山田新一と戦争記録画
Mr. Shinichi Yamada and Pictures of War


[2012/02/01 更新]
あなたは、2011年9月2日以後 人目の訪問者です。

 私の伯父(詳細はこちら(http://www17.plala.or.jp.yoshio-box/picture-yamada.html)をご覧ください)。戦時中、朝鮮画壇の中心的人物であり、戦後は日展審査員、日展評議員、日展参与なども務めた洋画家であった。この絵は、私が結婚したときにお祝いとしてもらったもの(ちょうどA4くらいの大きさ)を額からはずしてスキャナで取り込んだものである。
ユングフラウ(山田新一)

最近入手した「雑賀崎」

その他

 私は、大学に入学して2ヶ月ほど京都の伯父のところに居候していたが、伊丹に下宿を見つけてからは、年に2,3回しか伯父の家には行っていない。さらに、就職して結婚してからは数える程しか会っていない。その伯父も1991年に亡くなった。
題がついていない色紙(山田新一,母所蔵)

 なぜ、今ごろになって伯父のことを書こうと思ったかというと、最近伯父の故郷である宮崎県のローカル放送のテレビ宮崎が秘匿 〜戦争記録画151点〜という伯父を中心軸に据えた芸術祭参加番組を制作し、そのビデオを見て、興味をもったからである。そして、母(山田新一の妹)を伴って、宮崎市において画廊と画材店をもっておられ、伯父が生前非常に信頼をおいていた青木脩氏を訪ね、お話を伺い、また母の記憶を呼び起こして青木氏の伯父に関する資料作成に役立てて頂いたりし、さらに、伯父の残した大量の日記類等を見せて頂き、伯父にいっそう興味を引かれたからである。
 伯父山田新一は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業後、朝鮮に渡り、単なる画家としてでなく政治的な意味でも朝鮮画壇の中心的人物となった。「朝鮮美術展(鮮展)」を主宰したりして、朝鮮の占領政策にも荷担したので、現在の韓国では反感をもつ人も多いようだ。戦後は、京都に居を構え、その最初の仕事としてGHQの命により伯父を含む一部の画家達の意志により敗戦軍の焼却処分から免れた「戦争記録画」の回収に携わったそのため、戦争記録画を描いたりして戦時中の軍部に協力し、戦犯として裁かれることを怖れた画家達からは、「仲間を売る気か・・・。」といった非難や中傷を受けたらしい。実は、この仕事は最初、戦時中軍部に協力した画家の中心的人物の一人である藤田嗣治(私と同じ苗字であるが姻戚関係はない)にGHQから依頼があったのだが、藤田嗣治は足にギプスをして骨折を装って、その任を免れたそうである。その結果、伯父が引き受けることになったのであるが、その任を引き受けた後、家に帰ってみるとギプスを取り外した藤田嗣治がやってきたので、伯父は驚いたそうである。このことは、母からも以前に聞いたことがある。身内の身びいきかもしれないが、藤田嗣治は、戦時中、陸軍美術協会の理事長として戦争に荷担したという十字架を、戦後日本を脱出しフランスに行くことで振り落としたと感じられる。それに対して伯父は、(生き方そのものには反発を感じる部分も多いが、)少なくともその十字架を背負い続けたと言う意味で、筋は通っていると感じる。(2000年9月13日号のニューズウィーク日本語版に「戦争画」展が9月に東京の「ギャラリー川船」で開催されることが記事になっていたが、その中で「戦争画」を収集した人物を藤田嗣治と書いてあった。しかしこれは間違いである。同展覧会の主催者である笹木繁男氏にちゃんと取材していれば間違わなかったはずである。)
 その後、日展審査員、日展評議員、光風会理事、京都工芸繊維大学教授、日展参与などを歴任したが、絵のことを知らない私の感じでは「ちょっと偉いらしい伯父」という印象であった。
 居候をした私自身の直接的な印象は、「画家というのはなんと感情の起伏の激しい人種なのか!」というものであった。よくあることだが、身内あるいは自分が気に入った人は、非常に可愛がって面倒見が良く、私が阪大基礎工学部に現役で合格した(大分の田舎の高校生が阪大に現役でパスするとは思っていなかったらしい)ことを事のほか喜んで、知人に私のことを「すごく頭が良いんだ。」と紹介して私を閉口させていた。家庭では、とにかくひどい「かんしゃく持ち」であった。伯母と祖母は大変だったようだ。
 ここで、山田新一の略歴を紹介しておこう。
事         項
1899台北市に生まれる。原籍宮崎県都城市。
1906 青森師範付属小学校に入学、以後父の転勤により各地を転々とし、栃木県矢板小学校尋常科卒業。
1912 都城の祖父母の所から宮崎県立都城中学校に入学。
1917 都城中学校卒業。上京して、川端画学校にて学ぶ。
1918 東京美術学校(現東京芸大)洋画科に入学。藤島武二に師事。
1923 東京美術学校卒業。同研究科に入学。佐伯祐三、江藤純平、深沢省三等と薔薇門社を結成。毎日新聞社主催日本美術展覧会(帝展は休会)に「裸婦」出品・入選。京城府に移住し、京城第二高等普通学校講師になる。
1925 総督府主催朝鮮美術展に「花と裸婦」出品・主席受賞。特選9回。昌徳宮賜賞受賞。朝鮮美術展参与になる。
第6回帝展に「リューシャの像」出品・入選。以降、帝展・文展・奉祝展・日展に出品。
1928 京城第二高等普通学校を退職し渡欧、パリにてアマン・ジャンに師事。サロン・ドートンヌに「ヴォーレアル風景」出品・入選。この年の8月に親友佐伯祐三パリにて死去。
1929 サロン・チュイレリーに2点招待出品。サロン・デ・アンデパンダンに出品。サロン・ドートンヌに2回入選。
1930 帰国。帝展に「読後」出品。
1937 京城府青葉町にアトリエを作る。
1938 陸軍美術協会会員となり朝鮮軍報道部嘱託(美術班長)になる。
1945 敗戦により引揚げる。引き上げの前にちょうど朝鮮での展覧会のために集められていた戦争記録画を軍からの処分依託に従わず秘匿し朝鮮の知人等に預ける。
1946 京都に定住。5月5日ころから6月8日ころに掛けて、GHQの命により、秘匿された「戦争記録画」の回収に携わる。
1948 第34回光風会展に「画友」他一点を出品。風光会々員となる。
1949 光風会審査員となる。美術家団体連合展に出品。
1950 第4回日展出品「湖上客船」岡田賞となる。
1951 日展委嘱出品となる。
1952 ヤマダ洋画研究所およびアトリエを開く。
1953 光風会評議員に就任。京都市美術展審査員に就任。
1954 日展審査員に就任、5回務める。
1955 日展会員になる。
1958 京都工芸繊維大学教授に就任。
1962 日展評議員に就任。
1963 京都工芸繊維大学定年退官。
1966 京都女子大学教授に就任。日仏文化交流の功により、フランス政府より芸術文化騎士十字章を授与される。
1967 関西日仏学館教授「美術」となる。
1971 光風会理事に就任。京都市美術館評議員に就任。
1975 日展参与となる。京都府美術工芸功労者として府知事より表彰される。
1976 フランス政府より国家功労騎士十字勲章授与される。紺綬褒章を受章。京都市文化功労者として京都市長より表彰される。
東京・京都高島屋にて喜寿記念回顧展を開催。
1979 光風会名誉会員となる。
1980 「素顔の佐伯祐三」を中央公論美術出版より出版。
1982 都城市にて、山田新一回顧展開催。
1984 宮崎県100年記念事業として、宮崎県主催により山田新一画業60年展開催。
1986 4月より、NHK京都文化センター美術部指導者に就任。宮崎、京都、東京にて米寿記念「山田新一画業70年展」を開催。
1991 死去


