件の整 備−これは行政の役割だ。ただし、結婚相手を見つけるには男が積極的に動くことが肝心。 大分県の自然増が少ないのは、一方では「大分の男が意気地がない」せいではなかろうか。
 平成三年以降、九州と沖縄で打ち出された人口増加策は、大分県が三一件でトップ。次いで宮崎二一件、 長崎十九件と続き、最後は沖縄の一件であった(九州経済調査会調べ)。過疎化率日本一にふさわしいとい えようか。 Uターン促進策、住宅整備、結婚奨励金、出産祝金、定住奨励金などがあり、新しく農業をやりたい人には 農地を貸すことも始めた。
 そうした大分県の施策の一つを紹介しよう。名づけて「隗より始めよ」−「WM作戦」である。 「平松さん。あなたは県民には結婚しなさい、子どもをつくりなさい、環境整備はやりますと言うが、県 庁にも独身者が多いじゃないですか」と、よく批判される。 「県庁の仕事が多すぎて恋愛をする時間もないんです」と答えているが、こうした批判に応えるためにも、 私は県下の地方機関の長に「一年に一組の仲人をしなさい」と言っている。縁とはきっかけである。きっ かけを所長自ら率先してつくりなさいと。  県庁には職員の親睦、福利厚生のために職員互助会が組織されている。私が会長だ。職員互助会に「WM 作戦」を展開したらどうかと提案した。いわずもがな、「ウェディングマーチ作戦」である。大分県庁に は三〇歳以上五〇歳未満の独身男性が二六六人いた。全男性職員四〇〇〇人の約七%。これを少なくとも一 年間で半分にしようと提案した。とはいえ、仕事なら命令できるが、結婚や出産まで命令はできない。た だ、きっかけはつくってあげられるのではないか。  平成二年五月。「別府湾クルージングを開催。花嫁さん求む。花婿は大分県庁職員」ニュースは全国に 流れた。
 反響は大きかった。担当した職員互助会では、その日から問い合わせの電話が鳴りっぱなしになった。 県内はもちろん、遠く関東、関西からも電話があり、なかには行政機関から「参考にしたいので要項を送 ってくれ」というものまで含まれていた。締め切りが近づくと、女性からの写真と履歴書がうす高く積ま れた。その一方で該当する男性職員をリストアップ。さらには各市町村や企業の協力も得て、着々と準備 が進んだ。
 九月の開催当日は絶好のお見合い日和。参加者が次々に別府港に駆けつけた。男性一五四人、女性二七 四人。いずれも二〇代が中心で、県外からの積極組も押しかけた。
 イベントをどうPRするかは大切な問題だ。イベントの前はもちろん、終わったあとにどう伝えられるか で、関心の高まり方が違う。全国にどんなニュースが伝わるかはイベントの企画にも影響する。 しかし、このときばかりはPRするまでもなかった。地元のマスコミをはじめ、東京からもテレビクルーが 大挙して押しかけてきた。
 お見合いといえば非常に個人的なことで、プライバシーにもかかわる。マスコミに報じられることで、 まとまる話もこわれることがある。普段はマスコミに「ぜひ、PRしてください」と頼むことが多いが、こ の時ばかりは取材制限をさせていただいた。もちろん苦情はきたが、一組でも二組でもカップルを誕生さ せるためと、納得してもらった。
 船内ではハワイアンバンドの演奏があり、出会いを求めて会食やゲームに興じる姿が見られた。ブライ ダルフェアを開き、結婚についての情報も提供した。
 ときには隠密にことを運ぶことも必要だ。なにしろ、PRしすぎると、大分の男性は尻込みすることが多 いのだから……。  WM作戦の「W」と「M」は「ウーマン」と「マン」の頭文字でもある。このWM作戦をきっかけに大分県の 各機関の長による結婚ディレクター制度をつくろうと思っている。

 「大綱引き合戦」で地域おこし−大分vs福岡・北海道・ロサンゼルス etc

 「ワッショイ、ワッショイ」
 運動会になくてはならない出し物といえば綱引き合戦。全員が参加する"トリ"の行事で、いわば運動会 の花だ。  この綱引きを地域おこしの手段に使ったのが「豊の国中津落ちこぼれ塾」の塾生たちである。中津市は 福岡県境に接し、福沢諭吉が育った土地として有名。消防署に勤める木ノ下勝矢さんが、「もっと自分を 発揮する"場。をつくろう」と周辺の町村に住む若者たちに呼びかけ、昭和五九年十月、親交のあった ボクシングの世界チャンピオン・具志堅用高さんを招き「豊の国中津落ちこぼれ塾」を結成した。メンバ ーは大工や漁師、銀行員、陶芸家、公務員、主婦ら二七人。 「自分を発揮する"場"づくり」の第一弾が、中津市で開かれたテクノピア博覧会で世界一のジャンボ鯉の ぼりをあげたこと。竹田市から人力車を呼び寄せ、市内を走らせたこともある。次いで、中津市と山国町 を結ぶサイクリングロード(全長三六キロ)沿いに桜並木をつくろうと、苗木のオーナーを募集した。桜の 木に羅漢寺(本耶馬渓町)の祈願シャモジを吊り、これに「結婚記念」や「誕生記念」といった植樹目的と 氏名を記す。この話題は全国へ広がり、初年度の予定五〇〇本はまたたく間にいっぱいになり、あわてて 一〇〇本を追加したがこれもすぐ終了。翌年度分の予約だけで五〇〇人を超えた。
