ありふれた「三つ葉のクローバー」として・・・


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    お知らせ

  • 小児科 別府医師は、1月21日(土)を休診します。
  • インフルエンザの予防接種を10月1日より、2月28日まで行います。

  • 小児科での受診はWEB予約をお願い致します。
     予防接種の際は必ず「母子手帳」をご持参ください。


    <更新情報>
  • 11/28 坪山医師のエッセイ「皇帝ダリア」をアップしました。
  • 11/10 甲斐事務長のエッセイ「九重山群トレイルランニング縦走記録(5座)」をアップしました。
  • 11/1 甲斐事務長のエッセイ「新しい檸檬の木」をアップしました。
  • 10/31 坪山医師のエッセイ「ウルッときたひと言」をアップしました。
  • 9/26 坪山医師のエッセイ「静かな叫び」をアップしました。
  • 8/29 坪山医師のエッセイ「草取りにみる覚悟」をアップしました。
  • 7/28 坪山医師のエッセイ「悲しみを・・・」をアップしました。
  • 6/28 坪山医師のエッセイ「ワクワクするんです・・・」をアップしました。
  • 6/21 甲斐事務長のエッセイ「女性の情緒」をアップしました。
  • 6/17 甲斐事務長のエッセイ「マテオ・ファルコーネの本懐」をアップしました。
  • 5/23 坪山医師のエッセイ「砂漠の駝鳥(ダチョウ)」をアップしました。
  • 4/25 坪山医師のエッセイ「悩みをどうすれば・・・」をアップしました。
  • 4/22 甲斐事務長のエッセイ「日本語の流麗さ」をアップしました。


  • 清川診療所は坪山明寛医師が月曜から金曜日まで診療致しますが、水曜日の午前中は休診し、三重東クリニックで診療(完全予約)致します。
  • 三重東クリニック、清川診療所では、睡眠時無呼吸症候群(SAS)の検査を実施しております。
  • 小児科 予約システムを導入しました。携帯電話やパソコンから診察の順番取りができます。
    「小児科の待ち時間について(お知らせ)」 (pdf) です。ご一読ください。
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  • 予防接種は予約制です。必ず電話をしてください。

  • 特定健診が受診できます。予約制です。受診券と保険証を必ずご持参ください。

    ご案内(pdf)
    診療受付 月〜土曜(水・土は午前のみ)
    午前 内科・小児科 8:30〜12:00
    午後 内科 13:30〜17:00
       小児科 15:00〜18:30

    〒879-7104
    豊後大野市三重町小坂4109-61
    TEL 0974-22-6333
    FAX 0974-22-6341

    統括管理者    内科  宇都宮 健志
    副院長      内科  飯尾 文昭
    院長       小児科 別府 幹庸
    清川診療所所長  内科  坪山明寛(水曜午前のみ)
    休診日 日曜・祝日・年末年始

    □関連施設のご紹介

  • 清川診療所
     院長 坪山 明寛
  • きよかわリハビリテーションセンター もみの木
  • きよかわ介護サポートセンター 三つ葉


    ■動画のページ
     FM大分、毎週金曜日の朝、7時50分より、「関愛ヘルシーミニッツ」で健康アドバイスをしています。


    ■患者さまからの声
     当クリニックでは皆さまからのご意見をいただきながら、今後の運営に活かしていきます。貴重なご意見ありがとうございます。


    ■スタッフのエッセイ集です
    過去記事: /2015年(17篇) /2014年(19篇) /2013年(17篇) /2010年〜2012年(41篇)

    ■「皇帝ダリア」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.11.28
    ■「九重山群トレイルランニング縦走記録(5座)」三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2016.11.10
    ■「新しい檸檬の木」三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2016.11.1
    ■「ウルッときたひと言」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.10.31
    ■「静かな叫び」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.9.26
    ■「草取りにみる覚悟」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.8.29
    ■「悲しみを・・・」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.7.28
    ■「ワクワクするんです・・・」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.6.28
    ■「女性の情緒」三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2016.6.21
    ■「マテオ・ファルコーネの本懐」三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2016.6.17
    ■「砂漠の駝鳥(ダチョウ)」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.5.23
    ■「悩みをどうすれば・・・」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.4.25
    ■「日本語の流麗さ」三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2016.4.22
    ■「物言いと人間関係」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.3.23
    ■「なぜなの・・・」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.2.22
    ■「楪(ゆずりは)に寄せて」清川診療所 所長 坪山明寛 2016.1.18
    ■「翌朝のポトフ」三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2016.1.13








    2016年11月28日(月)
    「皇帝ダリア」 清川診療所 所長 坪山明寛 

     それは良く晴れた10月20日の朝だった。皇帝ダリアが高々と茎の頂点に咲いていた。薄紫の大柄な花弁が青空に映えて美しかった。花を愛でながらよくぞ咲いてくれたとホッとした。今年は猛暑のために、ところどころ葉がカラカラに焼かれ成長が遅れだしたので、何回か「今年はダメか」と諦めの嘆息をした。本で水やり、肥料、病害虫対策と調べながら見守った。努力の結果、今年は昨年よりも育ち、軒を超えた頂点に10数個の大輪の花が見事に咲いてくれた。
     皇帝ダリアを初めて見たのは、数年前に京都の相国寺の辺りを歩いていた時だった。高い塀を超え咲いていたのを見たのだ。その時は、名前は知らなかった。気高く堂々とした花は、とても印象深く名前を調べ、「皇帝ダリア」と分かったときには「そうだ!ぴったりだ!」と頷けたのを覚えている。正に「名は体を表す」そのものだと思った。原産地はメキシコで、木立ダリアとも言われるが皇帝ダリアの方が相応しいと思っている。
     最近この季節になると、あちこちで皇帝ダリアが、垣根越しに威風堂々と花を咲かせているのを見かけるようになった。特にJR豊肥線の大分大学駅の横の土手にある数本は素晴らしい。誰かが世話しているらしく、この場所では、夏は向日葵も見かける。通勤の時によく渋滞する所なので、ここの花を眺めて心地よい気分になり、今日も頑張るぞという力が湧いてくる。花は人を元気づけ、和やかにしてくれる。
     花と言えば、鹿児島出身の私は、小学生の頃訪れた、桜島の古里公園にある林芙美子文学碑に刻印してある「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」を思い出す。このフレーズは、広く人口に膾炙されている。私は、この言葉は扶美子自身の人生を花に譬えて、花の咲いている華やかな時期は短く、咲くまでの雨風に耐えた苦しい時期が多かったなあと、我が人生を嘆いているのだと鑑賞していた。まさに扶美子の人生そのものを口ずさんだ言葉だと。しかしこのフレーズには原詩があり、別な意味を表していたことを最近知った。原詩はこうだ。


    風も吹くなり
    雲も光るなり
    生きてゐる幸福は
    波間の鴎のごとく
    漂渺とただよい

    生きてゐる幸福は
    あなたも知ってゐる
    私も知ってゐる
    花のいのちはみじかくて
    苦しきことのみ多かれど
    風も吹くなり
    雲も光るなり

    となっていた。この詩は、扶美子が赤毛のアンの翻訳者村岡花子に送った詩とのこと。原詩を読むと、「花の命はみじかくて 苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり」とつながっていた。人生は苦しみだけでなく希望があることを示唆している。最近この原詩を刻印した文学碑が、鹿児島市の城山観光ホテルに建立されたと聞いたので、訪れて扶美子の人生に思いを馳せてみたい。
     さて、花は咲く時まで気を抜かず懇ろに世話しないと咲いてくれない。面倒をみると時季が来たら、見事な花、可憐な花をご褒美にくれる。我が家の庭はとても狭いけれど、頂いた花や木の苗を所狭しと植えてきた。いつの日だったか花の咲くものを数えてみたことがあった。春は山吹、豊後梅等20種、夏は沙羅、紫陽花等18種、秋は秋明菊、石蕗等7種、冬は皇帝ダリアが仲間になり3種となった。皇帝ダリアは、我が家の初冬の庭に彩を添え、寒さに向かう花の少ないこの時期に、心を和ませてくれる大切な花となっている。






    2016年11月10日(木)
    「九重山群トレイルランニング縦走記録(5座)」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

    期日:2016年11月3日(木)
    目的の山域:大分県竹田市九重山群
    コース概要:長者原~久住山~中岳~稲星山(いなぼしやま)~鳴子山(なるこやま)~白口(しらくち)岳~鉾立峠~朽網(くたみ)分れ~レゾネイトクラブくじゅう
    参加者:4名(K院長、U院長、K主任、甲斐)
    車両:2台(出発地と到着地に各1台)

     記録に残すのは頭に無かったが、K院長が60歳になった時にもういちど同じコースを走ると言われたので、立案者としての責務として山行記録を残すべきだと思った。今回は5座登頂したが、ネットで調べてみると多くのバリエーションで楽しんでいるランナーもいる。しかし、そのどれもが単に往復だったり、その変化であったりして、反対の方向に縦走するのは見つからなかった。今回の記録をネットに公表することによって、多くの岳人やトレイルランニング(以下トレラン)を楽しむランナーの一助になればと願うし、くじゅうを大切にする気持ちを持ち続けてほしいと考える次第である。

     昨年11月、由布院盆地西方に鎮座する福万山(ふくまやま。元々は伏魔山と呼ばれていた)のトレランから一年が経過し、それぞれのランナーの走力を考慮し、今回はシリアスなプランを立てた。出発地と到着地が同じというのは、車社会にあっては当然のこととなるが、自分の学生時代は電車とバスを乗り継いで登っていた訳で、むしろ終点が相違するというのが当たり前のことだった。
     立案において意識したのは、縦走の楽しさを味わってほしいということだった。コースの長さと時間を考慮して可能かどうかを見極めることが先ず必要で、何とかできそうだが無理をしていないかとの自問もあった。女性的山容ではあるが、高低差や時間的制約を超えて、いつか駆け抜けたいという気持ちも心の片隅にあった。コース、時間、体力等を考慮し、最終的に友人の山岳ガイドに相談し、コースを決定した。
     山において地図上の歩行時間と走る時間の相関関係はどうだろうか。数年前の長者原から久住山往復の記録は、歩行時間の65%の実績だった。この数字を今回のコースにそのまま当てはめて考える訳にはいかないが、等高線から読み取る限りは65~75%とみるのが妥当ではないかと考えた。従って、決して無理なタイムスケジュールではないと判断したが、天候の急変やメンバーのアクシデントを杞憂した。しかし、結果として歩行時間の68%となり、朽網分れに着いたときは安堵した。短時間のトレランなら少しの誤差は何とか取り返すことはできるが、長くなると誤差は益々大きくなり、それが安全を損なうこともある。
    今回は単なる縦走だったが、クロスする交差縦走もある。この場合は、メンバーが分かれるし、一方の難路はもう一方ではそうではないこともある。いつか希望があれば交差縦走も選択肢の一つにしたい。

