第一章 大分のCIをつくろう

ゆたけく大きなる豊の国・大分

 昭和十六年に旧制大分中学を卒業。副知事として戻ってくるまでの三四年間、私は生まれ育った大 分を離れていた。しかし、たとえ事件や災害などがあっても、大分のことが話題になると気になった。 帰省したときには真っ先に母の墓前に報告していたし、姉が作ってくれた好物の「だんご汁」を頬張 っていた。
 通産省時代、「工業立地調査法」の制定をを手がけたときも、大分を想定しながらつくったもので あるし、当時の大分県知事や上田保・大分市長(高崎山のサル寄せをしたアイデア市長として有名。 火野葦平の小説「ただいま零匹」の主人公。私の義父である)に、大分・鶴崎臨海工業地帯の造成を 進言したのも、大分の発展を願っていたからにほかならない。  私の心は常に「ふるさと・大分」にあった。ところが、なれ親しみ特別の愛着を持っているはずの地名「大分」には、わからないことが多い。早い話が、なぜ「大分」という文字を「おおいた」と読 むのか。
 大分の地名の起こりについて記した最も古い文献は「日本書紀」と「豊後国風土記」である。「日本書紀」では景行天皇十二年の九州巡幸説話の一説にみることができる。天皇は熊襲の乱を鎮め るために九州に向かった。周防から豊前の長峡県(福岡県行橋付近か)に上陸、その後「碩田国」に入ったという。天皇は碩田国の地形が広大で麗しいのに感嘆して、、「大きい田」つまり碩田と名づ けたという。 「豊後国風土記」はもう少し詳しい。天皇が豊前京都の行宮より大分に入った際、「広大なる哉、こ の郡は。よろしく碩田国と名づくべし」と言ったので、この地を碩田国といい、のちに大分になった と記している。
 しかし、実際はどこを見ても広大とはいいがたい。むしろ「大分」は「大きな段」で、古来から地形が複雑で、田んぼが細分化されていたことからきた地名ではないか。
 現在の大分県は豊前二郡(下毛、宇佐)と豊後八郡.(国見、遠見、大分、海部、大野、直入、玖珠、 日田)からなっている。古来から「豊の国」と呼ばれてきた所以である。
「豊の国」の地名の由来は「豊後国風土記』にみえる。これも景行天皇が巡幸したときに、仲津郡中 臣村で白鳥が飛んできて餅となり、芋草(さといも)が大繁殖したので、瑞祥として天皇が芋草を豊草、 国を「豊国」と名づけたとある。
 これを題材とする「白鳥伝説」を二人の舞踊家が演じた。平成五年十一月の文化庁芸術察大分公演行事のひとつで、作曲家の三枝成彰さんに全体の構成、演出を手がけていただいた。三枝さんには、「白鳥伝説」に続くチェロ協奏曲『王の挽歌』(遠藤周作著)も併せて引き受けていただいている。  文化庁芸術祭大分公演は、平成十年に開催が決まった第十三回国民文化祭の予行演習となるものだ。国民文化祭は「文化の国体」ともいわれ、全国各地の民族芸能、民謡、演劇、舞踊、美術などが 勢揃いする大きな舞台になる。「文化の豊の国」をめざすきっかけにしたい。