 福岡県豊前市の若者たちに呼びかけたのが、大分と福岡の県境を流れる山国川での両県対抗水上綱引き 合戦であった。もともと、大分県中津市と福岡県豊前市とは経済的にも文化的にも交流があった。 かつては同じ「豊前の国」であったし、廃藩置県後も同じ「小倉県」であった。それが、明治九年に山国 川を県境と決められ、行政的に分けられた。それだけのことで、人も情報もそれぞれの県都に向くように なり、交流が少なくなっていた。
 福岡の若者たちもそのことに気づいていた。綱引きという"遊び"の提案に、椎田島会やホラフキ天狗会 など豊前の地域づくりグループがとびつき、一緒に実行委員会に加わった。ただ引っ張るだけの綱引きに は難しいルールもいらないし、誰でも参加できる。これなら多くの人たちも加わってくれるのではないか、 という思いであった。  綱引きといっても勝負である。勝てばこ褒美が出るし、負ければペナルティがある。綱引きの罰は、「 勝負に負けた県は、一年間勝ったほうの県名を名乗らなければならないこと」。もちろん、パロディーで あるが、こうすれば真剣になる。  軽い気持で始めた"遊び"であったが、マスコミの反響は大きかった。市民からの問い合わせも殺到した。 「どんな方法でやるのか」 「誰でも参加できるのか」 「大分県が負けたらどうするのか」
 そのうちに、「大分県は二〇〇〇人集めた」とか、「いや、福岡はそれ以上集めているらしい」と、うわさは次々に広がっていった。  新聞の見出しには「現代版・国盗り合戦、四千人で勝負」とある。すでに、紙面が勝手に踊りだしてい た。
 これに大分県警と福岡県警の両方からクレームがついた。 「そんなバカな遊びは危険だから中止しなさい」と言う。
 福岡の警察署には「大分の警察はいいと言ってくれました」と言い、大分の警察署には「福岡の警察は 大丈夫です」とメンバーが説明した。「それではしょうがない」と双方とも了解してくれたが、「ただし、 四〇〇〇人で引っ張っても大丈夫かどうか、ロープの破断重量の試験結果を提出しなさい」と命じられた。 実行委員会もこれにはびっくりした。
 ロープは小学校から借りるつもりであったが、小学校からは「肩書のない団体には貸せない」と断られ た。結局、自前で購入することになったが、既製品は長さがせいぜい二〇〇メートルしかない。 四〇〇〇人が引くなら、直径は十センチ、長さ四〇〇メートルは必要だと業者がはじいた。綱の重さは なんとニトンにもなり、製作費は二〇〇万円もかかるという。
 たかが綱引きに二〇○万円もかかると聞いて、実行委員会にはあきらめムードが出てきた。資金集めに 奔走しても、「そんなバカなことをするな」と意見されるだけであった。結局、銀行から借金しての購入 になった。借金をしてまでの大会に本当に四〇〇〇人が集まってくれるのか−不安は強かった。
 PRのため市役所に掛け合い、広報誌で取り上げてくれと頼んだがダメ。ところが、そのうちに「ギネス 級の綱が出来た」と報道されると、「綱だけでも見たい」という問い合わせが多くなり、しだいに"バカな 遊び"が盛り上がるようになった。
 河川敷きの使用許可もやっかいな問題であった。「山国川で綱引きをするというが、誰にことわってや ろうとしてるんだ」と建設省からのクレーム。自分たちの川を使うのに国の許可がいるなんて、メンバー には思いもよらなかった。「計画書と趣旨書を至急提出のこと」  遊びで綱引きをやろうというのに、趣旨書なんてあるわけがない。 「行政の後援は取りつけているのか」とも指摘された。市役所に行っても、「実行団体が明確でない」 「そんな行事に後援をした前例がない」と言われ、逆に「あんた達、遊びでやっているんでしょう。それ に行政から後援をもらうとはどういうことか」と説教されてしまった。
 メンバーはタテ割り行政の弊害をつくづく感じたようだ。しかし、これがバネになって、「今に見てお れ。遊びが地域に活力を生んで、行政も応援させてくれと言いだすような"遊び"にしてみせるんだ」と決 心させたのである。