     さて、久住と九重の違いは非常に分かりにくいと思うが、山は久住山、総称は九重山群、町は久住町(くじゅうまち)と九重町(ここのえまち)とあり、論争の時期を過ぎて、今は「くじゅう」とひらがなで表記しているケースが多いようだ。
     少し歴史に触れてみよう。大分市在住の成田勝氏の「朽網のキリシタン」より、冒頭部分を記述する。
    「万葉種巻第十一に『朽網山(くたみやま)夕居(い)る雲の薄れ行かばわれは恋ひむな君が目を欲(ほ)り』の歌があり、その大意は『朽網山に夕方かかっている雲が薄れて行ったなら、私は恋しく思うであろう。わが君の顔が見たくて』とされている。この歌の『朽網山』は現在の『久住山』の古名であり、その東側一帯の地域が、かつての『朽網』であった。すなわち、久住町のうち、都野、直入町の全部、野津原町の今市及び庄内町のうち阿蘇野を含む地域である。」
     1500年代の朽網は、ポルトガルのリスボンから来たイエズス会士達が足を運び、キリスト教の布教が行われた。この山間僻地に豊後で最初の教会が建てられ、数百名の洗礼者があり、迫害の歴史があったにも関わらず、それは18世紀の終わりまで信仰の歴史があったという。興味のある方は、「朽網のキリシタン」を検索すれば詳細を記述しているのでお読みいただきたい。

     大分市宮崎の自宅に3人が集合し、2台の車に分乗して、先ずはレゾネイトクラブくじゅうを目指した。予定通り6時15分に出発し、今市経由でレゾネイトの駐車場に着いたのは、7時15分頃だった。吹きおろしの強い風が寒さを募らせ、今日の旅の不安が頭を過ぎった。ここに下山するので、デポの車に着替えなどを積み替え、自分の車に4人乗車して長者原に向かった。途中の牧ノ戸峠付近は早朝にも関わらず駐車場は満車のようで、路肩のスペースに多くの車が停まっていた。紅葉の時期を狙って来たのだろうが、この辺りは特に鮮やかな色を見つけることは出来ない。長者原の駐車場は満車で、やや遠い所に停めて出発の身支度を調えた。寒さは4度くらいだろうか。ロングTシャツに半袖Tシャツを重ね着して走り始めた。
     レストランの裏が林道の入り口で、登山届の箱が設置され、用意しておいた届出を投函した。登山届に関しては、生命に関わることではあるが、多くの議論があり、自治体によって任意だったり、強制だったりしている。ただ、届を出す人は計画もしっかり立てているし、安全意識を持っているので遭難は起こさないと考えられる。あくまでも救助する者にとって必要な情報だし、自分の生存率を大きく高めるもので、何よりも自分や家族のためにそうしなければいけないと考えている。面倒くさいことだが必要なことだと思うし、社会で居心地をよくするためには、社会がどうであっても自己への規律があり、自己統制感が揺らがないことも必要ではないかと思う。登山保険を掛けていても、届出の無い人には万が一事故が起きても保険が支払われないという事例もある。任意で届出をしている人が多く自己責任の範疇かもしれないが、多くは危険を経験していない人が殆どで、安全と危険の分水嶺が不明なのだと思う。危険を目の当たりにすれば届出の大切さを痛感するが、かといってそんな危険には遭わない方がいいに決まっている。警察署への届出も可能だが、真に厳粛に考え自分の安全を確保しようと思うなら、家族、警察署、設置箱それぞれへの届出が必要だと思う。

     長者原の自然道をゆっくりと進む。多くの登山者を追い越して行く。登山者は走る者をどう見ているのだろう。単純に驚いて声を出す人や、異端児を見るかのような眼差しを感じるときもある。そんな時に挨拶は欠かせないものだ。K主任は率先垂範の言葉がよく似合う。同じ時間に同じ目的をもって同じ道を進んでいる仲間として、私たちは通じるものを持っている。明るい声と人懐っこい笑顔に、静かな早朝の異様な足音はかき消されてしまった。

     以前、トレランが「ランニング登山」という名称だった頃、霊山や高崎山、由布岳や久住山で出会う登山者の反応は、驚きそのものだった。ところがトレラン人口が増え、登山者とランナーの間にトラブルが出てきた。登山者の後ろを黙って一気に駆け抜けて行くランナー、登山道を外れて貴重な植物を踏み荒らすランナー、一部の無謀な行為がすべてであるかのように取り上げられた。新しい行動は常に誤解がつきものだが、既存にも問題が存在する。ゴミの持ち帰りをしない、キジ撃ちのマナーがない、冬期のラッセルの平等化等々、多くの問題がある。私は登山者であり、ランナーでもあるので、後ろから走ってくるランナーが黙って通り過ぎることを残念に思う。足音は恐怖であるし、そこに声掛けがあれば自分も励ましの言葉を掛けてあげられる。左を通りますと声を掛けてゆっくりと追い越すなら、自分は気持ちよく立ち止まって通過させ、ミヤマキリシマの一枝は折れなくてすむだろう。

     平成24年7月の九州北部豪雨によって、くじゅうや阿蘇の山塊は崩落し、危険個所が多くなった。山肌が土色に露出し緑色に変化する時間もなく、追い打ちをかけるかのように、平成28年4月の熊本・大分地震により、再び危険に晒されている。土砂崩れが登山道を破壊し、不安定な岩が落石の危険を孕んでいるという認識を持つことが必要だ。安全を確保するためには、常に状況を観察する意識を持ち、即座に移動したり、早めのリタイアも判断しなければいけないのだ。
     諏我守越え(すがもりごえ)に着き、すぐに北千里ヶ浜に降りて中宮跡を訪ねた。白水寺の中宮跡は、小高い丘の上にあり、記憶を辿りながら探した。地震で傾いていたが、数人の大人でも重くて直すことができない。なんとかその傾きを直したいとも思ったが、数人の力では無理だろうし、怪我をしかねない。上宮跡は中岳辺りにあるようだが、確認できていない。

     北に方向を取れば法華院温泉である。20代の頃、何度も友人とこの辺りを徘徊したが、北千里ヶ浜を通るたびに記憶のなかの平治号が出現する。冬の野営は寒かったが、テントの中で仲間とワインを飲んだ。アルコールに弱い自分は、それでも開放感ゆえに飲み過ぎてしまった。寒さと気持ち悪さで、雪を踏みしめながら温泉に向かいやっと湯船に入ることができた。あとは最悪の状態となり、浴槽の床でしばらく横になっていた。そんな若気の至りの苦い思い出がある。
     翌朝三俣山を右に見ながら登っていくのだが、一匹の人懐っこい犬がついて来る。そしていつの間にか私たちの前を歩き、付かず離れずの距離でまるで道案内をしてくれるかのようだった。ちょうど中宮跡辺りに来ると、やがて私たちと離れ、法華院の方向へ戻って行った。後年東宝が「奇跡の山 さよなら、名犬平治」という映画を1992年に製作し、平治号は全国的に有名になった。登山者に付いて来たり道を案内するというのは、忠犬ハチと同様に、秋田犬だからだったのだろうか。

     久住山の歴史に、法華院温泉は無くてはならない。法華院温泉ホームページの「歴史」を抜粋して紹介してみよう。
    「この地に明和7(1770)年より伝わる「九重山記」によると、正中元(1324)年、人皇2代綏靖天皇を奉請して、12所大名神として祀ったのに始まり、 文明2(1470)年、英彦山より養順法印が入山し、修験道場を建立、法華院白水寺と呼ばれるようになった。 戦国時代に大友、島津の争いに巻きこまれ堂塔全てを焼失し、一時衰退をするが、11代目に勝光院豪尊という傑僧が出て、苦行の後 院を再興し、慶安2(1649)年、現存する十一面観音と不動明王と毘沙門天を安置した。江戸時代になり、竹田岡藩の祈願所として、武運長久、家内安全を祈願するとともに、国境の警備の任にもあたっていた。 明治になって神仏分離となり、岡藩からの禄もなくなり、4つの支院は山を下り、弘蔵坊だけがこの地に止まった。明治15年に火災により、本坊及び支坊は皆焼失した。この頃には登山をする人も多くなってきたので、24代弘蔵孟夫が山宿を始めた。法華院温泉山荘の創業である。戦中、戦後も多くの登山者によって支えられ、弘蔵祐夫、岳久と受け継ぎ、宿としては、現在3代目、お寺としては26代目となる。」
     数年前の冬に妻と歩いて温泉に来たことがある。平日の温泉の窓から見える三俣山は、白く静かで優雅だった。九重町田野にカナディアンヴィレッジというログハウスがあり、山岳ガイドの長尾武彦さんが経営している。例年のように高所トレーニングで第一生命駅伝部が夏合宿をここで行い、この辺りを走り込んでいる。長尾さんファミリーは不定期ではあるが、法華院山荘でカントリー&ウェスタンの演奏会を行っている。彼の歌声は何度か聴いたことはあるが、思い出深き山荘でカントリーを一緒に歌いたいと秘かに思っている。

     中宮跡の丘を降りると先日来の雨でできた小川が流れていた。水の流れはほっとするものがあり、透明な清水につかの間の平安を覚えた。くじゅう分れへの登りは走ることはできない。K主任が先頭を引っ張り、U院長が続き、K院長はマイペースでカモシカのように跳んでいる。ずっと自分を気遣っていてくれたが、安心するや否やあっという間に見えなくなり、先頭の二人に追いついてしまった。
     精鋭3名は遥か先を走るように登って行き、強風の中で待っていてくれた。体温が下がるのですぐに出発し、なだらかな登りを走って行くが、すぐに歩くこととなる。以前はずっと走っていた記憶があるが、身体に正直に従おう。登りは急になり、北風は突風を伴なって登山者を追い立てる。鼻水が流れ、前に進もうとするが、風が制止する。寒い。進めない。体のバランスを保てない。いったいどれだけの強風なのか。推測するなら、気象用語で言う風の強さは、「非常に強い風」であり、風速20m/s前後だったのではないか。山頂まで続く斜面を時折立ち止まりながら、風の力も利用しながら登って行く。南側の岩陰は風が弱く、退避しながら進む。
     3年前の夏に富士登山をした。仲間がモンブランに登るので、準備山行にお付き合いしたのだ。夜行バスがたたったのか、高山病だったのか、ジグザグの登山道を前に進むのがかなり遅くなった。8合目の小屋に雑魚寝して寒い朝を迎えたが、小屋の外は想像に絶する強風だった。小屋の主人が、今日は駄目だ、飛んで行って死んでしまうぞと言った。匍匐前進しても恐いし、まさか五体投地で進めばいつになるか分からない。昼前になって風はほぼ治まったが、頂上へ行く時間は無くやむなくリタイアした。
    久住山頂は目の前にあった。自然を侮ってはいけないし、僕らは自然への畏れを感じた。注意深くしっかりと進み、頂上標に手を添えて記念撮影した。撮影には定評のあるK主任がウィンドブレーカーをはためかせて、風力の強さを映像化しようとした。私は足がガクガク、ヨロヨロして自分の安全確保しか余裕が無い。冬山ならロープを結んで前進するのが当然となる訳だが、突風がなくて安堵した。