 万葉集四千五百首のなかに、「豊国」を詠んだ歌が十首ある。その一首。 「思ひ出づる時はすべなみ豊国の、木綿山雪の消ぬべく思ほゆ」(訳=思い出すときはどうしようも なくて、豊国の木綿山の雪のように、消えてしまうほどに思われる。万葉集巻十、歌番号二三四一) と、今では地域づくりの発祥の地といわれる由布(湯布院)を歌っている。 『古事記』『日本書紀』にも大分を「豊国」と表現しており、本居宣長の「古事記伝」では「豊とはゆたけく大きなる意なり」と解説している。
 当時の田には稲穂が実り、富の象徴とされていた。その稲と同じように貴重であったのが紫草であ り、古代においては税の役割を担うほどであった。紫草は「ムラサキ科の多年草。高さは約五〇センチ、日当りのよい草地に稀に自生。夏、白色の小花を開く。根は紫色、乾燥したものを生薬の紫根と いい、解毒剤・皮膚病薬とするほか、昔は重要な紫色の染料とした」(広辞苑)
 昭和五九年、太宰府市の大宰府史跡付近から木簡が出土し、豊後国海部郡で栽培された紫草が大宰府に納められたと記されていた。「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(万葉集巻一、歌番号二〇)  額田王がかつての夫、大海人皇子(のちの天武天皇)に詠んだ歌である。大海人皇子はこう応じてい る。「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」(万葉集巻一、歌番号二一)  古代の人々にとって、最適の求愛の場は紫草の野であった。愛が至高のものであるように、愛の色を染めだす紫草も他の草木とは区別されていた。
 朝廷の役人の冠や衣服が紫系であったし、紫式部が『源氏物語』のなかで、光源氏の最愛の妻を「 紫上」と命名し、当時の人々にとってあらゆる愛の要件を備えた女性として描いていることからも、 紫には特別の思いがあったに違いない。
 天平九年(七三七年)『豊後国正税帳』によれば、大分県西部の玖珠郡や、南西部の直入郡にも紫草園があったようだ。当時、紫草の精製はほとんど大宰府で行われていたと考えられていたが、史跡か ら出土した木簡は、海部郡で精製まで行われていたことを我々に教えてくれる。これは、古代の海部郡にも精製のための手工業施設があったことにほかならない。
 大分は古来から農業の恩恵を祝福された地であり、豊かな土壌とともに「愛」が育つ風土があったのだ。

  「何とかして、大分を売りたい」

  豊かな地であった大分。
 しかし、昭和三〇年代から四〇年代にかけ、国全体が高度成長を迎えた頃、大分は都会へ労働力を供給するにすぎない県であった。中学を卒業した子どもたちが、大分港から関西へ就職する門出を見 送るたびに、「これは人買い船じゃ。何とか企業誘致をして大分に就職させねば」と、上田大分市長が嘆いていた。
 私が副知事として戻ってきた昭和五〇年頃も、大分の知名度は呆れるほど低かった。工業誘致のために東京に本社のある企業に行き、「大分県から来ました」と言っても、「大分ってどこ?」と怪訝な 顔をされるほど、大分の名は知られていなかった。 企業誘致は他県との競争だ。「大分は九州の東にあって……」などと場所の説明からしなければなら ないと、それだけで不利になる。なかには「ダイブンケン」と読む人もいたくらいで、「別府温泉が ありまして……」と説明してはじめて、「ああ、別府県の大分ですか」と、笑い話のような反応が返 ってきたほどであった。
 福岡県は九州の中心地。熊本県には火の山・阿蘇があり、長崎県にはグラバー邸があり、オランダ坂がある。鹿児島には桜島だ。それぞれの貝にはそれぞれの強烈な個性がある。ところが、大分県に は別府温泉とサルの高崎山ぐらいで、これといったものはない。「何とかして、大分の名前を売りたい」
 そんな思いを抱き続けてきた。大分に対して良いイメージを持ってもらわなければ、企業誘致にし ても、都会の学生を大分に就職させるにしても、大分という名前を聞いただけで「行きたくない」と いうことになる。 最近は企業のCI(Corporate Identity=企業の個性)活動が活発になってきた。「社名の変更」や「ロゴタイプ・シンボルマークの作成」をしたり、なかには「経営理念(スローガン)・社是を変更」した ところもある。大分でもかなりの企業が取り組んでおり、CI花盛りといったところだ。企業イメージ のアップによって営業成績が伸びれば、ひとまずCIの目標は達成されたことになろう。
 自治体にもCI(Community Identity=地域社会の個性)が欠かせないが、自治体CIが企業と異なるのは、到達目標が数字として表れてこないことだ。一村一品の販売額が伸びればCI効果が出てきたともいえるが、これはほんの一面にすぎない。地域のイメージアップにより、そこに住む人たちが地域を愛し、地域に誇りを持ってその地域に住むこと----これが目標である。一村一品運動の発想もここから生 まれた。
 さて、地域のイメージをいかにして高めるかと考えているうちに、ふと浮かんだのが「郷土料理」 であった。大分には日出町の城下カレイや姫島村の車えび、豊後水道の潮流の遠いところに棲む関ア ジ、関サバなど、お国自慢の食べ物が揃っている。そんな大分特産の味を東京に持ち込んで、盛大に大分の祭典を開こうと考えた。昭和五六年十月、「'81大分フェア」と名づけた祭典には三〇〇〇人 が出席し、大成功を収めた。
 同じように、「大分国際車いすマラソン大会」や、高齢者の生きがいを考える「ねんりんピック」 も生まれた。これらのイベントの詳細はあとで述べるが、いずれも大分の名を高める結果になった。
「大分の二度泣き」という言葉を聞いたのは昭和電工の鈴木治雄会長(現名誉会長)からであった。 東京本社に勤める人が「大分転勤」の辞令をもらって「泣く」。企業としては地方戦略の一環として の人事であっても、当人にとっては出世コースからはずれた都落ちとしか思えない。ところが、再び 大分からの転勤を命じられて「もう一度泣く」。嬉しくて泣くのではない。あまりにも大分の住み心地がよくて、「大分を離れたくなくて泣く」のだ。これが「大分の二度泣き」の意味。 実際に大分に新居を建て、東京には本人だけが赴任した人もいる。「逆単身赴任です」と笑って大分を離れたが、正月と夏休みには大分に「帰ってくる」という。 知事は地域のイメージを売るセールスマンのようなものだ。要は、いかにして地元を日本、いや世界 に売り込んでいくかである。