 昭和六一年十一月、「大分・福岡対抗水上大綱引き大会」がいよいよ実現した。「ただ、自分たちが面白がって楽しめばいい」と思ってやったのに、本当に四〇〇〇人がロープを引き、 二万人が見物に来てくれたことが、メンバーには嬉しかった。しかも、地元のマスコミが大挙して駆けつ けてきたし、上空には東京のマスコミのヘリコプターやセスナ機がブンブン飛ひまわり、その夜のテレビ ニュースを飾った。結果は二回引いて双方一勝一敗。伸良く引き分けてあった。 福岡県中津市にならずによかったと、メンバーも、そして私も胸をなでおろした。
 若者たちは「やればできるんだ」という自信と満足感に満ちた。落ちこぼれ塾の話題は地元でも評判に なった。「来年も綱引きをやりますか」と、マスコミからの間い合わせもジャンジャンかかってきた。
 第一回の結果が引き分けだったことから、二回目こそ決着をつけようと大分県も福岡県も燃えた。 単に引っ張るだけでは面白くない。福岡県豊前市の求菩提山は山伏の修験遣場として知られ、中津とも関 係が深い。そこで求菩提山の天狗が試合を申し入れるという演出を考え、羽織袴に高下駄姿という山伏の 出で立ちで、双方の知事に「挑戦状」をたたきつけた。私が執務を取っている部屋に、山伏姿の天狗たち がドカドカ入ってきて挑戦状を読み上げる光景を、記者たちもニヤニヤしながら眺めることになった。さ て、挑戦状を受けたからには負けるわけにはいかない。大会当日には私も参加して思い切り引っ張った。 そのかいあってか、これまでの通算成績は大分県が勝ち越している。
 メンバーたちはこの手法に味をしめたのか、「綱引き挑戦状」を携えて全国をまわっている。平成元年 には茨城県竜ヶ崎市で綱引き大会を開催。竜ヶ崎市内の大通り商店街は一八○○メートルもあることが自 慢で、この通りで中津と勝負をしたいという。いわば"受けた挑戦"である。といっても、中津の人をそん なにたくさん茨城まで連れてはいけない。結局、初めての遠征は茨城在住の九州人が中津に加わり、「常 陸国vs九州人会」という名目での勝負となった。
 平成四年二月には、山口県をまたぐ周防大橋が完成したのを祝って、「大分・福岡連合」が山口県に挑 戦状をたたきつけた。「周防の国」vs「豊前の国」大会は、「豊前の国」が勝てば大橋をいただく、その かわり負ければ「橋から海に飛び込んでみせる」と大見得を切った。ところが、あっけなく「豊前の国」 の負け。幸いなことに、その頃、瀬戸内海にサメが出たとのウワサが流れたため、海への飛び込みは「周 防の国」の情けで取りやめになった。  その年六月、大分と札幌を結ぶ定期航空便が開設されたのを機会に、大分・北海道綱引き対決が実現し た。北海道の横路孝弘知事は、地域の自主自立による一村一品運動に共鳴され、同じネーミングで一村一 品運動を進めている。
 昭和五九年には互いの地域リーダーが双方を訪れ、北と南の交流を行ったこともある。奇しくも、この ときの綱引きは「一村一品対決」となった。会場は札幌市内の旧北海道庁前広場。大分側は札幌大分県人 会七〇人が加わったものの、圧倒的に数が足りない。そこで奥の手を出した。「大分県側にっいてくれた 方に"一万円"を差し上げます」と放送するや、大分県側にドッと人があふれた。ところが、中津特産「福 沢諭吉一万円センベイ」を渡されて爆笑。
 試合開始とともに、双方三〇〇人がヨッコラショ、ヨッコラショと綱を引く。一本目は北海道が勝ち、 二本目に大分県が挽回。三本目は大分県が勝ったようにみえたが、審判が「大分はフライング気味だった ので、この勝負引き分け」と宣言。これで両者ともバンザイ、バンザイ快晴とさわやかな風のなか、イベ ントは大成功であった。
 余談だが、落ちこぼれ塾は「綱引きに負けたら、平松知事を北海道に引き渡す」と約束したという話を あとで聞いた。引き分けでよかった。もし負けていたら、今頃は北海道に残されていたかもしれない。落 ちこぼれ塾にはときどきドキッとさせられる。しかし、愉快な驚きだ。

 綱引きは世界に飛んだ。

 一村一品運動はアメリカ・ロサンゼルスにまで広がり、「On Vilage,One Product Day」が設定されてい る。平成元年十月七日がその日。この前日、ロサンゼルス市のトム・ブラットレー市長を招き、市内の リトル・トーキョー広場で「大分フェア」を開いたとき、突然、木ノ下さんが市長に挑戦状を突きつけた。 「挑戦を受けよう。ロサンゼルス中の力自慢を集める」と、市長はニコニコしながら応じた。