 さて、本題の「戦争記録画」の件について書こう。まず、述べるべきは、山田新一という人物がかなりの記録魔であったことである。先日青木氏を訪ねたとき、同氏が伯父の生前からの約束で引き取った、伯父の日記類を見せて頂いた。それは、数10冊の色々なノートにごま粒くらいの解読困難なくずし字でびっしりと書いてあった。
びっしり文字が詰まったノート。
よくこんなに書いたものである。
上半分は金銭出納帳である。

 これを解読することを考えるととにかく途方にくれるような量であった。ただ、その中で戦争記録画の回収に関する昭和21年5月6日から、6月8日までの分のみは、かなり大きな字でかかれてあり、これについては、青木氏が大体の解読を終えていた。青木氏のご好意でこれのコピーを頂いて、母が再度解読を試みそれを基に現在見なおし作業を行っている。(2006/09/04)
 上記作業と、文中に出てくる韓国人の名前を伏字にして欲しいという青木脩氏の要請をやっと完了したので、別ページに掲載した。(2011/08/26)
上の写真は、戦争記録画回収記録の一部
5月27日、自分が描いた
天津南海大学附近払暁野砲戦闘図」を
見つけたときの状況の記録。
下は、上の写真の記述を母が解読し、
私がチェック・修正したもの。