  CIは東京一極集中への対抗策

 東京一極集中はますます激しくなっている。これを情報発信の面でみるとさらにひどい。テレビのキー局や全国紙の本社、大手出版社は大半が東京にあり、新聞、雑誌などの定期刊行物や民放テレビ 番組の八割以上が東京発だ。東京の事情は全国に伝わるが、地方からの情報は伝わりにくい。 「平松さん、"上り記事"という言葉を知っていますか」
 作家の堺屋太一さんはマスコミにも顔が広い。
 「地方のニュースが全国に報道されるのは、伝統行事とスポーツ、事件、事故、選挙の五つだけで、 これ以外の記事を"上り記事"と称する」と、堺屋さんから聞いた。  たしかに、地方の記事が載っているようでも、伝統行事、スポーツ、事件、事故、選挙を一回赤鉛筆で削って、どれだけ残るか見るといい。実に無残なもので、これでは地方の新しい文化など生まれ ようがない。
 ひと昔前は、地域ごとにそれぞれ独自の文化が顕著に存在した。もともと文化とは英語のカルチャ ー。「人間が土地を耕し、収穫を楽しむ」(木村尚三郎『「耕す文化」の時代』)のが文化であり、地域を離れての文化は成立しない。東京がコンピューターの本体であるかのごとく、情報の巨大な受発信基地となり、地方が端末化する。日本全国が均質化、東京化しつつある現状は、むしろ文化の喪失に等しい。民主主義の根幹は価値の多元性や個性化にあるはずだ。情報の一極集中は思想、思考の一 極集中をもたらす危険性をはらんでいる。
 これまで大分県が取り組んできたCI運動は、コンピューターの本体を地方にも置こうとするもの。 まさに「情報の東京一極集中」への挑戦であった。
 いま、日本は世界中から批判されている。発展途上国や国際機関へのODA(政府開発援助)額は、アメ リカを抜いて世界のトップであるにもかかわらず、国際貢献をしていない、経済侵略ばかり考えてい るという。これでは"ムダ金"というもので、相応の評価は受けて当然のことである。国も人も「日本」 をPRしてこなかったからだ。国と国との外交はもちろん大切だが、地域住民には本当の理解は広がらない。世界中の地域と地域の住民が本音の交流を積み重ねることによって、国益の衝突を緩和し、ひ いては相互理解にたどりつくのだ。
 大分県のCIは、地域のCIであると同時に県民のCIである。一人ひとりがグローバルに考え、ローカ ルに行動していく。まわり遣のようだが、それが日本のイメージアップにもつながっていく。
 国もCI活動が必要な時期にきているのではないか。