     言うまでもなく久住山は一等三角点であり、大分県内には16の地点に柱石が埋められている。ウィキペディアではこう説明している。
    「三角点は、一般的に眺望の利く場所に設置され一等三角点は970点余りに上るが、その中で風格のある山容、優れた眺望、高い知名度、さらに概ね標高1,000m以上で登りがいのある山が選定された。一等三角点の最高峰は、標高3,121 mの南アルプスの赤石岳である。」
     主に小豆島産出の花崗岩である柱石は深く埋められ、重さは90Kgで、これを運んだのは麓の強力達だったに違いない。三角点の柱石の周りには4つの防護石が整然と並び、柱石を守っている。近年深田久弥の百名山をすべて自力でつないだ田中陽希さんは、翌年も二百名山を完登した。標高には届かないかもしれないが、一等三角点百名山という角度からのアプローチも面白いかもしれない。大分県内の美しい一等三角点の山は、姫島村の矢筈岳、国東町の両子山、大分市の樅ノ木山、本匠村の佩楯山、佐伯市の元越山などである。

     久住山から中岳に向かう。山岳ガイドの安東桂三さんが作成した昭文社の登山地図は最新のもので、今年の初めにいただいたものだ。今回のトレランで多くの情報を提供していただき、深く感謝したい。
     私たちは時折立ち止まって地図を確認しながら進み、現在の位置を把握し次の山に向かう。突然現れた御池は満面の水を湛え、美しく佇んでいた。真冬は厚い氷が張るが、歩きにくいアイゼンでここまで来ようとは思わない。
     速さ抜群の3人は中岳山頂で記念撮影をすませて、のんびりしている。私はやっと着いたが、迷惑は掛けられないのですぐに走り出し、稲星山に向かう。途中でU院長がコケモモの実を見つけた。皆が口に入れて頬張るが、甘さの後にえぐみが残る。フィンランドではどこにも自生しているようで、リンゴンベリーと呼ばれるそうだ。たくさん採取して、ジャムにするのもいいだろうが、旬は夏だと思う。
     稲星山への登りは急ではないが、足の疲労はピークを過ぎており、手を膝に当てながら登って行く。山頂は平たい丘であり、さっさと通過していくと、草原は無くなり、低木に囲まれた道を下る。すぐに鳴子山の分岐に着き、鳴子山への道は黄色のテープで通行禁止の表示があるが、構わずに進む。
     鳴子山は尖った小さな山であり、分岐よりも標高はかなり低い。途中に大きな一枚岩があり、これだけでも圧倒されたが、その一部が近くに落ちて割れていた。念のため岩をチェックし早めに通り過ぎた。宮崎の大崩山の岩山を思い出したが、ここも見事な一枚岩で登れるのは猿くらいだろう。ロープで下る場所もあり、あとでここを登らないといけないが、あまり考えないようにした。平たい山頂で、本日4座目である。見上げれば来た道が高く感じたが、走って進めないのでマイペースで休みながら進んだ。分岐に着いたが、ここで注意を怠った。先入観があり、はっきりした道は中岳の方角を向いていたが、疑うことなくそのルートを選んだ。しかし、5分くらい進んで、白口岳への道から外れているように感じた。U院長が地図で確認してくれたおかげで間違いが分かり、分岐に戻ると草原に隠れてはっきりした登山道があった。
     殆ど道の無い根子岳の南斜面を登ったことがある。等高線から位置を読み取り、ロープで懸垂下降しながら進んだ。頼るのは2万5千分の1の地形図であり、危険地帯を外れて進むが、何度か見誤って戻った。山行に読図は欠かせないし、安全確保の最大のツールである。

     白口岳からの眺めが素晴らしかった。北に黒岳、大船山が見え、坊ガツルの湿原に小川が流れていた。
    ♫ ミヤマキリシマ咲き誇り
      山くれないに大船の
      峰を仰ぎて 山男
      花の情けを知る者ぞ ♫
     鉾立峠への下りは急峻であり、注意深く進むようにお願いをした。山頂で出会った人に聞いたら滑って登りにくかったと話していた。身体は疲労しており、集中力が大事だ。U院長がさっさと下っていく。少し心配になるが、身が軽いので大丈夫だろう。

     2年前の大雪の時に法華院温泉から鉾立峠に来たが、雪が深くもう進めなくて戻ったことがある。坊ガツルの湿原や峠の標識が近くに見え始め、しばし追憶に耽った。峠からは緩やかな下りとなり、佐渡窪の紅葉は僅かだったが、櫨の赤が目に染みた。
     学生時代にテントを担いで、上高地から槍ヶ岳に登ったことがある。北アルプスの紅葉は黄色が多く、黄と赤の色で隙間なく染まっていく。槍沢の河原にテントを張り、夕陽や朝焼けの紅葉が目に焼き付いた。いつか時間がたくさんできた時に、上高地から槍ヶ岳を目指すのが妻との約束となっている。
     朽網分れに着いた時に、ホッとした。事故が無かったこと、ほぼ時間通りに通過できたこと、天気が良かったこと、多くの素晴らしい条件に恵まれたトレランだった。そして何よりもこの日のためにトレーニングしてきたこと、これだけのコースを縦走できたことに大きな喜びを感じた。
     たくさんの思いがあった。安全に対する配慮はぬかりないか。意識は共有しているか。レベルに応じたトレランか。季節や体力に合っているか。天候急変時の準備は出来ているか。等々。

     さて、県内のトレランコースの候補を上げてみたいが、その前にニュージーランドの「トランピング」について考えてみたい。トレイルランニングと同義のようだが、山岳だけではなく海や草原、谷、時には平地も入ると捉えている。ニュージーランドでガイドをしている人がおり、その方に直接聞いてみると、総称のようである。
     韓国にも「オルレ」があり、トランピングと通じるもので、県内もいくつかのコースが整備されている。私が長年望んできたものは特殊ではなく、すぐに参加できるものであり、裾が広いスポーツだった。山を駆け、川を渉り、谷を抜け、草原を駆け続けていたい。
     先ず山岳としてのトレランだが、一筆書きのようにくじゅうを巡るコースも考えられる。しかし、これは何十時間も掛かりそうだし、体力も必要で危険性が高くなる。津久見の彦岳は短時間コースだが、眺めがいいと思う。やはり涌蓋山を含めたコースが緩やかで眺めも良くて、第一候補かもしれない。国東半島ロングトレイルは6つのコースがあり、これは自分もいくつか歩いたが、面白いコースである。オルレは、九重、別府、竹田の3つのコースがあり、標識も整備されている。

     今回のトレランを通して、各々が考える自然への向き合い方、体力に応じたものを作り上げ、ずっと楽しんでいただきたいと願う。そして危険を回避する勇気を持ち、技術を身に着け、いつまでも健康を維持していただきたいと願っている。

    ♫ 山よさよなら ごきげんよろしゅう 
      また来るときにも 笑っておくれ
      また来るときにも 笑っておくれ ♫

    謝意 今回の山行にあたり、レゾネイトクラブの櫻木支配人に大変お世話になりました。謹んで御礼申し上げます。

    コース記録
    6:15自宅~7:15レゾネイトクラブくじゅう駐車場〜7:50長者原駐車場着(8:05発)〜8:57すがもり越え〜祠跡〜9:30久住分かれ〜9:52久住山頂〜10:30中岳〜10:50稲星山〜11:25鳴子山〜12:52白口岳〜12:45鉾立峠〜13:50レゾネイトクラブくじゅう〜温泉〜みずしの森〜長者原〜17:50自宅
    距離:19.88Km



    地図左上の「長者原」より、右下のレゾネイトクラブまでひたすら走る。


    ①長者原を駆け上がる


    ②諏我守越えの登り(硫黄山付近)


    ③中宮跡


    ④北千里ヶ浜を走る


    ⑤久住山頂(U院長) ※風速20m/sなんですが・・・


    ⑥久住山頂(K院長) ※軽いので吹き飛ばされそう・・・


    ⑦久住山頂 ※これだけの強風です


    ⑧強風から南側へ退避(メンバー4人)


    ⑨中岳直下の御池


    ⑩鳴子山への下り


    ⑪鳴子山山頂(K院長)


    ⑫白石岳より三俣山・坊ガツル





    2016年11月1日(火)
    「新しい檸檬の木」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

    庭の端に小さな畑があり、そこに檸檬の木を植えている。檸檬は料理やお菓子作りにも使えるので、いつか植えようと思って6年前に小さな木を買ってきたものだ。少しずつ大きくなって2年間は果実をつけることはなかったが、3年目に数個実をつけ、4年目に40個くらい収穫した。そして次の年に100個以上となり、今年は更に収穫できそうである。やや小ぶりなのだが、香りや酸味は強い。昨年収穫した際に甥に持って行ったら、市販の檸檬とは全く違うので、びっくりしていた。それ自体嬉しいことだったし、栽培の考え方は間違っていなかったことが確認できた。

    以前、「奇跡のリンゴ」という本を読み、とても感動した。青森のリンゴ農家である木村秋則さんの苦労物語である。木村さんは、NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」にも出演したし、映画化されているので多くの方がご覧になったと思う。私が注目したのは、なぜ美味しいのか、そのメカニズムを知りたいと思った。木村さんは、化学肥料や農薬を使わないリンゴの栽培を目指したが、収入は絶たれ何十年もの極貧生活に疲れ、ある夜岩木山の中腹まで行き、首を吊って死のうと思った。縄を枝に掛けているときに、大きなリンゴの木を見た。どうして山の中でこんなに大きくなれるのだと不思議に思い、そばに行って土を口に入れた。フカフカの土壌は、リンゴの木を逞しくしていたのだ。そのことに気づいた木村さんは、土を育てることに精力を注ぎ、害虫がたくさん付いても、近所の農家から文句を言われてもずっと耐え続けた。そしてある日たくさんの白い花を咲かせ、無農薬の美味しいリンゴを作り上げた。

    彼の根本的な考え方は、福岡正信氏の自然に任せる方法から来ている。「自然農法」という本も出ているので、是非一読していただきたい。私もその考え方を真似して、土をフカフカにし、下草は適度にあり、肥料は皆無、防虫駆除なく、虫が来ても放っておき、枯れたら仕方がないという気持ちである。弱肉強食みたいだが、木を強くすることが本来の目的で、果実は大きくならないかもしれないが、質の高い果実となる。桃も植えているが、少雨の年の果実は、今まで食べたことのないものだった。肉質はやや固く、甘さは十分で、今でも忘れられない味となった。水っぽい桃は多いが、薄まった甘みではなく、桃の木そのものが凝縮したした甘さだった。

    私たちは、かつて美味しくて体にいいものをたくさん食べていたと思う。でも、次第に大量生産商品に慣れてしまい、同時に美味しさを放棄してしまった。自発的な放棄ではなく、あまりにも大量であるがゆえに洗脳されてしまったのではないか。形は似ているかもしれないが、そのものが持っている固有の有効成分も大きく失われ、風味は失せ、単なる擬きになったものを食べている。安価であるのは、そういう大量生産擬きだから当たり前のことだと思う。分かりやすく言えば、TPPはこういう流れに乗るということだ。断っておくが、これは単なる印象的なもので、すべてを断じようとは到底思わない。