 翌年十月、「日米対抗大綱引き大全」が実現した。ロサンゼルスにほど近いズーマビーチの砂浜に、 お祭り好きなロス市民が二五〇〇人ほど集まってきた。対抗する日本側は大分県からの「豊前の国」選手 団に加えて、ロス在住の県人会が応援してくれた。結果は日本側の二勝一敗。日米対抗といっても、ただ 勝手な場所でワイワイやるだけ。 それでも、透き通った青空のもとでの楽しいイベントであった。
 エピソードをひとつ。ここでもロープに泣かされた。ロープの船賃が購入費よりはるかに高かったため だ。ロープは記念にロサンゼルスに置いてくるつもりだったが、関税を払わなければならないということ で、また持って帰った。経費の高い綱引き大会になったが、ロス市民から「Oita Comeback,again」と言わ れたことで、選手団の皆さんもすべてが報われたと思ったに違いない。
 綱引き合戦を契機に県外の出身者から、「日本一の水上綱引き合戦をやった中津の出身ですと、大威張 りできるようになった」という知らせも届いた。地域づくりとは、マスコミと若い人たちのエネルギーで つくり上げていくものだということにも気づいたようだ。しかも、マスコミが「日本一」とタイトルのつ いた記事で大きく扱うから、それが情報の発信作用になる。実際に運動をやっている人たちがいつも言っ ていることなのに、新聞で取り上げられただけで、「それは新聞に載っていた」「テレビにも出た」「だ から応援に行く」とつながっていくのである。
 マスコミヘの登場で「あの連中はすごい」という評価が定着し、それが行政を動かし、人を動かす。 翌年からは、行政も競って応援してくれるようになった。市議会でも「市はあの連中を支援していないの か」という質問があり、「後援させてくれ」「長く続けてくれ」という申し出がどっときた。変われば変 わるものだ。最終的には二市五町三村が応援することになった。
 いま「落ちこぼれ塾」のメンバーが取り組んでいるのは「空き缶捨てない運動」だ。杵築市に住むシン ガーソングライターの南こうせつさんにコーディネートしてもらい、ポイ捨て文化に挑戦する「空き缶捨 てない宣言コンサート」を開催。参加者の入場料が空き缶五〇個というのもユニークだ。 一つ一つの積み重ねが大きな運動になっていく。

 大分港に三隻の帆船「フェスタ・ポルトガル」

  一九九三年は日本とポルトガルが出会って四五〇年目。一五四三年九月二三日、鹿児島県種子島に三人の ポルトガル人が漂着している。ヨーロッパ大陸の最西端、大西洋に突き出した国ポルトガルは、一六世紀 の大航海時代には世界貿易を制覇していた。時代を切り開こうとする波が日本まで押し寄せてきたのであ る。これが、日本と西洋との初めての出会いであった。友好四百五十周年を記念して、日本とポルトガル の両国で友好記念行事が開かれている。  私は、東京に事務局を置く日本ポルトガル友好四百五十周年記念行事実行委員会の副委員長を務めてい る(会長=八尋俊邦・三井物産会長)。しかし、大分がポルトガルと深いつながりを持っていたことはあま り知られていない。
 種子島に漂着して、その二年後にはすでに府内(大分市の古称)にポルトガルの商人が住み、交易にあた っていたと古文書にある。南蛮船が沖の浜に着くたびに大阪や堺からの商人で賑わい、「豊後の浜の市」 が開かれた。町の駄菓子屋にカステラやコンペイ糖が並び、居酒屋にはギヤマンに入ったポルトワインが 置かれた光景が目に浮かぶようだ。 ポルトガルとの交易を進めたのは、戦国大名・大友宗燐(一五三〇〜八七)。自らキリシタンに帰依し、天 正遺欧使節をローマに送っている。府内に住んだ若きポルトガル人、アルメイダは宣教師として来日した ものの、日本人が満足な医療を受けられないまま死んでいく状況に愕然として、自ら病院を建設すること を決意した。宗燐も資金や土地の提供を申し出て全面的にバックアップ。日本で初めての西洋医学による 外科手術が大分で行われたのである。  大分市南部にあるアルメイタ病院は大分市医師会が建設したものだが、病院の名前はこのアルメイダに ちなんでつけられた。病院玄関ホールには、陶板でつくられた発見記念碑(エンリケ航海王子を記念したモ ニュメント。リスボンにある)が置かれ、メモリアルホールではアルメイタの足跡を紹介している。
 西洋音楽発祥の地も、ここ大分である。市内の教会では子どもたちが賛美歌を歌い、神父がビオラを奏 でたとある。
 その後の鎖国政策でポルトガルとのつながりを示す建造物を破壊することになるのだが、かつて世界に 夢を馳せた王が大分にいたことを県民は忘れない。