 大分だから始まった一村一品運動
「大分のイメージを高めよう」その手段が一村一品運動であった。

 知事になる前の四年間、私は副知事として地方行政を勉強した。県下各地をまわって地元の方々に 会うと、判で押したように、同じ言葉、同じ話が返ってきた。「道路が悪い。人口が減って複式学級だ。無医地区で医者もおらん。行政は何もしてくれん。予算がねえから何もできん」
 無い無いづくしの嘆き節ばかりで、村の若者が何かやろうとしても、「そげんこと言うてん、うまくいかん。ワシャ、ヨダキイ」「ヨダキイ」というのは、大分県では"横綱"格の方言だ。県民性をよく言い表している。面倒だ、何 もやりたくない、口先ばかりで実行が伴わない。  嘆き節、ヨダキイズムを追放しなければ大分に未来はない。その答えを探るヒントは大分県の地形や歴史にあった。
 冒頭に述べたように、「大分」とは「大きな段』の意味である。狭い田が多いということだ。地形が複雑で、全面積の七〇%が林野。日田盆地、由布院盆地、竹田盆地と盆地が多く、広大な平野に恵まれない。大分県でいちばん高い久住中岳(一七九一メートル)の裾野に広がる久住高原にはリンドウの花が咲き、海岸部の温暖な地では甘夏柑が収穫される。日本列島を垂直にしたような作物分布を示し、 多品種少量型の産品が多い。
 一方、大分県の歴史をみると、かつてはキリシタン大名で有名な大友宗麟(一五三〇〜八七)がポルトガルとの貿易、つまり南蛮貿易を進めた。日本で初めて聖歌やビオラが奏でられた地といわれてい るし、若きポルトガル人医師が西洋の外科手術をほどこしたのも、この大分の地であった。つまり、 大分は日本での西洋音楽、西洋医学発祥の地である。
 ポルトガルで作成された十六世紀の日本地図には、九州の中央に「Bungo(豊後)」と記されており、 宗麟の勢力が九州全体に及んでいたことを示している。しかし、彼の死後、秀吉は大分を小藩に分割。 以来、明治にいたるまで小藩分立のままで、最も細分化されたときは八藩七領にもなった。
 小藩分立の歴史は、県下各地域に多様な伝承、文化、風俗をつくりあげたともいえるが、他方でま とまりの悪さ、スケールの小ささ、小成に安んじる県民性を育てだともいえる。
 一村一品運動を提唱した背景には、このような「多品種少量型の地形」と「小藩分立の歴史」とい うバックグラウンドがあった。従って、この運動は、同じ九州でも平野が多く、かつての雄藩であっ た福岡県や熊本県では成立し得ない。それぞれの地域が自分の地域の特性をしっかり見きわめて、どういう運動を展開していくかを判断すべきであろう。
 私は副知事時代にも県産品愛用運動に力を入れた。当時、県外からお客さんがやって来ると、酒は全国で有名な銘柄もの、料理もありきたりの会席料理で、大分の伝統料理を出すことは恥ずかしいという気風があった。私は東京にいた頃から、大分の郷土料理に愛着を持っていた。大分に帰ると地酒 を呑み、「だんご汁」を食べた。関アジ、関サバ、関タイ、それに日出町の城下カレイも絶品だ。副 知事時代、東京に行ったときにはみんなに吹聴したものだ。  県産品愛用、郷土にしかない料理のPRを手がけていたので、これを全県下に及ぼしていこうと考えた。 この発想が一村一品運動を誕生させたのである。