    資本主義経済においても同様のことが言える。私たち日本人は、世界でも画期的な明治維新を経験し、世界有数の経済大国となった。しかし、現在は世界的なデフレーションや資本主義経済自体の存在が危ぶまれている状況である。日本は世界に遅れを取らないように、第四次産業革命と声高に叫んでいるが、それは部分的であり、漸次的であり、主体的ではない。すべての人々に平等に利益をもたらす社会は出現せず、古いものは淘汰され、破壊と創造の繰り返しになると経済学者は説く。

    これからの方向性を考えるうえで、歴史や世界を知ることは、この上もなく重要だと考えている。失敗という轍を踏むことなく、リスクを回避しながら進むのは、知識を蓄え、情報を機敏に摂取していくしかない。画期的社会の到来は、エネルギーフリーとなる社会である。それが第何次の産業革命になるか分からないが、遠い将来のことではない。それを可能にするのがスーパーコンピュータであり、それはどこかの代表が言ったように第二位ではあり得ず、余りに狭義で矮小的な暴言でしかない。

    経済活動の基本に立ち返ってみると、欲しいものを銀行券で贖うのが本質である。生産活動側に立つならば、より魅力あるものを創造していくのが基本だと言える。芥川龍之介が書いた「神神の微笑」という短編に、日本人の本質を見抜いた言葉がある。
    ”我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。”
    福沢諭吉の脱亜入欧に学べと習政権寄りのメディアは近頃書いており、それも明治維新の一因かもしれないが、日本の民族的な力はもっと多様で深く、民族の中に包含するものではないだろうか。それゆえに私たちのこれからは、生産活動の上質化にますます力を注ぐことだと考えるのである。目の前にある檸檬の木を、「新しい檸檬の木」に造り変えていこうではありませんか。






    2016年10月31日(月)
    「ウルッときたひと言」 清川診療所 所長 坪山明寛

     秋晴れの日、庭の石蕗(ツワブキ)が、花弁を一杯に広げ明るさを振りまいていた。見ているだけで元気を貰えるので好きな花だ。
      石蕗の放つ光の数多なり  明寛
     この日は「新老人の会」の例会だ。「新老人の会」は、日野原重明先生が、自立して生きる新しい老人の姿を「新老人」と名付け、シニア世代が健やかで生きがいのある生涯を過ごすことを目的に発足した会だ。75歳以上がシニア会員で、私は70歳なのでジュニア会員だ。会の使命は「子供達に平和と愛の大切さを伝えること」となっている。
     日野原先生は105歳でありながら、「いのちの教室」開講、講演、童話出版、演劇開催と八面六臂の活躍をされており、敬服するばかりだ。私は時々大分支部例会に参加している。今回の行事は、安心院での鼈(スッポン)料理と宇佐文化会館での映画鑑賞だ。安心院の鏝絵鑑賞とワインは味わったことがあったが、鼈料理体験はないのでいい機会だと参加した。安心院亭で新老人34名と、気風の良い女将さんのもてなしを受けながら鼈を味わった。肉は骨からポロリと剥がれて柔らかく、さっぱりし、皮もコラーゲンたっぷりで美味だった。女性陣は、顔が若返ったかなと軽口をたたきながら笑顔いっぱいだった。安心院ワインがなかったのは、ちょっぴり残念だったが、満ち足りた気持ちになった。
     そして宇佐までバスに揺られ映画「ビリ・ギャル」鑑賞となった。ビリ・ギャルとは、成績が学校でビリの女生徒という意味だ。実話の映画化で、学力は小学4年程度の高校2年生が、挫折しながらも努力して慶応大学に入学するまでの歩みを描いたものだ。
     小学時代苛めで転校を重ね、高校では不良生徒で成績は最悪、母親は幾度も学校に呼びだされるが「この子は本当にいい子なんです」と頭を下げ、退学させられないように守り続け塾に連れて行く。その塾にいたのが前向き思考の講師だった。学力判定試験で0点をとっても、「いや~凄い、0点だが全問に答えを書いている」と褒めた。「聖徳太子」を知ってるねと尋ねた時にも、この子が「可哀想この女の子、“せいとくたこ”なんて名前を貰って」と答えると、講師は呆れるがバカにはせず「発想が面白い」と褒めた。志望校は目標髙くと、東大は無理だから慶応大学と決まった。学校や父親から失笑されると、この子は負けん気を出し公然と入学を宣言する。
    講師は、生徒が可能性を秘めた子と信じ、適切な助言を与え能力を開花させ、慶応大学入学を叶えさせた。学習過程での講師発言には、「人はクズと言われると、自分の可能性を信じられない」「ダメな生徒は一人もいない、ダメな指導者がいるだけだ」「意志あるところに道は開ける」など心に響くものがあった。この講師は、人間的に魅力ある大人であり、有能な指導者だと思った。
     しかし私がこの映画で最も感動し涙したのは、母親の子供への愛情だった。学校の先生から悪い子だと指摘されても「この子は本当にいい子なんです」と言い続け守った。父親が、野球をやめ飲酒した長男を「お前のような息子をもって恥ずかしい」と怒鳴った時、母親が父親に向かって「私は、学校からどんなに言われても、我が子が恥ずかしいと思ったことは一度もない!」と叫んだ時にはウルッときた。この母の無私の愛が、ビリ・ギャルを変えた最大の力だったと確信した。
     鼈料理と映画鑑賞、秋空のような爽やかな気持ちで過ごせた一日であった。
     ある日、長年診ている女性が来た。不登校になった子の事で疲労困憊していた。これまでも元気づけてきたが、この日は「ビリ・ギャル」を子供と一緒に鑑賞するよう薦め、映画で母親が「自分の子供を恥ずかしいと思ったことは一度もない」と言っていたよと、帰り際の女性の背中に言葉をかけ見送った。






    2016年9月26日(月)
    「静かな叫び」 清川診療所 所長 坪山明寛

     大型台風16号の大分直撃は避けられた。お蔭で百枝平野の稲穂は、倒伏もなく順調に実っているように見える。
    もうすぐ稲刈りだ。患者さんから10月の予約を延ばして欲しいとの声もちらほら聞こえる。
    畦道には、彼岸花が咲き並んでいる風景も見え始めた。透きとおった茎に真っ赤な花が、しなやかに弧を描き秋を包んでいる。
       彼岸花素足に鼻緒似合う人 明寛 
     診療所に到着すると、隣接する「しいのみ保育園」は様変わりしていた。
    園舎は跡形もなく、遊具は取り払われ桜の木も伐採されていた。
    広々した跡地に佇んでいると、園児の声や手を差しのべてきた子のあどけない顔が浮かんできて、何となく物悲しくなるのは、秋という季節だからだろうか・・・。
     私が寂寥感を感じるのは、それだけではない。
    ここ2.3週間、心の淵に澱むように気になっている言葉があるのだ。
    言葉とともに声の調子や表情も脳裏に刻印されているのだ。
     その方を診察するのは初めてだった。幸いに病状は軽く診察を済ませ終わろうとしたが、表情が暗く気落ちが沈んでいるのが気になり、「いつも何していますか」と声をかけた。「別にすることもないし、寝たり起きたり・・」との返事だった。
     「ご家族は・・?」と尋ねた。すると「誰もいない、一人です」とのこと。
    私は、“ああ子供さんが遠方にいて独居だな”と、この時点では考えていた。ところが意外な言葉が続いた。
    「いろいろあって・・・両親は亡くなり兄弟もいません。ひとりなんです・・」私は一瞬悩んだ。このまま話を聞くか、打ち切るかと。
    でもこの方はひと言ひと言に、自分の思いを込め、自分にも言い聞かせるよう語ろうとしていた。
    その話しぶりや表情を見ていると、何か心にシコリがあるように感じられた。
    人は鉛のような重い思いを心に秘めていると健康を害してしまう、特に精神的に参ってしまうことがある。
    私は、聞いてあげた方が良いなと判断し、この方の語りに耳を傾けた。
    しばらくしてひと呼吸し、間が空いた。そしてこの方の口から出てきたのだ、私が聞いた後に耳にへばりついて離れないひと言が。
    「家族が欲しい~っ」決して声は大きくはなかったが、悲しみとも悔やみとも寂しさとも取れるような静かな叫びだった。
    話の内容からすると、この方は親戚もいない正に天涯孤独の状態になっているのだ。
    胸の奥底から搾り吐き出された「家族が欲しい~っ」には、独居は耐えられる、孤立も何とかなる、でも天涯孤独、特に家族がいないという孤独には耐えられない悲痛さが、私に十二分に伝わってきた。
     この方が「家族が欲しい~っ」と叫ぶのは何故なんだろう。
    家族介護や経済的支援を求めてだろうか?しかし国の社会保障制度は、十分ではないが、ある程度の介護や経済的支援がなされている。
    この方も現在介護サービスを含めて社会的支援を受けている。
    私はこの方の表情や声のトーンからそういうことではないように思えた。では何だろう?
    私には「語り合いたい、家族にしか分からない両親の思い出、子供の頃遊んだこと、喧嘩したこと、我が子や孫の成長など、ささやかなことだが、家族間でしか理解できない出来事を語りあうために、「家族が欲しい~っ」と叫んだのだと思えた。
     私は「また何か相談したいことがあればどうぞ」と、この方の背中に手を当て別れた。
     現代社会の家族には、児童虐待、親族間殺人、家庭内暴力、介護問題など、家族があればこその難しい問題も多い。
    だが家族は個人の、そして社会の安寧と成長の礎だと考える。
    東日本大震災で行方不明の我が子を探し、今なお海岸を歩く母親の姿は、理屈なく家族の存在意義、家族の絆の大切さを教えてくれる。
       ととんとん俎板歌う妻の秋 明寛