 大分県とポルトガルとの友好を記念した「フェスタ・ポルトガル−大航海ロマンと宗麟の夢」を平成五 年九月から十月にかけて盛大に行った。
 皮切りは、九月十一日から一か月間かけで大分県立芸術全館で開催した「ポルトガルと南蛮文化展」。 日本では東京、静岡、京都、それに大分の四か所で開かれた。大航海時代に、ポルトガルがアフリカ、イ ンド、マラッカ、中国、マカオと東進する過程で、各地域で溶け合って生まれた文化を紹介している。ポ ルトガルをはじめ、七か国の国宝を含む二〇〇点の展示は見ものであった。
 日本でただ一か所、大分だけでの開催となった「医学シンポジウム」は、西洋医学発祥の地での国際医 学シンポである。「東西医学・文化の交流」をテーマとして、超高齢化社会に果たす医学の役割について 語った。福祉国家として名高いデンマーク社会福祉省の専門家や、オーストラリアでの事例も紹介した。 シンポジウムの模様は十一月二七日にNHK教育放送で全国に流れた。ポルトガル映画祭・音楽祭も文化庁芸 術祭後援事業として開催。当時の音楽が町によみがえった。
 メインの行事は、十月九日から三日間にわたって大分港大在公共埠頭で開催された「フェスク・ポル トガル」であった。
 ポルトガル海軍の帆船サグレス号が遠く海を越えて大分港に入港。マカオからのマカオ号は、当時南蛮 船といわれたガレオン船の胴体と中国のジャンク船の帆を持つ、互いの文化を折衷したロルシア帆船であ る。このマカオ号も同時に入港し、さらに日本の海王丸も寄港した。同じ岸壁に三隻の帆船が並ぶ姿は壮 観であった。しかも、海上保安庁所属の巡視船「ちくぜん」や、防衛庁の護衛艦「あさぐも」も駆けつけ た。会場にはホーバーフェリーやクルーザー、漁業取締船、消火船など、普段見ることができないさまざ まな船舶を展示した。  船舶に囲まれた埠頭会場で、楽しいイベントをたくさん繰り広げた。「ポルトガルと大航海展」「イン ポートフェア」「ポルトガル古地図展」「お菓子のEXP0館」「南蛮レストラン」「ボード・ボートフェア」 「フィッシング・ダイビングフェア」など。イベントステージではロックコンサートやチビッコクイズ、 バトントワラーズ、それに九州各県の郷土芸能など、さまざまな催しものを披露。三日間の開催中にのべ 三五万人が訪れる大博覧会であった。
 なかでも、岸壁に横づけしたダイヤモンドフェリー内の特設会場での「新・大航海時代シンポジウム」 は、歴史に新たな視点を与えるとともに、これからの国際化時代を考えるきっかけともなった。 西洋史学者として著名な木村尚三郎先生や、岩波ホールの高野悦子さん、大友宗燐の一生を描いた『国東 物語』の著者、高山由紀子さんらを招き、私もパネラーとして討論に加わった。このシンポジウムの模様 は朝日放送系列で十一月二三日に全国放映された。
 十月二三日にはポルトガルのソアレス大統領も来具。歓迎式のほか、大分市で開かれている「ポルト ガル市」や、臼杵市の「南蛮祭り」を視察していただいた。もちろん一村一品運動の現地も見ていただき、 これからの双方の地域交流を誓い合った。
 こうした交流は単にイベントだけで終わることが多い。だが、大分県はさまざまなイベントを通じて盛 り上がった機運を一過性のものにすることなく、交流を永続させたいと願っている。大分市内の商店街で は、「ポル・ト・ソール」(美しい夕日)通りをつくろうとしている。ポルトガル風の街を再現しようと、 今では定期的にポルトガル市を開いている。  臼杵市では「ポルトガル文化資料館」を建設する。もちろん、日本のポルトガル研究の中核となるもの だが、観光や地域活性化の拠点としても利用できるものにしたいと考えている。     演劇の郷・そばの郷−富山県利賀村  
 イベントがCI効果を生んだ例として、他県の事例も紹介しておこう。 「世界は日本だけではない。日本は東京だけではない。この利賀村で世界に出会う」  昭和五七年夏、日本で初めての世界演劇祭が富山県利賀村で開かれた。そのときのスローガンがこれで あった。  富山県の中心部から車で一時間半。利賀村は岐阜県と接する人口一二〇〇人の山間の過疎の村だ。 土地も豊かではなく、特産品はそばしかない。その貧しかった利賀村が、今や一転して「世界の演劇の郷」 「世界のそばの郷」として全国に知られるようになった。
 利賀村は豪雪地帯で、しかも大家族制が残されていた。戦前はすべての民家が茅ぶきの合掌造りであっ たが、次第に村外に持ち出されたり、取り壊されていった。当時の野原啓蔵村長がなんとか合掌造りを残 したいと、村内に散在していた四棟を移築し、昭和四八年に「利賀合掌文化村」を設置したのである。