  大切な「三つのP」

 一村一品運動を提唱したのは、昭和五四年十一月に開いた、知事になって初めての各町村長との懇談会と、これに続く十二月の各市長との懇談会の席上であった。  一村一品運動とは、その村が誇れる産品をつくり上げる運動だ。単なる特産品づくりではなく、各市町村ごとに何か一つ誇れるものをつくろう。カボスやシイタケのような農産品でもいいし、観光で も、民謡でもいい。何でも売り出して、全国的にも通用するものにしようという運動である。だから、そう簡単にできるものではない。  そこで、この運動を広める手段として、テレビ放送を使ってPRした。県の広報テレビ番組を市町村に無料で提供し、市町村の自主企画で「おらが村自慢番組」を制作させた。さすがにテレビの効果は大きい。放送の日には、私の知事公舎にも「面白かったよ」という電話がかかってきたし、身近な産品や知人がテレビ番組に顔を出すとあって、地元でも反響が大きかった。放送は二年続き、優れた番 組には「知事賞」を贈ることにした。 「隣ん町ではこげな(こんな)もんを作っちょる。なんで(なぜ)、うちん村でできんのか」と、村長に食ってかかる若者がいたくらい競争が激しくなり、テレビ放送にかける市町村の企画担当者の熱意も強烈なものがあったようだ。
 外へPRしようとすれば、まず、これから一緒に運動に取り組む「内」の人へのPRが先決である。
 私は通産省時代に多くの新しい仕事を手がけてきた。水の問題といえば厚生省か建設省の管轄。通産省は門外漢であったが、初めて工業用水事業に取り組むことになった。まず、工業用水道がなぜ必要かを訴えるパンフレットを作り、これが「わかりやすい」と好評を得た。工業立地調査のための法制定や、日本の情報化社会の先駆けとなったコンピューター政策にも取り組んだ。そして、こうした新しい事業を始めるときに守るべきことをいくつか体験した。
 第一番目は、いくら重要だと唱えても相手には理解されにくいということ。説明の仕方が大切なのである。大蔵省の予算当局、国会議員、さらに一般の人に理解されなければ、事業は進まない。私は県庁の人に「三つのPが大事だ」どいつも言っている。物事を成功させるためには、「Planning=計 画」と「Performance=実行」も大切であるが、その中間の「Presentation=提示、説明の仕方」が 大事なのだ。  昭和五八年、大分県がテクノポリス構想を打ち出した。「テクノポリスちゃ、何のことかい」と、 郡部の人から言われたことがある。技術先端産業といっても、一般の人にはなじみがない。技術先端産業のかなめは人材育成にある。そこでまず、子どもたちにもわかってもらうように、『豊くん、空飛ぶICに乗る』と題する紙芝居を作った。難しい話でも、紙芝居を使えばよくわかる。当時は紙芝居を抱えて県下を「興行」してまわったものだ。いちばん理解してくれたのが市町村長さんや議員さ んであったのも、予期せぬ効果であった。おかげで「テクノポリス」という言葉も県民によく知られ るようになった。
 県庁では毎年職員の県政アイデア発表大会を開き、これまでに十二回を数えている。私がいつも 「三つのPが大事」と言っているせいか、警察本部や教育庁も含め各部の"代表選手"が趣向を凝らし て、次々とユニークなアイデアを披露してくれる。平成四年度は十事例。「都市アメニティ政策」 や「国東半島の観光振興策」「保健所のあり方」といった、日常の業務を通じて考えていたテーマを選んでいた。限られた時間のなかで、図や表を持ち出したり、自主制作の映画を上映したりと、聞く 人たちにわかってもらおうという姿勢がよく出ていた。別府の観光浮揚を訴えた職員は浴衣姿での登 場で、さすがにインパクトが強かった。
 二番目は、重要性をわかってもらうために繰り返し説明することである。行政とはPRである。PRとは宣伝ではない。「Public Relations」つまり一般住民との関係を良くするための広報である。 従って、行政がこれからの大分県をどう考え、どう良くしていこうとしているかを、わかりやすく、 繰り返し説明して理解を得る。この姿勢が必要だ。
 三番目は、先取りをしていく政策を実現するためには、自分自身が積極的に現場に出かけ、現地の人の話を聞きながら、政策に取り入れていく姿勢が大切だということである。机上の空論ではいけな い。コンピューター政策にしても、企業で真剣にやっている研究者から話を聞いて、どこを国が援助すればいいかを考えた。私は、一村一品運動を始めるときや、テクノポリス、マリノポリスといった県政の重要プロジェクトについて、県下各地域で、各職域で、または女性やお年寄りといったさまざ まな階層の人たちと、「知事と語る会」を開いて理解を求めた。これが行政と県民との相互信頼関係を深めることにつながっていくのである。
 これからの行政は「Cheap Government(少ない予算で効率の上がる行政)」をめざさなければならない。自分で予算を使い行政を進めるより、関係業界にやってもらうほうが得策だ。それぞれの業種が自分で自分の問題を考え、行政はその考えを後押しすればよい。これが第四番目。いかにすれば民間の活力、民間の競争力を生み出していくかを考えるのである。

  一村一品運動は実践だ

 一村一品運動は理論ではなく実践である。実践を通じて地域にやる気を起こさせる運動だ。従って、モデルを示さなければ具体的な理解は得られない。 「この町ではこうやった。だから所得が増え、人口も増えた」という成果がなければ、具体的な理解は得られない。この手法は企業でも大事であると思う。口で言っただけでわかるようなら、役職員は いらない。役職員はいかに多くの事例を知っているか、また、どんなに困難な事態になっても、これ まで学んできた経験から解決策を見出していけるかどうかによって、その価値(存在理由)が問われる。  次章では、一村一品運動によって地域が活性化された事例をあげることにしよう。  

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