    2016年8月29日(月)
    「草取りにみる覚悟」 清川診療所 所長 坪山明寛

     朝窓を開けた。風がす~っと入って来た、涼しい!猛暑のすき間をぬって秋の精は近づいていた、確かに。
      新涼や窓開けミルク飲み干せり 明寛
      カルテ閉じ耳傾ける虫の声 明寛
     とはいえ、まだまだ日中の暑さはひどい。診療の場では、「体調はどうですか?水分は取っていますか?部屋の温度はどうしていますか?」の声かけが欠かせない。
     今年は「草取り」を話題にすることが多い。病みながらも草取りが、夏の大仕事だということを、酷暑の今年再認識した。庭の、畦の、畑の、栗林の、土手の、家の前の道の・・・あらゆる所の草との戦いだ。蜂やアブやダニや蚊に刺されながら、草取りは大事なのだ。それも毎日しないといけないのだ。私の感覚では、毎日しなくても良さそうにと思うのだが、しなくちゃいけないのだ。何故か?その訳の第一は、土地が広いのだ。私の家の庭を基準に考えると、“そんなに毎日しなくても・・・”となるのだが、清川の方々の私有地はとにかく広いのだ。先祖伝来の田んぼや畑だけでなく、庭だって広いのだ。皆おっしゃる、庭の草取りがひと回り済み、立ちあがり後ろを振り向くと、もう最初に草取りした所には生えているのだ、草が、しかもびっしりと。庭が広いので毎日の草取りが欠かせないのだ。何しろ相手は暑さにも負けない雑草だ。雑草と言えば、昭和天皇に「どうして庭を刈り取ったのかね」と聞かれ、入江侍従長が「雑草が生い茂っていたので・・」と答えたら、「雑草ということはない。どんな植物でもみんな名前があってそれぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草と決めつけてしまうのはいけない」(「宮中侍従物語」入江相政著)と言われたとのこと。雑草も生きる権利があるのは分かる、でも放置しておくと、吹上御所と違い、雑草は作物の育ちに影響するので、作物を守るためには除草が必要だ。これが草取りが必須である第二の理由だ。秋の成熟に向けて暑い時期に作物は成長する。その栄養分や水分を奪われないように、草取りは必要だ。私もそのくらいは分かるから「炎天下は避けてください、帽子を被って、幼稚園児のような軍隊帽がいいんじゃないですか、水分を取ってください」などと繰り返すのだった。
     だが草取りの必要な理由に、もう一つ付け加えなければならない。
     炎暑の日だった。診察の際いつも聞くように「毎日暑いですね、何していますか?」と尋ねた。お婆ちゃんの返事は、「庭の草取り」だった。「大変ですね。涼しい時にしてくださいよ」と言った。「はい」との返事を予想したが、「昼間していますよ、皆が帰ってくる頃まで」との返答だった。「えっ熱中症になるよ、どうして昼間にするんかな」とやや呆れて聞いた。お婆ちゃんの理由は、想像もつかない身につまされるものだった。「子供達に世話になっているので、昼間も遊んでいるのではなく、草取りをして働いていることを見せたいのです」ときっぱり言われた。
     私は、咄嗟には言葉が出なかった・・・。「そうでしたか、そういう気持ちで草取りをしているんですか、偉いですね。でもこの暑さですから暑い時間帯は避けて、水分をしっかりとってくださいよ」としか言えなかった。でも私はこの方に、「辛い」とか「苦しい」とかの悲壮感は感じなかった。むしろ「世話になったらお返しをするのが当たり前」という返報性を尊重する、彼女の生き方の矜持と思えた。この市井の民にくらべ、世話になっている上司を上から目線で「本当につまらない男」と揶揄する国会議員には、それぞれの人の持つ違い(個性)を尊重することのできない危うさ、傲慢さが見え呆れた。
     “たかが草取り、されど草取り”草取りにも生きる覚悟を見た診察のひとこまだった。






    2016年7月28日(木)
    「悲しみを・・・」 清川診療所 所長 坪山明寛

      “ひとよろこべど
      そのよろこびにわれはおどらず
      われかなしめど
      わがかなしみにひとはなかず

      ああたれかありて
      おなじおもいをかたるものはなきか“
    これは、私の好きな詩人 八木重吉の詩です。
    何故この詩を思い出したかと言えば、診察室で語られた呟きの一片があったからです。
     ”先生 まわりにだあれもいない。寂しい!“という呟きです。「ひとりぼっち」の寂しさが、ひしひしと私の心にも伝わってくる声であり、表情でした。
     老いを迎え、配偶者との別れがあり、隣人との別れがあり、子供は遠くに居を構えているので、ひとりぼっちでいる老い人というのは、高齢社会日本においては、珍しくない現実です。まさに孤老として生きていかなければならないのが、現代社会であります。
     八木重吉は”おなじおもいをかたるものはなきか”と嘆息している。でも重吉には居たのだと思います、語らう相手が。それは神です。重吉は敬虔なクリスチャンでした。
     老いてからの孤独は、大きな苦悩と考えられます。孤独は、ただ一人で生活していることではないでしょう。大家族でありながらも、気持ちが通じあわず悩みながら生活している中にも、孤独があります。
     死生学を提唱しているアルフォンス・デーケン氏は、孤独は悲しいことであるが、『恵みの時』でもあると言っています。デーケン氏は、孤独を乗り越える2つの方法を示しています。
    一つは、積極的に「出会い」を求める生き方です。今の社会には、出会いを求めようとすれば、いろんな社会的支援が準備されています。デイサービス、公民館活動、サロン活動、寝たきり予防活動など、出会いの場は準備されています。逡巡しないで、前に一歩を踏み出せば、よい出会い、語り合いもできる場です。
     もう一つは、孤独を恵として受け入れる生き方です。孤独な時間は静かです。誰もいないので、自ずと自分を見つめることになり、自分の生き方に思いを巡らし、正直になれるのが孤独な時間です。仏壇の前に座り、亡くなった人に声をかけたり、風景の中に、ただ自分を置いて、風に耳を傾けることもいいでしょう。若い時には仕事や生活に忙しく、ゆっくり自分と向き合う余裕はないので、老いの時間こそ、思索できる珠玉の時なのです。
     でもどんなに強いと思われる人でも、のっしのっしと孤独を踏み潰せる人は少ないでしょう。
    必死さゆえといっても、借金に借金を重ねながら生きて、傲慢不遜と揶揄されていた石川啄木も、結核で倒れて入院しているときに、こんな歌を残しています。
       看護婦の徹夜するまで
       わが病ひ、悪くなれとも
       ひそかに願へる
    内容は、喀血したり呼吸が苦しい夜間を、一人で過ごすのは寂しいので、看護師が傍にいて声をかけてくれるように、病気が悪くなれと願っているということです。人の心身の苦痛を癒す最善の方法は、出会い人と語ることだと、この歌は教えてくれています。
    診療所は、病む人にとって「癒しの場」でありたいと願っています。体の故障を癒し、心の悲しみ、孤独の寂しさを癒す場でありたい。八木重吉の詩にあったフレーズ、「おなじおもいをかたるものはなきか」に対して、「診療所には、“おもい”を思う存分語る人も場もありますよ」と、はっきり言えるようになりたいと願い、職員一同努めています。
     猛暑!炎暑!酷暑!の夏です。温度管理と水分補給、休養に努めてご自愛ください。





    2016年6月28日(火)
    「ワクワクするんです」 清川診療所 所長 坪山明寛

     「しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん」の擬態語がぴったりの長雨が続いている。百枝平野は、代田に包まれきらきら輝いていた。
       澄みきって里燦々と代田かな  明寛
     やがて田植えが始まり、代田は植田へと変貌し、心和む風景となった。そんな田圃の一枚に余り苗が、まあるく置かれており、農家の方の心根の優しさを見た。
      懇ろにまあるくみっつ余り苗  明寛
     こんな風景の中を通勤してきた日のことだった。昼食を摂り午後の診療となった。90半ばのお婆ちゃんを診察室に呼んだ。とても上品な振舞い、にこやかな表情をしている方だ。私のずっと前の医師から継続して診療所に通っている方だ。問診や聴診を終えた時だった。お婆ちゃんが、私に問いかけてきた。その問いは、医師の私にとって、というより人にとって最高の難問だった。
     その問いかけというのはこうだった。「先生、人が死ぬときにはどんな気持ちなんでしょうね?」私は一瞬どう答えていいのか戸惑った。「そうですね、どうなんでしょうね。どうしてそういうことを思われるんですか?」と聞いてみた。すると「いや、ちょっと思ったんですよ。人は死ぬ時にどんな気持ちで死ぬんだろうなあと」。
     「人は死ぬ時にどんな気持ちなのか?」というお婆ちゃんの問いかけは、「死とは」「死んだ後に魂はどうなるのか?」という哲学的な命題でもあり、さまざまな哲学者が思索してきた。ソクラテスは「死は夢をひとつも見ない眠りにつくこと」、デカルトは「精神は肉体の死後も存在する」との言葉を残している。
     さて「人は死ぬ時にどんな気持ちなのか」について知る手掛かりは、「臨死体験者」の話だろう。臨死体験、つまり死を体験し蘇生した人の話である。フィンランドのキルデ医師は、自らの体験として「トンネルの中は真っ暗で何もありませんでした。その向こうに輝く光があり、そこに私は入っていきました。それは自由の女神像くらい巨大で強く光り輝いていました。光は暖かく、愛に満ちていました。輝き方があまりに強かったので、私は光を直接みることが出来ませんでした」と語っている(立花隆「臨死体験」)。日本人調査でも、光の世界、川、花畑、個人との出会いなどが報告されている。
     しかし臨死体験は、幻覚、脳内麻薬説、酸素欠乏など諸説あり証明はされていない。
     私は、しばらくこのような臨死体験者の話をしながら、もう一度お婆ちゃんに尋ねた。「いつもそんなことを考えているんですか」と。すると「そうですね、病気もあるし、歳も取っているので、死ぬ時はどんな気持ちなんだろうな、と不思議に思うんですよ」と答えた。そこで「死ぬ事を考えるのは、みんな嫌がると思うのですが・・・」と再度尋ねた。 お婆ちゃんは、にこやかな表情でこう答えたのだった。「いや怖くはないですね、むしろワクワクするんですよ。死ぬ時にどんな気持ちなのかが分かるんですから」。
     私はそれを聞き「凄い!」と思った。人類誕生して700万年、哲学という学問が始まって2400年余、未だ解明されていない「死ぬ瞬間の気持と死後の世界」を、自分が死ぬ時に理解できるのだ。こんなワクワクすることはない。今まで多くの人と語り合ってきたが、死ぬ瞬間をワクワクして待っている人に出会ったことがない。私はお婆ちゃんを心から敬服し「そうですね、確かにワクワクしますね、誰も知らないことを知るということは。その日を迎えるまでは、今日という日を楽しみましょう」と言った。お婆ちゃんは「そうします」と笑顔で診察室を後にされた。
     私は、素敵な語り合いができたその日を、多分いつまでも忘れないと思う、このお婆ちゃんのお顔とともに・・・。






    2016年6月21日(火)
    「女性の情緒(じょうしょ)」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