 文化村とは名乗ったものの、具体的には何もなかった。だが、どこで聞いたのか、画家や人形劇団など が村を訪れるようになった。五一年二月、雪の降るなかを早稲田小劇場(現SCOT)の鈴木忠さんが訪れ、合 掌造りの民家に感激した。その足で野原村長を訪ね、「合掌造りの家を演劇活動の拠点にしたい。貸して くれないか」と申し出た。見ず知らずの者が突然村を訪間して「家を貸せ」と言う。言うほうも言うほう だが、その場で「それじゃあ、お貸ししましょうか」と、メモ書きの証文を書いた村長も偉かった。多額 の金をかけて作った文化村をポンと東京の劇団に貸したのだ。  この村長の決断が利賀村の地域おこしの始まりであった。同年八月には早稲田小劇場が記念公演を開催、 六〇〇人もの観客が訪れた。公演前の練習風景には村民も招かれ、無料で見学できた。早稲田小劇場とい えば前衛的な舞台で有名だ。村民にはチンプンカンプンであったが、熱心に演じている姿に子供たちも感 動して拍手を贈った。
 それよりも村民が驚いたのは、こんなわけのわからぬ舞台を見に、わざわざ全国から人が集まってきた ことである。しかも観客数は年々増え、ついでに観光客も増えていった。すると、今度は鈴木さんが「世 界演劇祭をやろう」と提案した。野原村長もびっくりした。実現すれば日本で初めての世界演劇祭になる。 どうやって運営したらよいのか。何しろ演劇のできる会場さえないのだ。 「野外劇場を造ろう」 村長は決心した。金銭的にも質的にも、一つの村の事業としては荷が重かった。「失敗したらどうするの か」と非難され、ハラは決めていたものの眠れない夜もあったという。
 五六年、合掌家屋を本格的な劇場に改造した「利賀山房」が、大分県出身の世界的な建築家.磯崎新氏の 設計により完成した。前面に大きな池を配した、半円すり鉢型のギリシャ風野外劇場であった。 こうして五七年七月、日本で初めての世界演劇祭「利賀フェスディバル」が開かれ、六か国から十二劇団 が参加、一万三〇〇〇人が訪れた。村はじまって以来の賑わいであった。これが利賀村の名をいっぺんに 高めた。  翌年には早稲田小劇場が国際演劇夏季大学を開校。五九年には、同じく世界演劇祭を開催していたギリ シャのデルフイ市と姉妹都市協定を結んだ。六三年からはアメリカ・カリフォルニア大学サンディエゴ校 のサマースクールも開校。利賀村は一躍世界の演劇の拠点として注目を集めるようになった。  世界演劇の拠点に加えて、利賀村は「そばの郷」計画をスタートさせた。  野原村長は郵便局長を経て、昭和四二年八月に村長に就任した。かつては、そばは非常に貴重な食べ物 で、そば団子は大のご馳走であった。村の子は小さいときからそばを挽いたり、伸ばしたりして、自分で 上手に作れるようになることが自慢であった。そこで、野原氏は郵便局長時代に「そば祭り」を開くこと を思いついた。自慢のそば一〇〇〇食分を貯金や保険のお得意さんをはじめ、地元の人にふるまった。お かげで郵便局の成績は全国でもトップ。四年連続して郵政大臣賞をもらった。これが評判になり、村長に なってからは村の事業として、「雪祭り」と同じ時期に「そば祭り」を始めた。
 六一年、第一回目の村営「そば祭り」に四〇〇〇人が押しかけた。雪は四メートルも積もっている。 そのなかで温かいそばを食べる。食べた人も、食べられなかった人も、参加者は懲りなかった。そば祭り の参加者は倍々ゲームで増え続けた。そんなに喜ばれるならと、一年中そばを体験できる施設「そば博物 館構想」が芽生えていった。 信州大学の氏原暉男教授は国際そば学会の初代全長。各国のそば栽培プロジェクトのアドバイザーを務め ている。利賀村はそばの産地ではあるが、そばのことについて学問的な知識を持っている人がいない。氏 原先生が日本で一番のそばの専門家だと知ると、信州大学を訪ね、まず利賀村で講演してもらう約束を取 りつけた。その後もたびたび信州大学を訪ねたり、利賀村に来てもらったりしながら、そばについて学ん でいった。先生の話を聞くうちに、そばが世界の食文化の大事な部分を担っていることがわかるようにな った。 「世界のそばに目を向けよう。そばのルーツを訪ねてみよう」
 そう思いたち、氏原先生に伸介役を頼んだ。