・・・朴徳淳君、厚生部長に会ひ、更に府民館でアンダーソン少佐[注1]に会ふ「天津附近戦争」図行方わからず 朝鮮人通訳の言をたよりに長谷川町YMCAに行く、ホテルになっている デスクサージャント良い男、ロービール加納[注2]の絵と相対して完全に保存されてゐる 兵隊隊[注3]みんな寄って来て、良い絵だって[注4]誰でも誉めているよ、貴方がこれを描いた画家か−−−と歓待してくれる うれしい

[注1]5月19日の記録までは「アンダーソン大尉という記述があり、23日にも「大尉」という言葉があるが、ここで突然少佐」という言葉が出現する。多分書き間違いであろう。
[注2]この「ロービール加納」というのは画家の名前であろうか?2012/1/28島根県安木市の加納美術館館長、加納佳世子氏から「(ロービール)加納」とは氏のご父君の加納莞蕾画伯のことではないか、とのメイルを頂きました。いくつかの状況から考えて、今は、ほぼそうであると考えている。
[注3]これは伯父の書き間違いであろう。「達」であろう。青木氏も「達」と読んでいる。
[注4]テレビ宮崎のビデオでは、「良い絵だっと読んでいるが、筆者は「良い絵だっ」と思う。
 さて、伯父が「戦争記録画」を敗戦軍の意図に(恐らく)反して、焼却せずに保存したときの経緯から述べよう。上記「テレビ宮崎」のビデオからは「画家たるの良心をもって処分する」と言って軍から処理を一任されたということである。そして、これらの絵を額から外して秘匿し朝鮮の知人らに預けた訳である。このとき、伯父はどんな積もりでそういった処置をしたのであろうか。一つには画家として作品を焼却するに忍びなかったというのがあったであろう。しかしそれだけでなく、伯父のいろいろな状況を的確に読む能力から考えて、何か、その後の回収等の可能性も視野に入っていたのではないかと思われる。ただ、その任が自分に回ってくることまでは予想しなかったであろう。(この辺りの事情については、いずれ、青木氏所蔵の日記類を調べた後、触れる積もりである。)
 回収した絵はGHQの手によって米国管理となったが、現在は無期限貸与という形で日本に返還され、東京国立近代美術館の収蔵庫に保存されているそうである。作品リストは、上記美術館のホームページの「所蔵作品検索システム」で、「複数の項目から調べる」をクリックし、「1.」の「作品種別の選択」で「戦争画」を選んで「検索」すると見ることができます(テレビ宮崎の番組タイトルにある「151」点でなく、「153」点あるが2点は大正の作品で別扱いとのこと)。ただし、これが一般公開されることは無く、個々の絵の作家の展覧会にのみ貸し出されるということである。ビデオで見る限り、伯父の上記の絵や猪熊弦一郎の超大作(1.8m×4.4m)、辻村八五郎の作品、その他の絵など見ごたえがある作品もかなりあると思えるので、実物を見てみたいものである。
 「戦争記録画」は軍としては国民を戦争に駆り立てるために描かせたものであろう。しかし、動機がどうであれ、描かれた絵自体には素晴らしいものもあるはずである。例えば、私は既存の宗教、例えばイスラム教やキリスト教、には反発を感じるが、それが作り出した音楽には素晴らしいものが多いと思う。どういうきっかけで芸術行動が起きたかに関わらず、芸術行動と作品そのものは普遍性があることが多い。
(作成中)
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 2014年11月10日(日)、家内の実家(岡山県北)に行ったついでに島根県安来市にある加納美術館を訪れた。ネットでは何回かやり取りをしていたが、突然お訪ねしたにもかかわらず、同館館長の加納佳世子氏にはとても歓待して頂き、ご父君加納莞蕾氏のことや戦争画のことを色々とお話した。納莞は戦争画のことはご家族にはほとんど話していないとのことで、筆者にその辺りのことで何か判明したら教えて欲しいとのことだった。しかし、未だにそれにお応えできていない。
 2013年9月25日、都城の山田家の墓の掃除に行った。このとき、旧山田邸跡地に住まわれているお年寄り(50年ほど前に当地に嫁いで来たそうだ)と話をすることができて、山田家のことを覚えておられた。母はそのことを大変喜んでいた。
 2012年1月28日、安来市(島根県)にある加納美術館館長の加納佳世子氏からメイルを頂き、このページにある「(ロービール)加納」とは、同氏の父君の加納莞蕾のことではないか、とのご指摘を頂いた。同館のHP(http://www.art-kano.jp)によると、莞蕾は昭和12年から20年にかけて朝鮮において従軍画家として活動したとのこと。莞蕾は戦後、フィリピンの日本人捕虜の解放に重要な役割を演じた人としても知られている。「ロービール」という名前については加納佳世子氏も記憶に無いとのことなので少し不明な部分もあるが、「ロービール加納」が加納莞蕾である可能性は非常に高いと考えられる。同じ地で同時期活動した仲間として当たり前の存在でなければ、「・・・ロービール加納の絵と相対して完全に保存されている」というように当然のことのようにには書かないと考えている。以前からの謎がほぼ解けた。