     野上弥生子の「縁」を読んだ。舞台は大分県豊後大野市三重町である。感想は夏目漱石と同様で、よく分からない。師が指摘するように、女性らしい小説であり、さまざまな思いが飛び交って定点に落ち着かない。そんな印象。だから、野上弥生子は苦手だ。
     彼女の処女小説は「縁」ということになっているが、実はその前に「明暗」を書いている。漱石に批評してもらったが、かなり批判的だった。しかし、その中に女性の美を感じて次を書くように励まされた。そして「縁」が文壇デビューとなった訳である。
     彼女の小説が全く読まれなくなったように、昨今は森鴎外なども同様みたいである。百年経つとこんな状況になるなら、今の小説は何も残らないのではないか。刹那的な好みで選別されたもので何が不満か、と怒られそうだが、やはり日本人の普遍的情緒を感じていたいのだ。
     平安時代の作品に「源氏物語」がある。言い換えるなら、千年を超えて読み継がれている訳である。いつか全編を読みたいと思っているが、まだほんの一部しか読んでいない。色恋、女性の性の大らかさ、そこに纏わる感情の機微がわびさびの原型となっているように思う。
     世界を見渡すと、この時期の西洋にこのような長編純文学は現れていなかった。中国は詩歌が先であり、政治や処世訓であり、本格的文学はまだまだだった。日本の王朝文学は、世界の先駆けであり、古典を重視したい所以だ。ところが、源氏にしても枕草子にしても、自分の苦手な女性作家で、それ故にためらいがあるのだ。いわゆる枝葉末節があまりに多く、結局「何が言いたいんだ!」となるのである。そういう意味では、男は単純であり、女性の複雑怪奇さは男の知る由もない。しかし、同調して学びという観点から取り出せば、それは男には足りぬ「視点」であり、「細やかさ」なのだ。
     男にとってはつまらぬことも、女性にとっては大切な宝物になることも多い。そして世界はそういうつまらないと思う人とそうでないと思う人で構成されており、老若男女これからも連綿と続いていく。
     名文がそこかしこに散らばっている。開高健は枕元に「旧約聖書」と「小倉百人一首」を置いて、毎夜眠りについたそうだ。自分のそれは「源氏物語」でありたいと思うようになった。先ずは心地よい夏の夜風に吹かれながら、名文の情緒とは対照に惰眠を貪ることにしよう。
     ”須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。 御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞き給ふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らし給へるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさし給ひて、恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふ方より風や吹くらむ と歌ひ給へるに、人々おどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。(源氏物語 須磨)”





    2016年6月17日(金)
    「マテオ・ファルコーネの本懐」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

     フランスの文豪プロスペル・メリメの作品に、「マテオ・ファルコーネ」という短編がある。あらすじは分かりやすいが、とても深い。
    ”17世紀のコルシカ島、マテオ・ファルコーネは、妻と10歳の息子と住んでいた。マテオは村人から信頼と尊敬を集める人物である。
     ある日、妻のジョセッパと隣の村に出かけ、息子のフォルチュナートは留守番をすることになった。ずっと家の手伝いをしていたが、そこに捕吏に追われ怪我をした村人が現れ、マテオの知り合いで匿ってくれと頼まれる。
     当時の風潮はヴィクトール・ユーゴーの小説にあるように、「助けを求められれば、たとえ罪人でも助ける」というものだった。フォルチュナートは断ったが、村人が銀貨を出すと、小屋の藁の山の中に男を隠した。すぐに2~3人の役人が来て、「男が来なかったか」と聞いた。フォルチュナートは何も知らないと言うが、役人の執拗な詰問は続く。「僕のお父さんは、マテオ・ファルコーネだよ」と言うと、ある役人が「マテオの家なら諦めましょうか」と言って、立ち去ろうとする。しかし、1人の役人が「本当のことを言ったら、これをやる」と、鎖のついた懐中時計を見せた。フォルチュナートは、黙って藁の山を指差した。男は縄を打たれ、「お前は裏切り者だ」と言った。
     男を連れ去ろうとするところに、マテオ夫婦が戻って来た。男は、「この家は裏切り者の家だ」と罵った。役人が「この子のおかげで、こいつを捕まえることができました」と言ってお礼を言った。
     役人が去ると、マテオは取り縋る妻を尻目に、息子を連れて裏山に向かった。泣きじゃくるフォルチュナートに向かい、「お祈りをしろ」と命じ、息子はお祈りを捧げる。そして、必死に父に縋り、「お父さん、許してください」と詫びた。しかし、マテオは銃を構え、一発で息子を殺した。
     マテオはスコップを取りに家に戻り、妻の問いにこう答えた。
    「あの子は裁かれた。神の許へ行った」。”
     理解し難い話だが、こういう倫理観がコルシカ島にあった。背景は厳格な宗教の教えかもしれないが、裏切りという行為の背信性の大きさを語っている。日本における武士道に通じるものがありそうだが、10歳という年齢は保護と愛情の対象であり、同時に教育の対象でもある筈だ。メリメの深い意図がどうも読み取れない。
     スケールは違うが、自分が子どもの頃に似たようなことがあった。母が病気で、僕は遠い祖父の家に預けられていた。そうだ、ちょうど10歳の頃だ。祖父は法律家で、今思えばマテオのような男だったかもしれない。過ちを犯した自分に、祖父は何も言わずじっと目をみた。僕は下を向いた。祖母が優しく諭してくれた。沈黙ほど怖いものはないことを、その時知った。
     城山三郎の「男子の本懐」は、浜口雄幸のことを書いた小説である。昭和5年、東京駅で暴漢に3発撃たれ、何度も手術を受け、一命は取りとめたが一進一退を繰り返していた。折しも国会継続中であり、野党から厳しい追及を受け、今国会会期中に必ず登壇することを文書で伝えた。しかし、再び容体は悪化し、絶対安静が必要であり、起きて国会に出ることは死を意味した。浜口は娘を呼びこう話した。
     「自分は国会に出る。会期中に国会に出るという総理の約束は、国民に対する約束である。出ると言って出ないのでは、国民を欺く。国民との約束を総理たるものが破ったら、国民は一体何を信用して生きていけばいいのか。だから自分は言い訳などしないで、死んでもいいから国会に出て、国民に対する約束を果たす」。娘は母と医者を説得し、浜口は歴史に無い悲壮さで、総理として国民に対する約束を守った。
     「政治は国民道徳の最高水準たるべし」と説く言葉に、これほど憧れを持つのは今の世情ゆえだからだろうか。約束を守る、そのことに命を懸ける。今の政治家はこれだけの思いをもってやっているのか、そう問いたい。
     今度の選挙はこういう思いを持ちながら、1票を投じたいと考えている。






    2016年5月23日(月)
    「砂漠の駝鳥(ダチョウ)」 清川診療所 所長 坪山明寛

     仕事を終え帰宅するときに百枝平野にさしかかると、あたり一面は麦畑である。今の季節は、黄金色に輝く麦畑が広がり、一日の診療を労ってくれる風景となっている。
      麦秋や夕陽のなかにカルテ閉じ 明寛
     車中では、いつものように今日出会った患者さん達との会話を振り返りながら、俳句をひねりながらの小一時間を過ごす。
     いつもはあの人、この人と、数人の方が思い出されるのだが、どうしたことか今日は一人しか思い出さないのだ。というよりこの一人の方のインパクトが強すぎて、他の方が浮かんでこないのだ。どうしてか?それはこの方の診察中大笑いしたからだろう。ただ笑っただけではなく、この方のおおらかさ、ユーモアの心に感心し、豊かに生きる術(すべ)、認知症にならない術の一端を学べたからだ。
     どういうことかと言えば、診察初めの問診で「何か困ったことは?」と尋ねたら、ちょっと考えて「右腕が痛むかな・・」と言った。手を上に挙げることは出来たが、上腕を掴むと少し痛みを訴えた。草切りをしたとのことだったので、筋肉痛かなと考えていると、「手が後ろに回りにくいんです」と言い、すぐ「手は後ろに回らない方がいいんですが」とその方が言った。私は一瞬「いやそれは問題でしょう、不自由だし・・」と一所懸命考えていたら、その方はにやにやして「手が後ろに回るようなことはしていませんが」と言った。「あっ、やられた」と納得して笑った。「手が後ろに回る」とは、医学的意味ではなく俗に「悪事を働いて警察に捕まる」ことの意味で言ったのだ。
     私はこんなユーモアを咄嗟に言えるのは、大らかに幸せに生きている証であり、素敵なことだと思い、「いや~いいですね、あなたのその生き方、性分は」と褒めた。すると「そうですかね、そう言えば、この前歯医者さんに行った時でした。玄関から入ったら、先生と顔があった途端、先生は誰かと勘違いしたらしく『何を忘れたの?』と聞いたので、えっ何、何のことと訝りながらも、何か言わなくちゃと思い、咄嗟に『はい 若さを』と言ったら、先生が大笑いしました」。その瞬間診察室も大笑いになった。そうだ、仕事、仕事と思い直し、体重が減っていることは高脂血症に良いことなので、引き続き努力してと説明し、愉快な方を送り出した。
     しばらく心身の心地良さに酔っていた。いい、実にいい!健康とは、病気がないことではなく、その人が楽しく生き甲斐を感じて生きていることだということを,再確認した。
     サクセスフルエイジング、幸せな老年期を幸せに過ごすための要因として、身体的健康・経済的安定・役割を持つ・自立に加えて楽観主義があげられている。アメリカ国立衛生研究所が発表した、認知症予防に有望なもののひとつに「知的な活動」がある。ユーモアは楽観主義や知的遊びにつながると私は考える。
     世界196か国で、男女合わせての平均寿命84歳(2013年)と世界1位の超高齢者社会を生きてゆかなければない日本人として、「認知症は私には関係ない」「認知症なんて他人事」という態度は、「砂漠の駝鳥」に等しい。「砂漠の駝鳥」とは、砂漠にいた駝鳥がふり向くとライオンがいた。駝鳥はうろたえて、自分の顔を砂に突っ込んだ。駝鳥は何も見えず、何も聞こえず安心したというのだが・・ライオンが駝鳥を見逃すはずはない。つまり危険が差し迫っているのに、何もしないということを意味している。
     認知症にならずサクセスフルエイジングを迎えるには、日頃から知的遊びとして友達とユーモアのある会話をし、笑いのある日々を過ごす努力をしていくことが大切だと思う。
     熟した麦畑を眺めながら、私も患者さんに負けないよう、ユーモアセンスを磨いていこうという思いを新たにするのだった。