 そばの原産地は中国南部からヒマラヤにかけてといわれる。花の色は赤い。平成元年一月、その赤いそ ばを求めて、利賀村友好調査団はヒマラヤ山中にあるネバール・ツクチェ村に向かった。総勢十九人。村 長、村会議長、教育長などのほか、氏原教授、電通富山支社、それにNHKも加わった。 「ツクチェ村は非常に寒く、乾燥した横なぐりの雪風、凍った地面。子どもの靴や服はボロボロで、ヘソ が出る短いズボン。しかし、その子たちが楽隊を務めてくれ、一所懸命に体をゆすりながら大歓迎してく れた。感きわまり、号泣してしまいました」  団員の一人として参加した画家の古川通泰さんの印象だ。古川さんは以前から利賀村で絵の個展を開い ていたことから、調査団に加わったもの。ほかのメンバーも同じ気持であった。ツクチェ村との出会いが メンバーを奮い立たせた。帰りの飛行機が飛ばず、十日間の滞在予定が三週間に伸びたことも幸いした。 時間はたっぶりあった。友好調査団には村のおもだった人が参加している。その場で「利賀村のそばを考 えるツクチェ臨時議会」が開かれ、「そば博物館構想」が「そばの郷」建設へと進み、さらに「世界のそ ばを集めよう」という決起集会になった。これが「世界そば博覧会」へとつながっていったのである。
 このとき、ヅクチェ村と友好村盟約を締結。セレモニーに先立って、調査団のメンバーは一つの寺に案 内された。目を奪われたのは、壁といわず、天井といわず描かれた極彩色の曼陀羅絵図であった。宇宙の 真理と仏身を図案化したもので、チベット仏教が描いた曼陀羅の世界がみんなをとりこにした。数千年の 歴史の重み、文化の重みに圧倒されたのだ。 「こんな曼陀羅が利賀村にもあればなあ」と感心していると、案内役の僧が「これは私が描いたものです。 日本での仕事を望んでいます」と思わぬ返事。友好村盟約の最初の事業として、ツクチェの曼陀羅絵師を 利賀村に招く約束ができた。 「行動しながら考える」
 これが利賀村の地域づくりの方針だ。その年の秋に絵師三人が来村。絵師は京都や奈良の古寺を訪ね、 そのイメージを加えて、日本人にもなじみやすいように制作していった。一辺四メートルの曼陀羅が二枚、 仏画二枚の四枚が一年半をかけて完成した。制作の途中で、出来上がった曼陀羅を利賀村の豊かな自然に 活かして、心身のリフレッシュに役立てようという「瞑想の郷」構想が動きだした。 曼陀羅の絵をメインに据える「瞑想の館」の建設が始まったのである。たまたま曼陀羅の制作風景を見に きていた東京大学の田中公明講師を引き込み、構想づくりに参画してもらった。田中氏は若手ながら日本 でのチベット曼陀羅研究の第一人者である。「瞑想の郷」は平成五年四月に完成した。 「世界そば博覧会」のオープニングは平成四年八月七日のこと。九月六日までの三一日間にわたって開か れた。世界十五か国、全国三〇市町村が出展し、民間の業者も多数参加した。世界のそば名人や、地元の そば打ちおばあちゃんらが自慢の腕を披露した。同時に「利賀山房」では、ツクチェ村のラマダンスやイ ンドの舞踏団、ギリシャ・デルフィ市の民俗舞踊団をはじめ、全国のふるさと芸能が連日上演された。一 方で、そばを語り、村を語り、食文化から食糧問題まで幅広く議論を重ねる「そば談義」も毎日開催。そ ば談義レポートが毎日発行され、すべての入場者に配られた。
 入場者数一三万六五三〇人。目標は村の人口の一〇〇倍、十万人であったがそれをはるかに超えた。 どこにでもあるそばを求めて、これだけの人が冨山の小さな村に集まったのである。  利賀村の地域おこし成功の秘密は巧みなネットワークづくりにあった。野原村長のもとで全国にネット ワークを張りめぐらしたキーパーソンが中谷信一さん。役場職員で、長年、地域振興、観光に関連した部 署を担当し、そばの郷事務局長と国際文化村事務局長を経たあと、現在は国際山村体験村事務局長を務め ている。これまで二〇年余りの間に利賀村で実施された、ほとんどすべてのイベントやプロジェクトにか かわっている。
 かつて野原村長が中谷さんに出した指示は、全国のまちづくり先進地を視察すること、そして必ず人間 関係をつくってくることであった。中谷さんが視察から戻ると、野原村長は詳しい報告をさせた。全国の 特産品と利賀村の特産品との比較。郷土のものは見劣りするのか。全国の優れた観光施設や地域づくり活 動で利賀村に取り入れられるものはないか。誰とコンタクトてきたのか。中谷さんの報告はすべて村長の メモ帳に書き込まれていった。
 世界そば博覧会の開催にあたり全国三四もの自治体や民間団体の協力を得られたのも、このネットワー クをフルに活用したからだ。三一日間という長期間のイベント継続は、村の人たちだけではどだい無理な こと。そこで全国から「助っ入隊員」を募った。これに予定の二倍を超える応募があり、一四五人を採用 することができた。一つの村だけでは限界がある。ネットワークができてこそ大きな力が生まれるのだ。