 莞蕾の戦争画の内1点は上記に出てくる「ロービール加納の絵」と考えられるが、東京国立近代美術館に米国から無期限貸与されている戦争画の中の「山西省潼関付近の追撃戦」がそれであろう。ただし、同館の所蔵品リストでは作者名が「加納完雷」と誤字になっており、正しい作者名では検索されない。
(2012/4/1再度同館の所蔵品リストを見たら誤字が修正されていた。筆者が出したメイルが功を奏したらしい)
2012年11月19日(土)、20日(日)に再度、都城市立美術館に行き、素顔の佐伯祐三と山田新一」を見た。今回は行事が無かったので、ゆっくり見ることができた。ついでに、山田家があった所にも行って見た。狭い路地の奥に大きな邸宅があり、母も懐かしがっていた。更に、山田家の墓にも行って家内が墓地の草取りなどをした。墓地には江戸時代の墓石もあり写真を撮ったが、そのままでは字が判読できない。次回には白い布を持ってゆき、水で濡らして貼ることで文字を写そうと考えている。
 余談だが、山田家の墓地の名義人が曖昧になっていたので、市役所に必要書類を提出して筆者(最初の名義人山田新助の孫)が名義人となるように手続きをしてきた。
 2011年10月13日(木)から15日(土)にかけて、素顔の佐伯祐三と山田新一」という都城市立美術館創立30周年記念事業に伴う展覧会の開会式典と内覧会に母を連れて行ってきた。母は、生きている佐伯祐三のことを覚えているほとんど唯一の生き証人ということで、美術館員から色々と質問を受けていた。また、山田新一の家系等についても聴かれていた。95才まで生きてきた母の記憶がなんらかの役に立てられて、よかったと思う。
 2006年9月2日(土) 宮崎市の青木画廊で、「戦争記録画と戦争被害者・山田新一展」が開かれていたので、母、家内を伴って、見に行った。戦争画に関するかなりの資料も展示されていて、青木氏ともいろいろと話すことができた。また、山田新一の戦争画収集の手記については、既に母と解読を済ませてあるが、これの登場人物名を伏字にしたものは、Web公開しても良いとの了解を得たので、作業ができ次第公開の予定である。青木氏もかなり着実に戦争画収集の経緯について調査しているようで、ほぼ、8割方裏付資料の収集ができているらしい。信頼できる人だ。
 青木氏が山田新一から聞いた話しでは、「上海南海大学付近払暁野砲戦闘図」については、山田新一が将校につれられて戦場に行ったときには既に戦闘は終っていて、砲弾の薬莢が集められて山積みされていたが、その薬莢を再度、戦闘時のようにばらまかせたのをスケッチしたとのことであった。また、兵隊の配置等については、前に書いたが、母によると野砲を山田のアトリエに引いてこさせて描いたとのこと。それゆえ、この絵については、山田自身、「現場を見ていない作り物」との意識があり、あまり評価していなかったとのことである。
 また、戦争画を山田がどういう気持ちで描いたかについては、少なくとも、戦争中は、その時代に画家などの芸術家が「お国のために役に立たない」と評価されたことから、山田もなんとかしてそういった評価を払拭できないかと考えていたので、「これで国の役に立つことができる」という気持ちがかなりあったらしいということが青木氏との話で判明した。ただし、そのことと、絵の内容そのものについて乖離があったことは、「俘虜二人」や「朝鮮志願兵」などから伺える。
 戦後、戦争画を描いたことについての責任を感じたか、ということについては、ある部分は責任を感じていたし、ある部分では、仕方がなかった、という思いの両面があったように思う。そのジレンマに自分自身でも苛立っていたのではないかと思う。それと、戦争画収集に携わったことによる、かって仲間であった画家達からの非難や中傷に対する苛立ちは、2ヶ月ほど山田家に居候をしたときに感じた。

 2003年1月31日(金) 以前から進めていた、山田新一の戦争画回収の手記の解読作業がほぼ完了した。この作業は、現在の手記の所有者である前記青木脩氏よりコピーを頂いたものを、山田の妹(筆者の母)が一応の解読をした後、筆者が前後の文脈や論理的整合性等から再度検討し加筆修正するという手順によった。この結果の扱いについては現在青木氏にご意見を伺っているところである。現在のところ、まだ生存している人を実名で含んでいるので、公開は控えた方が良い、との青木氏の意見である。