    2016年4月25日(月)
    「悩みをどうすれば・・・」 清川診療所 所長 坪山明寛

     突然だった、4月14日21時26分 携帯電話が「ヒュッヒュッ」とけたたましく鳴り、「強い揺れに備えてください」と音声が流れ、横揺れを感じた。テーブルの下にもぐろうとしたが、治まったのでテレビをつけた。熊本城が激しく揺れる画像があった。更に16日未明に「本震」が来た。この日、私は東京にいたので揺れには会わなかったが、朝のTV画面には信じられない光景があった。鹿児島に帰省する時に利用していた57号線沿いの阿蘇大橋崩壊、阿蘇神社楼門崩壊、益城町の家屋倒壊、九州自動車道のひび割れなどの惨状に呆然とした。人的被害も多くあり、被災者の声に涙を堪えきれなかった。
     18日からの診察は、まず地震の恐怖から話が始まった。特に独居の方に不安が強く、神楽会館に夜だけ避難している人もいた。避難が長期になったら、町唯一の診療所の義務として、診察に行こうとスタッフに話しかけた。診察中にも揺れが襲うと身構える。
      地震(なゐ)の主宥めすかせよ桜蕊 明寛
     地震については、方丈記にも“おびただしく大地震(おおなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。やまはくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌われて谷にまろび入る”とリアルに記載されている。
     火山列島日本では、人々が地震被害を受け苦しみ悩んできて、そして立ちあがってきた歴史がある。どうやって苦しみや悲しみから、人は立ちあがってきたのだろう。
     災害だけでなく、人は日常的に様々な悩みや苦しみに悶える。人が、悩みや苦しみから解放されるにはどうしたらよいのだろう。
     オーストリア出身の精神科医・心理学者のアルフレッド・アドラーは「人間の悩みは、全て対人関係にある」と言っている。私も40数年患者さんと接し、多くの悩み事に触れてきた。確かにアドラーが指摘するように、人の苦痛は、自分と自分以外の人との関係性において生まれてくるのが実に多い。「若くありたい」「幸せでありたい」「楽をしたい」なども、他の人との関わり、つまり他の人に、今の自分がどう見られているのかが気になることで生まれる悩みである。自分一人で生きているのであれば、比較する対象がないので、このような悩みは生じない。
     アドラーは、悩みの解決法として、他人を変えるのは難しいので、自分を変えることだと説いている。このことを自分なりに解釈すれば、「自分は自分」という自覚を持つということになる。しかしよく考えれば、自分という自覚は他者がいてこそ成り立つのだから、苦しみも悩みも他者がいることで、解きほぐれるということになり、他者との関わりを断絶しては生きられないことになる。
     では地震という自然の仕打ちによる苦しみ悩みは、どうだろう。これは対人関係によって生まれた悩みではない。自分と自然との関わりの中での出来事である。大昔なら、自然災害も人の行いの悪さに対する神の怒りであるから、アドラーの対神(ヒト)関係による悩みの構図に似ているが、現実は自然の一方的仕打ちである。こんな状況での悩みや苦しみはどう解きほぐしていけば良いのか?
     私の考えは、他者との関わりでしか自然災害の悩みも解きほぐされないということになる。つまり多くの人々による援助、支援ということでしか、自然災害による人の悩み苦しみも解きほぐされないのだ。
     今後も被災者の方々の苦しみ悩みを、自分の悩みと受け止め、義援金、生活物資など自分でできる支援を行い、被災者と心の関係性を繋ぎ続け、被災者の方々の立ち直りを支えていきたい。
     最後になりましたが、清川診療所での医師生活も、4月から4年目になります。今後ともよろしくお願い致します。






    2016年4月22日(金)
    「日本語の流麗さ」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

     TOEFL(トーフル:Test of English as a Foreign Language:外国語としての英語のテスト)は、アメリカのNPOであるETS(Educational Testing Service)が主催しているテストです。これは1964年から実施され、リーディング、リスニング、スピーキング、ライティングの4部から成り、各30点の合計120点満点です。しかし、日本においてはあまりに難しいために、もっとやさしくできないかということで、1977年、日本の北岡靖男氏がETSに開発を依頼し、通産省や経済連も要請を行い、出来たのがTOEIC(トーイック:Test of English for International Communication)です。テストは、リスニングが100問、リーディングが100問の合計200問の構成となっており、満点は990点です。2012年度は、世界150ヶ国で実施され、約700万人が受験し、日本は236万人が受けています。
    私は、このようなテストを受けたことはありませんが、英語をモノにしようとしたことはあります。でも、根気が続かず今に至っています。そういう私が申し上げるのはとても躊躇しますが、言語を習得するのに王道は無いと思いますし、地道に単語を覚えていくのが一番の近道だと思えるのです。単語を知らなければ会話はできないし、単語を知っていれば文法なんていつか分かってくると思います。
    トロイの遺跡を発掘したドイツのシュリーマンは、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語など、全部で16の言語を習得したそうですが、自著「古代への情熱」では、語学習得の記述は無く短期間の集中的な学習だったと書いています。

     アメリカが日本を占領し、日本のこれからの教育方針をマッカーサーに提出するため、アメリカの教育使節団(著名な教育学者一行)が来ました。報告書では、日本の漢字教育が多くの時間を割き、それが他の学習を妨げていることを明記しており、ローマ字の表記が良いということになりました。そして、将来は英語を公用語とし、日本の文化をそこで断ち切ろうと計画をした訳です。やがて、たくさんのローマ字の書物が出版されましたが、読めない人が多いので売れることなくすぐに廃刊となりました。占領本部の教育担当部署は、文部省を通じて、書道をやめさせたり、カタカナを奨励したりしましたが、どれも定着することなく現在に至っています。漢字は確かに難しいものだと思いますが、形を見ればすぐに認識できる文字だと思います。高高、春休みの数週間に日本に滞在して、漢字を悪者扱いして排除しようとするのは無理があったのです。後年、イリノイ大学の学長に就任したジョージ・ストダード博士(使節団団長)は、あの報告書は自分が書いたのではないと言い、もう一人の高名な教育学者ジョージ・カウンツ博士に責任を押し付けたのです。

     英語は世界の共通言語ですが、国民に多くの時間をかけて行う価値ある教育に値するものなのでしょうか。大多数が話すことなく生涯を終えている現状があります。確かに一見無駄に思えるものでも後になって振り返れば教養となっており、多くの恩恵に預かっているのは確かなことです。でも、それは基礎的なことで足りるのではないかと思います。英語を話すことを望む人だけが学習すればいいと思います。自分が勉強したいことを自発的に学習する、そういう人間を育てる教育を文部科学省にしてほしい。
    英語を話すことが国際化につながるのでしょうか。国際化って何でしょうか。英語を話すことに優越感を持っていませんか。話せないことに劣等感を持っていませんか。それは違います。私が若い頃、英単語を或る程度記憶していたものですから臆せずに外国人に話しかけたりしました。しかし、文法を咄嗟に組み立てることができないものですから、殆ど単語で会話をしていました。電話でも単語で何とか意思を伝えることができました。コミュニケーションは人との心のふれあいです。大切なことは、人を思うことです。それが美しいと思うのです。英語を学ぶために日本語を犠牲にしてはいけないと思います。もっとたくさん学びたい、日本語のように自分の思いを表現したいという人だけが学べばいいのではないでしょうか。

     日本人は強い絆で結ばれています。その大きな理由の一つに、言語が共通であることが上げられます。70年以上前に、私たちの父たちは、祖国日本を守るため、家族を守るため、屈辱を選ぶことなく、名誉を掲げ、圧倒的に優勢なアメリカ軍に挑んでいきました。勝者は、敗者に深い畏敬の想いと、戦争の虚しさをずっと持っていたに違いありません。日本は強かった。勝者は名誉ある日本人をそう讃えました。ベトナムはアメリカに勝ちました。単一民族はこれだけ勇敢で強い。中国は漢民族が多いとはいえ多民族国家で、言語は多様です。軍の士気は非常に弱く、逃亡が多いために、毛沢東は背後にも兵隊を配置したそうです。言語というのは、無くなれば文化は途絶え、やがて国家が滅んでいきます。言語を大切にすることは、大きな意味がある所以です。
    また、政治の世界ではなんと英語や抽象的な言葉が多いことでしょう。それらの言葉を多用すれば頭がいいと思っているのでしょうか。具体的な言葉が必要なのに抽象化して誤魔化してしまう。英語を使えば何故か高級に思えてくるのでしょうか。私たちはこういう傾向を知らず知らずの内に、啓蒙されているのでしょうか。

     王朝文学を読むと、日本人に生まれたことを改めて認識し、沸々と湧き上がる喜びを感じます。日本語はなんと流麗で情緒(じょうしょ)溢れる言葉でしょうか。表現は細やかで洗練され、縦横無尽な言語群を如何様にも使用できます。パターン認識とでも呼ぶのでしょうか、漢字の形を眺めるだけで、すぐに意味を把握し、情景が浮かび、美しい形容の言葉をその頭脳に刻み込みます。
    人と人をつなぐのは言語です。
    大切なことは、私たち日本人が、日本の言葉を美しいと思い、そこに誇りを持つことだと思います。
    日本語を大切に扱い、それを誇りにして世界に発信する日本でありたいと思うのです。






    2016年3月23日(水)
    「物言いと人間関係」  清川診療所 所長 坪山明寛

     春のお彼岸を待っていたかの如く、咲いた花があります。待ちに待っていた花です。春の光を浴びて、秀吉好みの金色に輝いています。
    そうです、福寿草です。今年の大寒波では、庭の花がこっぴどくやられました。君子欄が最もひどく無残な姿です、でも花芽が伸びてきています。
    毎日頑張れよと応援しています。そんな中での福寿草との再会です。嬉しくて叫びたくなるくらいでした。
      再会の雄たけび抑え福寿草 明寛
     福寿草を見つめていると、心の中にほんわかと温もりが広がってきます。花を見つめて耳を澄ましていると、花弁の姿が、艶が、そして黄色い色が存分に語りかけてきます。
     ~今年の冬は、寒いでしたね。お元気でしたか?私も必死に耐えていましたの。皆が待っていてくれるだろうから、ここで挫けてはいけないと、頑張りましたの。良かったです、こうしてまたお会いできて~
     私は、掌で抱きしめてありがとう!と叫びたかったけど、か弱い花がちりぢりになるので堪えました。
     そうだある人を思い出しました、福寿草を眺め、ほんわかな気分になっている時。その方に会うと、いつも優しい穏やかな心地になるのです。
    高齢のお婆さんです。毎月一回きちんと、お世話されている方と診療所に来られます。皺は深く多いけど、とても柔和な表情をされています。若い時には、相当に美しい方だったろうと思われます。
     手を借りながら、診察室の椅子に座られると、私の顔をしっかり見てから「お世話になります」と言って、頭を丁寧に下げられます。
    耳は少し遠くなっているけど、私の尋ねることにも、ひと言ひと言ゆっくり、丁寧な物言いで答えてくださるのです。
    私も自然と穏やかな物言いになってくるのを禁じえません。
     診察が終わると、またしっかりとお辞儀して帰られます。帰り際でした、介護の方が言われたのです。「この方が、どんな嫌なことを言っても許せるし、どんなことでもやってあげたくなる」と。
     それを聞いて、私はとても心を揺さぶられました。おそらく日常の間、あるいは長い月日の間、いっぱい大変なことがあるでしょう。
    介護される方も、カチンとくるようなこともあるでしょう。でもこのお婆さんの物言いで言われたら、介護の方は我慢するのではなく、許せると言われるのです、許せると。
    物言いが、人間関係で大きな力を持っていることを教えられました。物言いが、人間関係の有り様を左右すると言ってもいいでしょう。
     渡辺和子さんという方がおられます。岡山にあるノートルダム清心学園の理事長さんをされています。以前読んだ本の中に「『の』の字の哲学」ということが書かれていました。
     どういうことかといえば、誰かが「寂しい」と言ったら「寂しいの?」と言ってあげるのだということです。
    もし「えっ寂しい。そんな甘えたことを!」と言えば、相手は更に心が折れて、二人の間には大きな溝ができてしまいます。
    でも「寂しいの?」と優しく応じれば、“ああこの人は私の寂しさを受け止めてくれた”と感じ、相手の人はひと呼吸できて、安心が心に広がるのです。
    そして二人の間に温もりと信頼が醸成されるのです。まさに「『の』の字の哲学」は、人間関係における物言いの大切さに通じていると思います。
     介護の方に、何でも許せると言わせる、このお婆ちゃんの物言いの穏やかさは、渡辺さんの「『の』の字の哲学」にも勝るとも劣らない力をもっているのです。
    「たかが物言い、されど物言い」です。私達も一層努力して、「『の』の字の哲学」を心に留めながら、物言いには十分気をつけて、福寿草に負けないような、温もりのある語り合う診療を目指していきます。
      惜しげなく満面の笑み福寿草 明寛