 ネットワークの思わの収穫が若いお嫁さんの獲得であった。利賀村の若妻の三分の二が村外の人で、そ れもイベントがあるたびに利賀村を訪れ、そのうちにすっかり利賀を好きになり、ついでに利賀の男性を 好きになったという。平成五年度からはこうした短期の就労ではなく、若者の持つ技術や意欲を活かして もらおうと、長期的で積極的な村おこしのために人材募集を始めた。森林組合や農協、建設業種など五職 種十事業所、宿泊には村の総合センターをあてる。
 利賀村の高齢者はいきいきとそばを打ち、子供たちは外国からのお客さんにも物怖じしなくなった。 イベントの成功が村民に自信をつけさせ、村を変えていった。現村長は宮崎道正氏。野原村長の時代に村 議、村会議長として「そばによる村おこし」を進め、村長就任後に「そばの郷」「瞑想の郷」を引き継ぎ、 世界そば博を成功させた。次々と情報を打ち出す姿勢は、野原村長時代と変わらない。 「また利賀村のニュースか」と、新聞の読者にとってはおなじみの利賀村。「世界そば博のニュースを仮 に広告費に換算すると一億五〇〇〇万円ぐらいかかるでしょう」と、電通富山支社の奥野達夫次長から聞 いた。本来なら記者はほかの町のニュースも取り上げたいところだろう。しかし、利賀村が次に何をしで かすのか−他社にニュースを抜かれてはデスクから大目玉を食う。記者にとっても利賀村は気にかかる村 であるに違いない。

 ふんわりバルーン−佐賀から世界の空へ

  鳥のように空を飛びたいと願ったのは、おそらく人間が誕生してすぐのことに違いない。ガリレオは飛行 機のデッサンを描いたし、背中に羽根(?)をつけて山頂からそのまま落下した冒険野郎もたくさんいた。
 気球(バルーン)が初めて空を飛んだのは一七八三年のこと。二五分間であったが、フランス人のモンゴ ルフィエ兄弟がパリ上空を散歩している。以来、気球はスポーツバルーンとして発展した。九州でスポー ツバルーンが始まったのは昭和五三年。二年後にはバルーンフェスタ九州大会として佐賀で開催された。
 バルーンが浮く理由は、「熱い空気は冷たい空気より軽い」という原理による。大きな袋に熱い空気を 送り込めば中の空気は膨張し、さらに加熱すると軽くなる。そこで浮力がついて舞い上がるというわけだ。 三、四人乗っても大丈夫。移動は上下運動だけで方向指令装置はない。空にはいろいろな気流があるから、 バーナーの調節をしながら高度を変え、着陸地に向かう風をつかまえるのだ。
 佐賀で大会が始まるようになったのは、近郊の天山から吹き下ろす風が高度によっていろいろ変化し、 複雑な気流を生み出しているためだ。好きな人たちが集まっただけの大会であったが、そのうち「佐賀の 空は面白いよ」という声が次第に全国に広がり、五九年には佐賀インターバルーンフェスタとして、国内 三一機、国外からも十八機が参加。平成二年からはレディースワールドカップも始まり、平成四年の「1992佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」には十九の国と地域から一三六機が参加した。観客動員八 七万人。バルーン競技の合間には、「ラジコンフライト」や「スカイダイビング」といった空のイベント のほか、「お茶会」「ウェルカムパーティ」など各国の選手と市民との交歓の場が設けられている。  こうして「バルーンの町・佐賀」のイメージを世界中に発信することができたのは、多くの市民の蔭の 協力があったからこそだ。バルーンが飛ぶためには選手だけではダメ。介添え役のボランティア・クルー が必要で、しかも、きちんと訓練を受けた人でないと逆にけがをする。佐賀市では市民を対象に講習会を 行い、毎年ボランティア・クルーを養成している。地元の婦人会が朝食のサービスをしているし、会場の 清掃に取り組んでいる青年団の若者たちの姿も頼もしい。
 空を越えた交流が五年前から始まっている。ニューヨークの近く、クレンズフオールズ市もバルーンフ ェスティバルを開催しており、バルーンを通じて姉妹都市の関係を結んでいる。双方の中学生や高校生が 互いに訪問しあい、ホームステイをしながら生活を楽しんでいる。
 エピソードをひとつ。佐賀市の職員がバルーンクラブをつくり、大全に参加している。このクラブの名 前は「パパラギ」。市民ぐるみで育てていこうとする佐賀バルーンフェスク。これからも佐賀パパラギ市 民が増えていくことを期待したい。  

 

 

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