 2003年1月27日(月)19:30〜21:30 NHKのハイビジョン放送で「さまよえる戦争画〜従軍画家と遺族たちの証言」という番組が放映された。その番組を見る限りでは、戦争画の一括公開に対しての姿勢にいくらかの違いはあるものの、ほとんどの遺族達および収録時生存していた画家本人も一つの事実として公開することには意義があると考えているようだ。
 特に、この中に出てくる小川原脩さんの「みんなおっかない物に触らないようにしている。しかし戦争画はある。今実在している。その実在の責任は自分にある。それに尽きる。戦争画の問題はこれからもずっと継承としてつながっていく。責任を私がもたないと一体誰がもつのかという気持ちです。」という言葉は重みがある。この番組で登場する清水登之の娘・中野冨美子氏や宮本三郎の孫・宮本陽一郎氏は「戦争画を一つの事実として公開するべき」との考えを持っているようであり、筆者もその考えに賛成である。両氏とは一度話しをしてみたい。
 ただ、この番組では、山田新一について全く触れていない。現在、戦争画が残っているという事実をもたらしたキーパーソンについて全く言及されないというのはちょっと不思議である。本ページの最初の方で書いたテレビ宮崎が先に放映してしまったのでNHKのメンツでもあるのだろうか?
 2002年12月20日、近藤史人著「藤田嗣治「異邦人」の生涯」を読んだこれを読むと、藤田嗣治も戦後画壇や社会から戦争責任を集中的に負わされそうになっている。藤田がフランスに行ってしまったのもそれが大きな要因だろう。
 2002年3月6日(水)、東京出張のついでに、国立近代美術館で開催されていた「未完の世紀:20世紀美術がのこすもの」を見に行った。戦争画の展示室には、小磯良平「娘子関を征く」、宮本三郎「山下・パーシバル両司令官会見図」、中村研一「コタ・バルB」、山口華楊「基地に於ける整備作業」、鈴木良三「患者護送と救護班の苦心」、山田新一「天津南海大学附近払暁野砲戦闘図」、川端龍子「輸送船団海南島出発」、清水登之「工兵隊架橋作業」、藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を全うす」、鈴木誠「皇土防衛の軍民防空陣」が展示されていた。これだけの作品が一堂に会するのは非常にまれなことであろう。
 藤田嗣治の「サイパン島同胞臣節を全うす」には驚いた。戦争画は、軍部としては戦争を鼓舞するために描かせたものと思うが、この絵の内容はむしろ逆で、ややパターナリズムの傾向はあるものの戦争の悲惨さを表現することに心血を注いだという感じが強い。このような絵を描いたことに対し軍部はどんな反応を示したのであろうか。藤田嗣治の他の平時の作品は私にはピンと来ないけれど、この絵はかなりすごいと思う。藤田の他の戦争画も見てみたいものである。
 この藤田嗣治の絵にしろ、山田新一の「英国人俘虜二人」(大きい画像)(青木画廊所蔵)や「朝鮮志願兵」にしろ、不本意にも軍部に協力したとは言え、内心、軍に反発するものがあり、それがなんらかの形で滲み出しているものであることが感じられる。
 2002年2月2日(土)、宮崎県立美術館で開催されていた山田新一展」に母と女房を伴って行ってきた。これまで、伯父の絵はあまりピンと来なかったのだが、本物を見てみると予想外に訴えかけるものがあった。
 青木画廊の青木脩氏とも話をし、山田新一に関する資料の整理状況を見せて戴いた。また、山田新一が事細かにつけていた現金出納帳を見ながらなかなか興味深いお話を聞かせて戴いたが、これについては、適当な時期を見て書くことにする。

参考サイト

参考文献
  1. 近藤史人、"藤田嗣治「異邦人」の生涯"、講談社、2002
  2. "−画業70年の軌跡−山田新一展"、宮崎県立美術館、2002
  3. 丹尾康典・河田明久著、岩波近代日本の美術1
    "イメージの中の戦争 日清・日露から冷戦まで"、岩波書店、1996
  4. 大内要三編、朝日美術館 テーマ遍1 "戦争と絵画"、朝日新聞社、1996
  5. "東京国立近代美術館所蔵品目録"
    水彩・素描 書 彫刻 資料 戦争記録画、東京国立近代美術館、1992
  6. 笹木繁男、"戦争画資料拾遺"、LR、No.11〜No.24、1999.1〜2001.3

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