    2016年2月22日(月)
    「なぜなの・・・」  清川診療所 所長 坪山明寛

     立春が過ぎ雨水となっても寒さを感じる、まさに余寒だ。でも日は永くなった。仕事を終える頃には、診療所隣の保育園児が思い思いに遊んでいる。竹馬の練習、追いかけっこ、砂遊びする子と元気いっぱいだ。
      子らの影やや短めに日永かな 明寛
    よちよち歩きの子が私の方に歩いてきた。1歳5カ月位の子だった。孫と同じ位だったので、愛おしく思え「こんにちは」と声をかけると立ち止まった。手を振るとその子もちっちゃな手を振った。その可愛い反応が、仕事の疲れを和らげたのだった。幼子が傍にいることは、大人にとって大切だ。可愛いからではない、勿論将来世話になるという打算でもない。子供に教えられることがあるからだ。
     ドロシーさんは「家族はいっしょに学ぶ仲間です」と書いている<いちばん大切なこと>。私は趣味で俳句を作る。どこの結社にも属さない自己流俳句だ。作句は通勤途中が多く、1時間に3句できることもあれば1句もできない事もある。高浜虚子の「俳句は客観写生の詩である」を肝に銘じているが、なかなか上手くいかない。
     でも先日極意を学んだ、しかも1歳7カ月の孫から。妻がメジロンダンスを聞かせ踊った。孫は一瞬きょとんとした。「さあ踊ろう」と誘うが動かない。妻の踊るのをじっと見ていた。そして2回目の曲を流し始めると、なんと踊りだした。上手ではないが可愛い仕草で踊った。「じいじ」と私にも踊れと誘うが、覚えていないので踊れなかった。私と孫の違いは、心構えの差だった。私は傍観者の心境だったが、孫は面白い!憶えようと妻の所作を凝視していたのだ。孫の姿勢は写生俳句の心構えに通じる気がした。「しっかり対象を観る」という心構えこそ写生俳句の神髄だと改めて気づかされた。
     「家族は一緒に学ぶ仲間」なのに、なんということか、「3歳児虐待死」の記事があった。しかもだ、この犯人は「やることはやった、人生に悔いはない」と言ったとある。さらに虐待の理由は「夕食時に自分にガンをつけてきたので頭にきた」とあった。ああ今この文を書いていても胸苦しくなる、空しい・・・。犯人に浴びせる言葉は封印する。ただ怯えたまま亡くなった子供に謝りたい。大人社会が守れなかったことを・・・。

    「なぜなの・・・」 坪山明寛

     つぶらな瞳を
     あどけない口元を
     今わたしは正視できないでいる
     あなたは何を見たの
     あなた何をいいたいの
     ただひと言でしょう・・・ね
     「なぜなの・・・」と
     ごめんなさい
     大人たちは答えられないでいるのです
     言葉を失い
     呆然として涙を流しているだけなのです
     あなた達の笑顔を守れなかった無力さ
     あなた達の夢を守れなかった悔しさ
     あなた達の未来を保証できなかった虚しさ
     背負わされた罪におしつぶされ
     沈黙し頬をぬらしているだけなのです
     ああ喉がつまりそうです
     つぶらな瞳よ
     やわらかき頬よ
     これだけは約束します
     あなたの「なぜなの・・・」を
     忘れはしない
     決して風化させることなく
     問い続けます
     自分に
     あなたの静かな疑問を
     「なぜなの 私の命はなぜ奪われたの・・・なぜなの?」


    幼い子供たちの命を守れる大人社会でありたいと、強く願うこの頃です。





    2016年1月18日(月)
    「楪(ゆずりは)に寄せて」  清川診療所 所長 坪山明寛

      清川町のみなさま
      明けましておめでとうございます
      本年も診療所をよろしくお願いします


     丙申の年が明けました。皆様が健康で過ごされますように、診療所・もみの木・三つ葉の職員は、全力で汗を流していきます。
     さてお正月といえば、門松、注連飾り、床飾りなどのお正月飾りがつきものだ。門松は歳神様が訪問する目印、注連飾りは神様がお隠れにならないように出口を閉じる鍵、鏡餅は神様の象徴の意味を持っている。
     小さい頃、年末になると正月を迎えるために、父の手伝いをさせられた。近くの山に行き、ウラジロと楪(ゆずりは)をとってきた。また清めるためにシラスを家の周囲に撒いた。シラスは、太古に火山の大噴火で堆積した火山灰で真白な土だ。注連縄を玄関に張る時、ウラジロと楪を真中に添え、炭・里芋・橙を括った。父は注連縄を張りながら、炭は肌が黒くなるほど元気であること、里芋は子だくさんを、そして橙は代々家が栄えるようにという意味を教えた。ウラジロは心にふた心がない、真白は心で生きよということだった。鹿児島の鏡餅飾りは、半紙にウラジロを乗せ、その上に楪を八の字に置き、その上に鏡餅を載せていた。楪は枕草子第47段(伝能因所持本)に、「譲る葉のいみじう ふさやかに 艶めきたるはいと青う清げなる・・」(ゆずり葉が、とてもふさふさと艶々しているのは、清々しくすばらしい・・)とある。平安時代の頃から、めでたい時に使われていたようだ。
     なぜ楪を置くのか、父の説明はこうだった。
    人は死んで行く。これは仕方のないことだ。だが子供は親より早く死んではいけない、そのことを願って楪を飾るのだと。どうして楪なのかと言えば、楪は若葉が成長すると、古い親葉が一斉に落ちる。このことが、子供が育ってから親が子供に代を譲る様子に似ているので、譲り葉と命名されていて、親から子へと順調に順番に、次の世代が育つめでたい植物なので正月飾りに使うのだ。
     古より逆縁は悲しまれてきた。仙巌禅師の逸話にこんな話がある。正月に、役人が禅師におめでたい言葉の揮毫を頼んだ。禅師は「祖死親死子死孫死」と書いた。役人はなんて不吉な事だと怒った。すると禅師は「じゃあ、孫死子死親死祖死」が良いのかと言ったという話だ。確かに逆縁ほど不幸なことはないのだ。父が正月飾りをしながら、楪を置く意味を語ってくれたことは、しっかり私の心に刻印されている。
     詩人河井醉茗に「ゆずりは」という詩がある。紹介する。

      「ゆずりは」 河井醉茗

    こどもたちよ、
    これはゆずりはの木です。
    このゆずりはは
    新しい葉ができると
    入れ代わって古い葉が落ちてしまうのです。

    こんなに厚い葉
    こんなに大きい葉でも
    新しい葉ができると無造作に落ちる、
    新しい葉にいのちを譲って—。

    こどもたちよ、
    おまえたちは何をほしがらないでも
    すべてのものがおまえたちに譲られるのです。
    太陽のまわるかぎり
    譲られるものは絶えません。

    輝ける大都会も
    そっくりおまえたちが譲り受けるものです、
    読みきれないほどの書物も。
    みんなおまえたちの手に受け取るのです、
    幸福なるこどもたちよ、
    おまえたちの手はまだ小さいけれど—。

    世のおとうさんおかあさんたちは
    何一つ持っていかない。
    みんなおまえたちに譲っていくために、
    いのちあるものよいもの美しいものを
    一生懸命に造っています。

    今おまえたちは気がつかないけれど
    ひとりでにいのちは伸びる。
    鳥のように歌い花のように笑っている間に
    気がついてきます。

    そしたらこどもたちよ、
    もう一度ゆずりはの木の下に立って
    ゆずりはを見る時がくるでしょう。


    お正月飾りの楪は、大人にも子供にも生きるとは?について多くを示唆してくれる。
    次第に日本古来の行事が廃れていくのが現状だが、伝統行事には、その国の芯になる教えが刻まれていると思う。グローバルという名のもとに、日本古来の価値観が薄れゆくのを憂う気持ちになるのは、私が年取った証だろうか。そうだとしても、私としては、父が私にしてくれたように、孫達が理解できる年頃になったら、お正月飾りの由来を語ってあげたいと思う。
    ゆずり葉の生きざま胸にこの年を 明寛
    最後になりましたが、今年が皆様方にとり、佳き年でありますことを、お祈り致します。





    2016年1月13日(水)
    「翌朝のポトフ」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

     寒くなってきた。
    先日長女が帰省して、由布院の湯の坪通りを歩いた。北の空を見上げると、虚空の青空に凛と立つ由布岳の雄姿が美しい。
    しかし美しい青空を塞ぐ、この電線はなんだ。憤りを通り越して悲しみが湧いてくる。
    軒先からも、これでもかと言わんばかりの看板や旗がひしめいている。
     由布院の町にとって大切なものは、「緑と空間と静けさ」と聞いた。空間を台無しにしていると思わないだろうか。
    せっかく遠い所から来てくれた方々に、こんな風景を見てもらうの?空間を大事にするなら、電線や幟は無用じゃないの?
    由布院は観光資源の町であり、それを大切に扱い、また守り続けることが必要です。
    外国では電柱は目立ちません。ヨーロッパであれば石灰岩を切り出した空間に敷設したり、景観を大切にする条例や風潮があると聞きます。
    日本は無電柱化が非常に遅れていますが、先ずは観光地からの努力をお願いできないでしょうか。
     湯の坪通りは寒いが、相変わらず観光客が多い。
    さて、底冷えのする由布院から帰宅し、温かいポトフを作りたいと思った。お正月の忙しい妻を労いたいと思った。
    じゃがいも、人参、玉葱、冷蔵庫には、きのこ類、キャベツがたくさんあった。先ずは適当に切ったベーコンを炒め、適量の水を注ぎコンソメを投入する。
    今回はボルシチ風に赤みを演出し酸味を感じたいので、トマトジュースを入れた。
    大きめに切った野菜類を堅いものから順番に入れ、最小の温度で煮込んだ。最後に美味しいソーセージを入れて再び煮込みながら、塩、胡椒で味を調えた。
     バケットと一緒に温かいポトフを食べる。味が幾重にも染み込んで幸せを感じた。
    料理を家族のために作ることが無くなって久しい。時々帰省する娘たちに、あり合わせの料理を提供する。
    美味しいかどうか分からないが、一生懸命に作りたいと思う。食べながら、自分も家族もなんとなく嬉しい。
     大きくて深い鍋に入った翌朝のポトフは、長女が帰京した後も残っている。









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